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哲学いろいろ

イエスが なぜキリストか。

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

エスが なぜキリストか。


 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。


 ▲ (ヨハネ福音7:37−39) 〜〜〜〜

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 * 《聖書に書いてあるとおり》 〜〜〜〜〜〜

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




 (α) イエスが なぜキリストか。


 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。


 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。


 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。


 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。


 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。




 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

こんにちで言うところのキリスト教が〈必要とされてきた意味?〉は、

ルネサンスの精神性から培われています。さかのぼる14世紀、キリスト教を繋いできた精神が暗い時代の象徴を帯びているのを図像学は確認します。このとき、エジプト-ギリシャ出自による成立や、バビロニアのカルディア文化とユダヤ教にみる土地民俗と、キリスト教の精髄は、別物になったようだということにひとつの論点が浮かび上がります。
〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうことを、ブラジュロンヌさんは言っているのではないかとあえて指摘したいと思います。


太陽が沈んで夜をくぐって昇ること、雨が川となり海から雲へと昇天しまた地に降りること、厳冬を超えて春に命が蘇るということ、洪水を超えて後に繁栄があること、そうした事象が、冥府と豊穣の愛児ホルスをして死者に川を渡らせたり、また黄金の矢と鞭をもつペルシアの王イマをして不可思議な避難の囲い地を設けさせる、通過儀礼の物語を古い神話の世界に生みだしています。ゾディアックを解釈に取り入れているマードック博士は、天体十二宮のみずがめ座通過に注目しています。
ともあれ、通過儀礼のための水の象徴は、〈大地に束縛される人間〉を清める意味を持っていたと思います。ルネサンス前夜から後期のすなわち〈時代と時間に束縛される人間〉にあっても、人々にとりついた死の主題は、『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観の中に置かれ、また聖書が人類史であり地史ですから、水の清めは象徴的によく機能しています。


しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。

あ・・・さん お早うございます。

ご回答をありがとうございます。


 いやぁ今回は じつにわたしは自分が《最短距離行きたがり屋》であるかを思い知らされました。


 だって すべては 尺八のひと音で済むと思っているのですから。
 人と会えば 《こんにちは》のひと言で宇宙は万々歳だと思っているのですから。


 いえいえ そうではありません。そうではなく 歴史にまなび言わば《人間化》を 類型として整理し しかもその内実をしっかりとおのれの人間化の軌跡とともに思想としても明らかにするといった作業 この王道でしょうか これをいかに怠っているか これを思い知らされました。


 ★ 『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観
 ☆ 何枚かの図とともに描かれているものですよね? どこかで見たおぼえがありますが もうとんと見向きもしないで来たなと思いました。
 歴史をたどる道を 気分にまかせいつも飛び越えて来ました。


 ★ 〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうこと
 ☆ ですか。たどればたどれるものだとは思いました。


 しかも《飛躍屋》の頑固あたまは 言います。
 アブラハムの個人に戻っただけではないかと。
 父祖の地 ふるさとなる《大地に束縛される》ことを嫌ってか アブラムぢいさん どこへとも分からずに 去って行きました。わしにはわしの道があるのぢゃと。

 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ のちにアブラハムと名乗り換えたぢいさんが 妻のサラ(サライ)とともに すでにその水を湧き出させ ふつうの生活を送っている。高年になっても 子にもめぐまれた。
 なにが《哲学者の花園》ぞと。わが《飛躍》にこそ われらが人間の人間化の鍵があるのではないかと。



 エジプトもシュメールもどこどこも たとえば何て言いましたか ティアマトだかマルドゥクだか あるいはまたそれとしての創世記の話 これらの話題をいかに聖書がパクっていたとしても どうしてどうして 聖書記者には このアブラハムの《いのちがけの跳躍》がつたわっており すでに水はながれています。とても何て言いましたかエヌマエリシュだとかの神話どころの話ではありません。そのネタ元の話は わたしにはきわめて平面的な物語に映ります。


 水で話を継ぐとすれば わが日本にも ミソギがあります。あるいは滝行もあります。
 きわめて安易な《飛躍》の仕方であるとともに 問題は《身と心》のすべてを一瞬のうちにあらためるといった《人間化》の原理を見ようとしているのかも知れません。《理屈抜き》というやつです。


 ところが 聖書記者は この水は たとえであって 霊だと言いました。わけの分からないものだと。
 つまりこれは アブラハムの問題です。《去ろうと思ったから 去った》 これだけです。記述は 神のお告げのごとくに書いていますが。


 まぁ でも 西欧人もよくぞルネサンスを興したとも思いますけれど。
 ★ 〜〜〜〜
 しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。
 かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。
 ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。
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 ☆ このあたりについては またくわしい歴史をたどる研究がなされているのでしょうが――つまり ルネサンスが言わば何故かまた沈んで行くというような歴史の一面があるかと思われます(あるいは 近代人の理性によって 揚げすぎたのでしょうか)―― その時代を経て
 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ とまとめつつ 締めくくってもらいました。


 でも ふと思いました。
 もしこのように言うわたしが アブラハムのおこなったふつうの飛躍とは違って 特殊日本の地における環境が絡んでいるとするなら そのわたしの経験した《 salto mortale 》は みなさんにおすすめできる代物ではないかも知れない。
 いえ と同時に もし特殊日本では 決して被虐趣味ではないのに屈辱と排除との論理も実際も 世界に増して暗く深く普遍的なものであったとしたら 無理なくみなさんのものだと言えるかも知れない。


 吾人は 洪水になるほど 水かさを増して行かねばならないかも。
 (このフリーエッセーをもって お礼のご返事に代えます)。