caguirofie

哲学いろいろ

言葉が先か 意識が先か

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie


 ★ 正しく理解しているかわかりませんが、構造主義の立場では、私たちが思考したり感じたりするときに、まず頭の中で「言葉」を使用し作文を作ることにより「意識」が生まれるとの立場のようです。
 ☆ わたしは 必ずしも《構造主義》一般をではなく ソシュールもしくは丸山圭三郎言語学的世界観における存在論ないし人間学を相手にしてものをもうすのですが たぶんそこでは 次のように言っていると思います。:

 すなわち
 ★ まず頭の中で「言葉」を使用し作文を作ることにより「意識」が生まれる
 ☆ という表現で解釈するのは 微妙なように思います。

 細かくなりますが:

 ( a ) ひとは すでに――言語を持ったときから―― 言葉の海を航くという存在のあり方をして来ており 世界における何ごともこの言葉をとおして対象と関係しそれとして意識し概念として把握している。

 ☆ すなわち《言葉をとおして意識する》のなら 《意識よりも言葉が先だ》となるかのように受け取られるようですが これにはむしろ それでは《言葉は どのように生まれたのか? それに関連してそもそもヒトとはどういう生物としての存在であるか?》 この問いが先行していると考えられるのです。

 つまりむろんその問いについての答えが 問題である。そして次のように捉えます。
 すなわち:

 ( b ) 〔丸山圭三郎によれば〕 動物は 世界を《身分け》によって捉えている。つまりこれは 身におけるものごとの知覚をとおしてそれについての反応としての本能によって行動するという意味ですが しかるに人間は それに対してひと言で言うならば 《言(こと)分け》によっているのだと説きます。

  ( b-1 ) 言分けとは 何か?

  ( b-2 ) まづ 動物が身分けによる世界知覚(かつ行動)であるところを すでにそこから一挙に《言分け》の世界に飛躍したかたちで 生まれて来ており存在しているのだと説きます。 

  ( b-3 ) すなわち ひとはもともと言葉とともに生まれて来る。言いかえると 言葉としての世界を《文 ないし 文化》と呼べば すでに初めに人は《文化人》である。つまり 《身分けによって生きる世界》を卒業して来ている。その意味で《自然人》ではなくなっている。と。

  ( b-4 ) こうであるならば 動物における《身分け》によるモノゴトの知覚 としての意識でもなくなっていて 言分けとしての――すでに初めから言葉の海を航く――認識およびその意識の中に生きている。

 ☆ こうだとすれば 次のように帰結されないでしょうか。:
 ( c ) なるほど《言葉が先にあって意識がそのあとに来る》と言っているようなのであるが その意味は微妙に違っている。それは なぜならすでに初めに《意識は 言葉という世界――しかも世界の全体を占める言葉の海――から派生して来る》と定義によって前提しているから。

  ( c-1 ) 言いかえると 人はすでに初めから 動物のような自然存在ではなくなっている。つまり自然人ではありえなくなっている。すでにつねに言葉で世界を認識し その意識をつうじて生き動き存在している。そういう意味での《文化人》である。

  ( c-2 ) この文化人であるというのは 全面的にすでにそう成ってしまっているのだと言うからには 言葉と意識との先行後行を決めることには あまり意味がない。のではないか? ソシュール丸山圭三郎の仮説では 《意識は 言葉に付属している〔に過ぎない〕》とまで言っているのではないか?


 ☆ このように考えます。
 わたしは 人間は《自然人》であるところを残していると捉えますので 全面的な《文化人》説には与し得ません。

 この意味での《文化人》であるというその中身は――丸山によれば―― 動物が本能によって生きているかぎり何も考えずまた悩まずにいて或る意味でしあわせである。しかるに人間は この意味での《しあわせ》なる世界から一挙に抜け出して来て成った生物である〔と仮説する〕からには 《錯乱せるひと(ホモ・デメンス)》であると見ざるを得ないとまで言います。

 その根拠には ひとつに例の《言語記号の恣意性》なる仮説があります。
 《恣意性》とは 文化〔人〕としての恣意性であって そこには《言葉以前の動物的感覚としての自然人》に対応する要素はないということのようです。つまり 特には《ことば》の成り立ちについて言っているのであって それは 《シニフィアンシニフィエとの関係は 恣意性として成り立っている(つまり 何の関係もないということ)》というのですが そうではなく 自然の感覚としてのつながりが シニフィアン(音としての言葉)とシニフィエ(意味)とのあいだにあると実証することをこころみました。つまりそれによって 言語記号の恣意性なる仮説は ただの神話であるに過ぎないと考えてわたしは 全面的にソシュール≒丸山の理論を否定します。


 触れませんが よかったら次を参照ください。

 【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html
 (そこでの noname#80116 は わたし・bragelonne です)。

 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html