caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§9

けれども やはり この《資本》論では 人間の法則(ないし人間学)は 隠れている。かくされている。人間を 《経済的範疇の人格化》たる個人として捉えたところで 出発すると言う。だから かくれている。
しかし けれども 《剰余価値》というとき それは 人間の法則――そこに見られる意図がどんなであって 法則に反するかたちであろうと――に かかわるものにほかならない。

100ポンド・スターリングで買われた綿花は たとえば再び100プラス10ポンド・スターリング すなわち110ポンド・スターリングで売られる。・・・この増加分 すなわち 最初の価値をこえる剰余を 私は――剰余価値( surplus-value )と名づける。したがって・・・価値は 流通において自己保存をするだけでなく ここでその価値の大いさを変化させ 剰余価値を付加する。すなわち 価値増殖をなすのである。そしてこの運動が この価値を資本に転化する。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・2・4〔貨幣の価値への転化〕・1)

ここに 人間を見ない人が しかも 経済的範疇の人格化ではないまず普通の人間がいないと言う人が いるだろうか。なぜなら

かの流通の客観的内容――価値の増殖――は 資本家の主観的な目的である。
(同上)

すなわち 《資本としての貨幣の流通は 自己目的である。・・・したがって 資本の運動は無制限である。/ ・・・そして 抽象的富の取得増大のみが 彼(資本家)のもっぱらなる推進的動機であるかぎり 彼は 資本家として または人身化せられ 意志と意識とをあたえられた資本として 機能する》(同上)からであり その場合のうち 《価値の増殖が自己目的であることのままを追求する人間が もはや〈人身化せられ 意志と意識とをあたえられた資本として 機能する〉》というときにも たといこれが レトリックなんかではない事態であったとしても そのように《資本を 人身化し それに意志と意識とをあたえる》のは 人間のはじめの意図であったからである。
仮りにもし 自己目的そのままの無制限な資本の運動が 社会のなかの生活を 大波のようにおおってしまい 人間はこれに圧倒され服従しているとしても 服従するという意図が はじめに=先行するものとして あった。あらざるをえなかった。つまり 自己の意志を自由に働かせ得ないことに 同意するという自由な意志による譲歩の意図が あった。つまり 経済的な範疇の人格化としてだけではない ふつうの人間。
このような見方を負け惜しみと言う人は 勝ち誇ったとしても その勝ち誇りは 人間としてではなく わづかに経済的な範疇の人格化たる個人としてのものでしかない。つまり 資本は勝ち誇るかも知れないが その人は 資本のどれいである。いや 負け惜しみとは言わないまでも やっぱりそのように人間の法則を言ったとしても それは 観念論だと見る人 そういう人は だから 経済的な範疇の人格化たる個人として勝ち誇らないとしても わざわざ この《人身化せられた資本》を敵にまわして 槍をふりまわすことが 経済学=人間学であると 語っているのである。言いかえると 人間が 二段構えになっている。
第一段は 《経済人》として そしてしかるのちに ふつうの人間としての第二段 これである。《労働の二重性》を言うからといって 人間が このように奇妙に 二段構えで存在し生きるものとは 考えないほうがよい。
《だから 価値の増殖が問題であるとすれば 110ポンド・スターリングの価値増殖にとっても 〔剰余価値がゼロのばあいの〕100ポンド・スターリングのそれにとっても 同一の欲望があるということになる》(同上=Ⅰ・2・4・1)。譲歩する人には 自己の欲望がないとしても――この一例たる綿花の使用価値に対する欲望は しるしとして あるはずだが 交換価値の問題において もはやないとしても―― かれにとって相対的な社会関係的なその他者(つまり資本家)の欲望が 存在している。経済学も 人間がこれをおこなう限りで 人間学をゆるがせにすることはできない。《経済学の取り扱う素材の特有の性質は もっとも激しい人間の胸奥の激情である 私利という復讐の女神を挑発》しやすいのだから。《経済的範疇の人格化たる個人》という想定じたいに 明らかに 人間の法則の問題が かくされている。
欲望は まさに経済的範疇の人格化を提供するものだから 経済学は これでそのまま つっ走ればいいということにはならない。私利という復讐の女神を わざと 挑発していくようなものである。経済学は 人間学と二つにして一つの実践である。これは マルクスのこの引用文にかんして ただ 今度は説明と叙述との問題だということができる。できるのだが 叙述は そう言いうる問題と 相即的な問題をはらむ。《抽象的富の取得増大のみが 彼のもっぱらなる推進的動機であるかぎり》とかあるいは《価値の増殖が問題であるとすれば》というこの前提条件が くせものである。前提条件のまえに 先行して 《ふつうの人間 その社会生活一般》が かくされている。
出発点の問題が まだ われわれのここでの出発点である。先行するふつうの人間の存在は 経済的範疇の人格化すなわちいわゆる資本家に 先行している。マルクスが そう言っていないであろうか。
《資本主義的生産様式とこれに相応する生産諸関係および交通諸関係 / 資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的敵対関係の発展 / 近代社会の経済的運動法則》(第一版の序文)とは とうぜんのごとく 人間の法則と 混同し入り組んでいる。実際にもそうであろうし マルクスの叙述としても そうであろう。ただ 両者が 混同しあい入り組みうるものだという言い方を していないかも知れない。前提条件を出したあとでは 入り組まないかのごとくである。人間学と経済学 あるいは労働者と資本家 これらはそれぞれ互いに 前提条件の上では もう整然と分かれるかのごとくである。
