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哲学いろいろ

アブラハムからイエスまで

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie



《もの》は 《こと》だそうです。
 いにしえの日本人は それぞれの根元を 《おほものぬし(大物主)の神》および《ひとことぬし(一言主)の神》と呼んだようです。
 もの(物)が こと(事)となって現われると見たのでしょう。空の放電現象は 神なるモノ(たとえば穀物の霊)が鳴るコトであり 稲を実のらせるというので いなづま(稲夫もしくは稲妻)と呼んだらしい。
 こと(事)‐たま(魂)である。のちに 言霊(ことだま)となった。事の端が 言の葉となった。言葉が その意味する事を 起こすというのは 二次的に逆の方向を意味させて 生じた迷信である。
 コトとモノをめぐっては 煮詰めた言い方では 社会における人間の《存在》の問題 もしくは 《わたし》の問題があるのでしょう。

 はじめに ことばがあったと言います。
 ▲ (ヨハネ福音1:1〜5) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
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 ☆ この場合には 《もの(霊)》と《こと(事および言)》とが すでに 一体です。

 このへんの事柄を述べて
 ★ なんの 神様ですか。 / なぜ世界的に信仰されているのですか。
 ☆ に答えてみたいと思います。
 
 要するに 人に 非思考のこころが 芽生えたのです。経験思考を超えたところの心の伸びです。精神ないし理性を超えた志向性です。
 その相手は なぞのなにモノかです。霊です。神です。
 アブラム(のちのアブラハム)という人は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。
 その子孫として モーセは その神に 名を尋ねたとき 《〈わたしはある〉 それが わたしである》という答えを得たと言います。
 伝えによると ダヰデという人は 《きょう わたしは おまえを生んだ》という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 貧しい者に福音を宣べ伝えることを
  ゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を
  告げ・・・(中略)・・・るためである。
    (『イザヤ書』61:1−3)

 その後 時はさらに飛んで イエスという人が出たと言うわけです。イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

    《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。主がわたしを
    遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放  
    を・・・告げ知らせるためである。》
    (つまり『イザヤ書』61:1−2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。
  と話し始めた。
     (ルカ福音4:17−21)

 神と人間との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか

 さらにその後 このイエスという人は この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。生前には かれが捕らわれたとき かれを見捨てて 逃げた弟子たちも その死後において かれは 神であったと言い始めたそうです。
 もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで 誰でも 出来るでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰か続くだろうとうわさして それだけのことです。
 存在論は 《完成》していないことになります。アブラハムモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。
 もしかれが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのまま それは 《うそ》ですから 史的イエス非実在論によって 聖書の伝えを一笑に付すというわけです。
 この虚構が なかなか 捨てがたいようなのです。
 《ものは ことだ / ものが ことだ》という見方は いまも 根強いものがあるのではないでしょうか。