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哲学いろいろ

#14

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§14

ウェーバーは 《二種の資本主義的な行動の対立》(§2・2p.242)ということを 歴史の中に捉えて言う。わたしたちの観点からみれば これは 利己主義の精神(素朴なガリ勉)による古い重商主義と そして禁欲を掲げる合理的な新しい重商主義ガリ勉との 対立であって そのわけは それらの二種の精神のあいだのどこか一点に 利己心を否定しないで譲歩し肯定しつつも 禁欲の呪縛に陥ることのない 同感の主体たる精神を見ているからである のだが ウェーバーの論理でいくと この先行する同感の精神は そこで(二種の精神の対立の中で) 無力にされているからと見てのように その対立そのものを 価値自由に客観記述することを 目的とし そのことこそ 学問だというものである。

スチュアート期のイギリス国教会派 わけてもロード( William Laud )の思想に表われているような 国庫的=独占業者的色彩をもつ《有機体的》社会体制 即ちそうしたいわばキリスト教社会党的な下部構造のうえでの 国家および教会と《独占業者》との同盟に抵抗して ピューリタニズムは 自己の能力と創意にもとづく合理的な 合法的な営利への個人主義的起動力を対置させ したがってその擁護者たちは 徹底して そうした種類の国家的特権のうえに立つ商人・問屋・植民地的資本主義の激烈な反対者となった。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2p.241)

すなわち ここで 同感の理論者であるスミスも この後者・ピューリタニズムと同じように 前者・古い重商主義(その後裔)に 徹底的な批判を加えたのであるが 異なるところは 《営利への個人主義的な起動力を対置させ》なかった点 あるいは もう少し正確に言うと 《利己心に訴える》と訴えて その起動力を対置させたのだとしても それを 禁欲による使命としての職業労働なのだと わざわざ説教することは なかった点 にある。《自己の能力と創意にもとづく》ところは同じであろう。
少し長いが ウェーバーによるピューリタニズムの把握は あらためて要約する意味でも 次のようである。

生活上 他に好機をあたえられない人々の 低賃銀に拘泥しない 忠実な労働が神の深く悦びたまうものであるという見地は キリスト教のほとんどすべての派の禁欲文献全体に滲みとおっている。この点では プロテスタンティズムの禁欲それ自体はなんら新しいものをもっていない。けれども この見地をこの上もなく深く掘り下げた(=開発した)ばかりでなく そうした規範に 結局それがあってのみ規範が影響力を発揮しうるようなもの すなわち そうした労働を使命としての職業とみ また 救いを確信しうるための最良の――ついにはしばしば唯一の――手段と考えることから生じてくる あの〔《まんじゅうが こわい》と言い続ける〕心理的起動力を創造した。また 他面において この禁欲は企業家の営利をも使命たる《職業》と考えることによって この独自な労働意欲の搾取を合法化した。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4) §2・2 pp.241−241)