おそらく 人間の法則というとき 欲望は 人間の意図一般そのものではないのだから――すなわち 欲望のままに ことをおこなうときにも そうしようという意図が 出発の同一時点で 先行しているというものなのだから―― 人間の尊厳だとか崇高な精神だとかが これをことさら ことあげしないとしても 存在することを だれしも認める そして認めるであろうが 経済学の研究としては――そして じっさいには 人間学の研究としても―― 表現・伝達のやりかたの一つの基調といったものとして 《より高級な動機を ふつう 別とする》。というのは 人間が 法則的に(あるいは 法則と矛盾するようなかたちで) より低級な動機をもって生きうるのだし これを含んで 経済生活の経験法則をかたちづくっているのが 経験現実なのだしするから そういった人間の法則と入り組んだ社会の自然法則を 人間の意図は 出発点において 対象としなければならないゆえである。
というよりは そういった大きな社会自然の法則(必ずしも法則という必要はないかも知れないが いまは便宜的にでもこれを用いる)の中にある人間を 自分自身をもちろん含めて 同一時点で 対象とする。つまり 動機の高級・低級にかんしては それがどうであろうと 待ったなしである。時点・時間(あるいは世間)を 人間の尊厳がこえるというのは その同一時点でのみ 先行するものとしてである。
人間の尊厳――自由意志および合理性の知解 また 自由で合理必然的な相互の存在の関係は 愛・民主主義 要するに 理念的な内容のことであるが―― これは その場の社会的な人間に 先行するといっても その場その時点でのことであるとすれば そのより高級な動機も 同一時点の持続発展的な過程をあゆむ。すなわち より低級な動機によって 復讐の女神を挑発しておいて そのゆえに かれは より高級な動機に訴えるというわけにはいかない。これでは 先行するものも 先行しないようにすることである。
《挑発したゆえに》という前提事実をとりはらっても 同じことである。理念を動機として 理念に訴えるのは むしろ人間にとって あえていえば その法則から言って 敵である。その場その時を離れてしまいがちであるから。法則を別とすれば 単なるやぶから棒の行動である。ちょうどこれと逆のかたちで マルクスが 人間を 経済的範疇の人格化たる個人として あつかうのは 表現じょうの単なる手法であるのだから 《経済人》でものごとを考え 訴えていくのは 同じく やぶから棒である。人間の法則をあえて持ち出せば このやぶから棒は 人間にとって敵である。
このような やぶから棒の議論が出うるほどの社会情況が社会情況であったとしても 人間は 自分を経済人におとしめてしまったわけではあるまい。もし人が自分を 理論上の経済人ないし資本家にあてはまると見て 自分という人間を その経済人におとしめてしまったと告白しているとしても その自己を貶めるという行動を そのように否定するところの理解をもつことは はじめに自由な意志のもとに人間の意思(意図)をもったふつうの(人間の法則としての)存在を 肯定的に理解したのと 同時である。この弁証法は ゆるがない。あるいは ひょっとして 経済人という概念 もしくは その概念人であること これを 最高によいものだとして どこまでも肯定していく人も いるというべきだろうか。
マルクスの《この著作の最後の究極目的は 近代社会の経済的運動法則を闡明すること》であり それに必然的にともなうかれの意図は 一つに その目的が《現存するものの肯定的な理解の中に 同時にその否定の理解 その必然的没落の理解をも含むものである》にすぎないのだから 《しかしながら 社会はその生みの苦しみを短くし 緩和することができる》というに やはり すぎない。これを抽象的にいえば 人間は その固有の法則としてのように 社会の経済的な運動に そのつど同一時点で 先行する意志と意図そして知解とその実行の意図を持ちうるというにほかならない。
《近代社会の経済的運動法則を闡明すること》は――ちなみに このセンメイという語は 意義の不明なものを明らかにすることだそうである―― そこに 先行する人間 の法則を含むものであるなら その段階と時点のそのつど われわれが 対処しうべきことは 対処していけるし 対処していこうと言ったまでである。《ドイツ・イデオロギー》などのように この対処の仕方が 革命という手段――すなわち 言うには 先行する人間の法則の実現という目的が この手段の実行そのものの中におさまるというかたちのそれ――によって そして それによってのみ 現実的であるといったことにかんしては わたしたちは 知らない。知らないというのは きらうということであるが それは 先行する意図のものであるかも知れないし また この意図も 後行する経済経験の有力に 同意して従うことを余儀なくされることがあるのだから たんなる感情であるかも知れない。
後行する経験領域における革命のことは その社会の経済運動法則じたいに 聞いてみるよりほかない。わたしたちは 知らない。すなわち この知らないという表明が 先行する意図のものであるならば その基本原点の問題である限りは 革命によるしかないとか 革命はいけないとか いづれとも 判断の領域を異にしている。そういう区別が まず 自由である。分離してしまうと 諾か否かの後行領域での判断を 一義的に(つまりあたかも 先行するものとして) 決めなければならないと迫らなければならないか それとも そのことにまったく無関心になるか どちらかである。どちらも われわれの敵であるだろう。
《資本》論では 人間の法則を隠れたかたちで 明らかにし 著者その人として これを実践している。もちろん 時代と社会とのちがいの問題も考えられるが。つまり そうでも 人間の法則は おそらく 抽象的なものにしろ 普遍的であるだろう。
次のように分析・解剖するとき すでに人間の法則を含んだ経済運動の法則を明らかにしようとしており それは 人間の法則が隠されているなら 《ここで報告しているのは きみのことなのだよ》と 暗に意図的に 語っている。とうぜんのことだが まずは これを受け取ることからしか わたしたちは出発することができない。

