caguirofie

哲学いろいろ

十字架

 《イエスの救いの本質は》 人間の考える経験思想を超えているととってください。
 そうでなければ わざわざ十字架上に露と消える必要がありません。
 そうであるので 最高法院(サンへドリン)の大祭司たちに 神への冒涜という罪での死刑に値するというふうに 思わせました。これは キリストとしての神の貌です。
 人間の貌としては 《わが父 なにゆえ 我れを見捨てたまいしや》と述べて その文句にかかわらず自分の信仰を表明し しかも 大声をあげて泣きました。
 神でなかったなら わたしたちは 人間の能力と努力とで ある程度のことまでは出来るものだと思い それで おしまいになります。
 人間でなかったなら 神であるのだから そこまでのことも出来たのだとわたしたちが思って もう救いを問い求めることも 中途半端の努力で おしまいになります。
 けれども イエス・キリストは 神の貌と人間の貌とを備えていたのではないかと その後 うわさされるようになったとさ。


《イエスの救いの本質》が もし《いけにえ》の思想にも接点を持つとするなら それは いけにえや犠牲(同じことですが)を もう一切やめにしようというものです。

 ただ《人間の貌》でしかなかったとするなら そういう身代わりの思想において 生け贄として捧げられたとのみ捉えられるでしょう。
 そしてこの限りでは むしろ現実です。一昔前には 不祥事を起こした会社のために死んでくれという身代わりがありました。そんなことは やめにしようと言っているのに イエスもそうしたから おまえも見倣ってくれという 逆の思想になっていました。
 キリスト・イエスのおとぎ話の要素(《神の貌》の側面)は そのあとの問題です。

 《いけにえ》は 旧約聖書の時代には いやというほど出てきます。イエスの時代にも その長い歴史的な慣習に沿って 表現する場合もあります。
 ですが イエスという名の人間としてなら いざ知らず キリストと呼ばれる神の貌としてなら まったく問題にはなりません。
 神が 自分勝手に 十字架上に登って 死に就いたのです。そうでなければ 神と言えません。
 人間がやったのなら――そして仮りに いけにえとなって 人びとの罪のほどを償ったとするのなら―― ああ そうかいと言っておしまいです。その心は 貴いことだが――イエスに対して わたしなら こう問いかけるでしょう―― また 人間の罪が償われずに溜まってきた時には 志しある人よ われに続けと言っているのかいな?と。そういう問題ではないのです。
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     わたしが求めるのは憐れみであって、
     いけにえではない。
     (ホセア書6:6)

   とはどういう意味か、行って学びなさい。
   (=イエスの発言:マタイによる福音9:13)
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たしかに 重要な主題であるのですが 神がわれわれのために 自らいけにえになったというのは 《イエスの救いの本質》ではありません。《ために》というところが 問題です。十字架上の死が起こる前にも わたしたちは 神の子です。
《救いの本質》は 次に言う《恩恵の上に恩恵を受けた》だと思います。
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 私たちはみな、この方(イエス・キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みと真理はイエス・キリストによって実現したからである。
  (ヨハネ福音1:16−17) 
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 《いけにえ》と紛らわしい事態については 次のようなパウロの文章を参照するべきだと思います。
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   それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ば
  れるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるた
  めに洗礼を受けたことを。
   わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあず
  かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死
  者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる
  ためなのです。
   もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやか
  るならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
   わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたの
  は、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないため
  であると知っています。
   死んだ者は、罪から解放されています。
   わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生
  きることにもなると信じます。
   そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬこと
  がない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
   キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであ
  り、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
   このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリ
  スト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさ
  い。 (ローマ書6:3−11)
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 ここで 《罪から解放されています》が 初めの《恵み》です。あとの《恵み》は 復活です。つまり 《わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます》。

 飽くまで・死ぬまで・いえ 死んでも うたがうという精神はいるものです。ところが 悪魔は 最終の死の淵にまでは よう来なかったのです。それで 打ち負かされたとも考えられます。
 どうしようもない嫌疑をかけられ どこまでも疑い続けられるとき わたしたちは そのような人びとの欠陥を憎み その存在を愛します。
 アウグスティヌスによると 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してもならないと言います。
 疑いの晴れないまま そのあと この世の不条理の掟に対して イエスは なおも真理のことばを与えつつ抵抗もしながら 人びとの疑いを憎みとおして 存在としては人びとを愛しつづけた。死を甘んじて受けたとき 悪魔は 退散せざるを得なかったと考えられます。
 そこで悪魔は それまで捕らえていたわたしたちを 解放したという物語です。罪は死の棘であり その棘が抜かれたと言われます。そのあと

  最後の敵として、死が滅ぼされます。
   (コリント前書15:26)

山羊は イエスが自ら

   人の子(イエス・キリスト)は、栄光に輝いて天使たちを皆従え
  て来るとき、その栄光の座に着く。
   そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と
  山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置
  く。 (マタイ福音25:31−33)

と言うかたちで触れられていますが これは 将来すべきこととして臨むのが ただしいと考えます。《左に置く》のは その山羊たちが裁かれるためのようです。

   それから、王は左側にいる人たちにも言う。
    ――呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の
     ために用意してある永遠の火に入れ。
       お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のど
     が渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、
     裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてく
     れなかったからだ。
    (マタイ25:41−43)

 こんなことは起こりません。人びとの悔しさを癒やそうとして 話をしています。《〈復讐は わたしがすることだ〉と主が言われる》という前提のもとに 傷ついた人びとのこころをなぐさめようとしています。

   すると、彼ら(=左側にいる山羊たち)も答える。
    ――主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、
     旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられた
     りするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。
   そこで、王は答える。
    ――はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかっ
     たのは、わたしにしてくれなかったことなのである。
   (マタイ25:44−45)



 もし――もしもです もしも――それでも 慰められ得ない人たちがいるとするなら のちになって安易に復讐に燃えた人たちのことも 少しは その気持ちをわかってやれるのでは?というのは やはり勇み足でしょうかねぇ。その人たちは

  (1)人間によって神が殺される

とは考えずに

  人間によって 人間が殺された

と採ったのです。つまり 神を自分の心の中に 勝手に 想像し形作ってしまったのだと思います。それは 神ではなくて まちがって思い描いた神であり ただの・少し殊勝な人間としての像を あやまって 思い抱いていたのだったという問題ではないでしょうか。
 もし――もしもです もしも―― 神が何であるか あるいは 少なくとも 神は何でないか これが分かる人は 和解の方向へ向かってください。その代わり 言論では どこまでも 重箱の隅をつついて ありとあらゆる塵芥までを掃き出し 批判してください。批判し尽くしてまいりましょう。
 ローマよ おごるなかれ。