こうしてウェーバー自身も われわれの見るように 精神の文化行為とむさぼり あるいは 精神による職業生活の開発と搾取とに言及しているようであるのだが かれは このことを 上に見たように 勤勉と倫理の領域における 古い精神と新しい精神との二種の――資本主義的な行動の二種の――対立というかたちで 捉える。これに対して スミスは 基本主観のよろこび 幸福な同感主体たる精神を主張したが これによって 批判すべきは批判した――具体的には 具体的な一同感理論たる重商主義の精神を批判した――にもかかわらず 市民の主観的な自由な生活行為と〔公民をになう〕市民の社会科学的な政策の形成と実践とに ゆだねているのであるから ただ 基本的には かれ自身の主観を 明らかにしただけである。
ウェーバーは 逆に 主観をきょくりょく抑えて――ただし 実際には プロテスタンティズムの倫理をはじめに持ち上げるかのような見解 または そもそもエートスないしエートス論を 声高に主張する見解として それは主観をあらわしている。もしそう言わなければならないとすれば 客観的な概念と倫理とで じっさいには 主観をあらわしているのだが―― 客観的な(または客体的な事実の)認識をもって 二種の資本主義的行動形式の 対立なら対立として 記述する。
ウェーバーの主観は 歴史という対象に向けての自己の 経験具体的な見解である。スミスのは 同感行為の自己展開たる基本主観 これを自分はどう把握するか(自己が自己をどう把握するか)にかんする見解である。しかも 極論すれば スミスの議論には ウェーバーのそれも含まれるが ウェーバーの議論には スミスの 先行する精神たる推進力のそれが 含まれていないか 含まれているとしても 保留されている。ウェーバーの 後行する心理の起動力にかんする議論は ウェーバー自身そのことを知っていて ただしくそう(つまり心理起動にすぎなかったと)主張したとも見る意見が成り立ちうるかも知れないにかかわらず スミスの土俵の上に立ったものである。
言ってみれば 国家という社会形態を単位〔主体〕とする自由と民主主義の精神 および 国家を用いて平等と民主主義を実現しようとする社会主義の精神 これらの二種の資本主義的な行動の対立として現代の世界にあてはめれば 捉え さらになおも客観的(価値自由的)に この対立は 《宗教上の対立ときわめて広い範囲にわたって手をつないでい》る(§2・2 p.242)といった観点からも そうしようと思えばそう味付けする ところの学問の行き方 これが ウェーバーのものである。この現代の世界にあって 前者の一種(仮りに 自由主義)は じっさい ウェーバーがのちになって批判するところの 禁欲的プロテスタンティズムの倫理から起こった資本主義である のだから 現代のウェーバー学徒は ほんとうのところ そのような一批判を継承してそこに立って 後者の一種(仮りに 社会主義)との対立を 議論しなければならない。
ウェーバーは 前者の自由主義を すでに《この無のもの》と言っているのだから この資本主義の精神を かれらは さらに徹底して批判すべきである。また そうでない場合は そうでない理由(つまり ウェーバー見解の欠陥)を 指摘して明らかにしなければならない。そして 新しい民主主義の精神つまり後者の社会主義に対しては こんどは その――やはりピューリタニズムの場合のように――初発の形態に対しては 有効な一つの同感理論だと 見るのであろうか。
それとも すでに現段階で 上に例示したように 二種の民主主義的な行動の対立と言ってしまって しかも やがて――今でなくとも やがて――やはり同じように《この新たな無のもの》という見方をとらざるを得ないようになるのだと 知っているからと言ってのように 《客観記述》の学問をくまなく大々的に おしすすめようとするのであろうか。そこに 《宗教上の対立》といった観点からも 味付けすることを怠らないということであるのだろうか。かんたんに 支柱をなくした有神論とそして無神論とだとは 言えないであろうけれど。だから ピューリタニズムとマルクシズム(ないしスミス)とではなく ウェーバーマルクスとというふうに 視点を立てることが 学問――学問一般――の正しい行き方であると 言うのであるだろうか。
これに対して われわれは スミスの行き方を正当にも対置することができる いな すでに正置されていて 継承してきており わづかに この行き方にとって 対岸の火事のごとく そういう宗教社会学(またその種の文化人類学など)が 燃えていると言うべきなのではないだろうか。
二種の資本主義的な行動の対立が 見られなかったわけではない。それぞれに その段階のつど 経済的なエートスが形成されていないというものでもない。だから 文化人類学の研究そのものは それとして 成り立つ。しかも 《ピュウリタニズムの創造した心理的起動力は 政府の権力に頼らない 部分的にはむしろそれに抵抗して生まれつつあった産業の建設に 決定的な助力をあたえることとなったのである》(§2・2p.242)――こういう表現の仕方でいえば そこに スミスの同感の理論・政治経済学も 参画しているはずだ――といった歴史の記述 および 言うとすればやがて新たな歴史として新たな二種の精神の対立を生んでのように 何らかの新しい《ピュアリタン》たちが起こったと・あるいは 起こるであろうときには その起こったことを やはり待ってましたとばかりに 客観記述することをもって 自己の学問の・いな精神の 行き方とすることは――価値自由の客体事実の把握じたいには―― じっさい わたしたち人間に ゆるしがたい一つの同感理論と実践なのである。
かれらは そのつど ほとぼりのさめた頃 自分たちも参画すると言い出して そのとき初めて 自己の同感(主観)を寄せてくる いな そのときにも じっさい 後行領域の経験行為には もともと 限度があるのだから それをよいことにして ここが欠陥だ あそこが悪いと言って 最後には(議論の締めくくりの最後には) 勝ち誇ったかのように 批判を浴びせてくるだろう。批判は自由だが その行き方の全体として わたしたちは これを許しがたいのである。やがて 《新人類》が誕生するとのことだ。つまり もはや ウェーバーの方法でも古いと言ってのように 文化人類学だとかポスト・モダニズムだとかと称して 新しい形の・しかもウェーバーと同じ行き方での ガリ勉学派の倫理と学問至上主義の精神が この世を制覇するというそうな。
最後にわれわれも ウェーバーの議論は 終始一貫して 無効なのならば無効だとして それを葬らなければならない。次の一節――おそろしく狂気じみた理解と判断――を見てみるべきである。

ピュウリタンたちは 神的なものと被造物的なものとのあいだの截然たる二者択一の立場にたって 旧約の外典アポクリファ)を聖霊によらぬものとして排斥した。それだけに正典(カーノン)のなかではヨブ記だけが つまり カルヴィニズムの思想とまったく一致し 人間の尺度をこえた神の絶対至高の尊厳への壮大な讃美と 他面では 神がその民をまさしく現世の生活――ヨブ記では現世の生活のみ!――において 物質的な点でも祝福したまうのが常であるとの 結局抑えがたく表われてくる カルヴァンには付随的だがピュウリタニズムには重要な確信 この両者が結合されているヨブ記が いっそう強い影響をあたえたのである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2pp.196−197)