価値は たえず一つの形態から他の形態に移行して この運動の中に失われることがなく かくて自動的な主体に転化される。増殖する価値が その生涯の循環において かわるがわるとる特別の現象諸形態を固定すれば 人は 資本は貨幣であり 資本は商品である という声明を受け取ることになる。しかし 実際においては 価値はここでは一つの過程の主体となる。

  • 先行する主体である人間は ここで あたかも主体である価値の運動に 同意し従った。同意させ従わせるはじめの意図をもった主体たる人間が 一つの起源として いるわけだが この経済法則が 鉄の必然性をもって作用すると見なければならない限りで その起源の人間は われわれ一人ひとりであるとしか 考え及ばない。
  • そうでなければ 鉄の法則は成り立たず 社会が一様に資本主義経済になりきることはない。もし そうでなく 成り立っているとするなら その資本主義社会は 夢遊病者の集まりである。

この過程で価値は 貨幣と商品という形態の不断の交代の下にあって その量自身を変化させ 剰余価値として 最初の価値としての自分自身から 突き離し 自己増殖をとげる。何故かというに 価値が剰余価値を付け加える運動は 彼自身の運動であり 彼の増殖であり したがって 自己増殖である。価値は 自分の価値であるから 価値を付け加えるという神秘的な性質を得る。

  • 自己増殖というからには 人間の生殖行為による人口増加に比べられうる。

価値は生ける赤児を生む。あるいは少なくとも金の卵を生む。
(Ⅰ・2・4・1)

このように《現存するものを肯定的に理解し その中に 同時に 否定の理解を含む》というとき その否定の理解というのは 《その必然的没落の理解》のことであるとするなら この経済運動の社会法則のもとに なにが 否定され 必然的に没落していくと言わなければならないか。
そう理解するのは 先行する人間の知解と意志とであろうから これは 否定もされないし 没落もしないものなのか。先行する尊厳の人間も この世で朽ちていくのであるが 否定はされないか。意図は 意志のもとに 先行するものだとすると 欲望や低級な動機が 否定され没落に向かうというのか。けれども 欲望が自己運動をおこしたのではなく・または 自己運動をするに 意志が意図をもって任せたのであるから 欲望に罪はなく はじめの意図が いけなかったか。つまり 精神にこそ 罪はあるか。
しかし 先行する精神を――つまり人間が 自己が自己を――まったく否定しようとするなら 経済運動の法則を明らかにして 社会が生みの苦しみを短くし緩らげるといった意図の表明も ナンセンスとなるのではないか。つまりそういう意図の表明の 必要・不必要を問わず 社会はまったく経済運動の法則のままに うごいていく。近代社会の経験法則となった経済運動が 現存するものとして肯定的に理解されると同時に その否定の理解をも含んで明らかにされ それは 必然的に没落していくとやはり理解されたというものであるのか。
しかしながら 否定と必然的な没落とを理解するのは 経済運動(あるいは そこで主体となった価値)でもなければ その法則でもないであろう。いや それとも マルクスは たしかに そうではなく 先行する主体たる人間が理解し行動するのでしかありえないが それでも この経済運動の法則のもとでは 人間は 意志と意識とを 自己増殖する価値にあたえ あたかも主体の位置を譲ったのであるから この価値ないし資本(貨幣であったり商品であったりするもの)が 《人身化せられ》 理解と行動との主体となると言ったのであろうか。
と理解するなら そして その理解を自己のはじめの意図そのものとするなら それも 《頭で立っている》ことにならないか。なにが マルクス本人の意図か。
(つづく→2005-12-29 - caguirofie051229)