《現世の生活のなかでとして 物質的な点でも祝福をあたえられる》ということは しかしながらウェーバーの理解していたところによると そのような《所有ということじたいとしての 敵からの誘惑》にほかならなかったはずである。逆に このことが確かに 《神的なものと被造物的なもの(特に現世の経済的なモノゴト)とのあいだの截然たる二者択一》として その前者を一義的にえらんだ結果 《祝福として与えられた》ものであるのならば これは 《現世の生活》の中でおこなわれるものであると同時に 基本的に その現世には属していないものなのである。
一方で 《基本主観の 回復と自立――再生と確立――》は ある種の仕方で 人間の基本主観を超えた力のはたらきによるものであり――それを受け容れるのは・そして確立へ向けて進むのは 人間の自由意志によるものであり―― 他方で 《仕事に対する報酬》は 当然の報いとして 現世の生活の二角関係協働から与えられる。すなわち 全体として 《すべてが祝福として与えられたものである》と表現することもできるし また 物質的に祝福されることは そういうふうに 現世の生活の必然経験の側から 基本主観の動態のほうに やって来るものであるとも見ることができるのである。
つまりこの場合 わざわざ《まんじゅうが恐い》とか《自己の主観判断をまじえるのが恐い》とか言っていない人の ふつうの勤勉および信用関係の 生活動態にほかならない。この世を出て行くわけではないとき 特にわかりやすい例として 経済的な活動が この世でおこなわれるというのは あたりまえの話である。ふたたび言いかえると 《人間的な尺度を越えた神への讃美(=告白)》と《人間的な尺度で測られる物質的な祝福》との《両者が 結合されている》のなら それは 被造物的なものに対して 神的なものを一義的にえらび愛した結果であって 《人間的な尺度で 職業労働を使命として自己目的化した》ことの結果のものでも ない。
ここでは 《ヨブ記では現世の生活のみ!》と理解する精神の さらに《心理的な起動力》が作用した とするウェーバーの理解は 通じない。もし通用するとならば それは 《神を讃美することが恐い》と言いつつ 現世の生活では 禁欲するガリ勉をもって 職業労働にいそしむとき その人が あまりにもあわれなのであって 他のまわりの人びとが その二角関係の過程で その協働の成果の分配を このあわれな人に より多くゆづったといった歴史が 生起するばあいだけである。

なぜ 悪人がしばしばさかえ 善人が不遇にくるしむのか という問題・・・この問題は ヨブのばあいには

  • と始めて トマス・ホッブズは 議論している。

神自身によって すなわちヨブの罪からひきだされた論証によってではなく 神自身の力によって 決定された。

  • すなわち二者択一というならば 被造物的なものに対して 神的なものが ヨブによって 勝義に えらばれ愛された。

すなわち ヨブの友人たちが かれのくるしみから かれの罪を論証し 他方ヨブは 無罪だという良心の自覚をもって自己を擁護したのにたいして

  • ここまででは まだ 単なる人間的な尺度での問題である。

神自身がこのことを取り上げ

  • ということは 今このように 人間が人間のことばで議論しているのにほかならないから 《神自身がうんぬん》というのは 《人間的な尺度を超えたもの》が《人間(人間的な尺度)》に宿る つまり 後者の人間が 前者の神を分有するということである。

わたくしが大地の基礎をおいたとき おまえはどこにいたか。
旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)38:4)

というような 神の力からひきだされた論証をもって くるしみを正当化し それによってヨブの無罪を是認するとともに かれの友人たちの謬説を非難したのである。
ホッブズリヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)2・31)

神 を言わないとしたら 単位的に二角協働の関係 これが 経験科学の論法で言って 一つの決定要因だというのである。ここでの譲歩によるくるしみは 正当化されると考えられた。正当化されたものの系譜が 一般的に基本的に 推進力である。
カルヴァンにも ピュアリタンたちにも このような――このような――ヨブの視点が 少なくとも 損なわれてはいなかった。《ヨブ記では現世の生活のみ!》と言い放つウェーバーの理解は 理解できない。狂気によって 被造物世界に すべての現世の生活を引きずりおろそうと 企んだとしか 考えられない。現世を超えた・もしくは ひとりの人間の意志の力を超えたことがらに対して 《こわい》と言いつつ 同時にこれをまったく恐れなくなった一精神の所産だとしか 考えられない。
禁欲的な学問の世界という立ち場にいるから 物質的な祝福も望まないと言えると言ってのように ウェーバーは この現世の生活世界に対して 輝ける狂気の星となったと 自己を主張したのである。ピュアリタニズムや資本主義の精神をも超えるもの それは このわたしの学問だと ほこらしげに 語ったのである。
アブラハムの系譜の人びとは じっさい きよらかなおそれを持って 此岸にいて わづかにその対岸で 狂気にも燃える火事 厚かましくもそこから彼岸をも説いてやまぬ鬼火の学問 これを知らないわけではない。これらの学問に励みそれを貴ぶ人たち かれらは それでも その基本主観において自分たちの職業 Beruf に 正当にも召されたのだと 言い張るであろうか。
対岸とは しんきろうとなって 雲の上にあり じっさいもんだいとして はかばのことである。この蜃気楼と墓場とに譲歩して だからその起動力に随いつつ 特に近代以降 その姿を現わしてきた市民社会の 真実の推進力となって わたしたちは――吹き出すなかれ――日夜たたかいつづけているのです。
(つづく→2005-10-08 - caguirofie051008)