掴み不可能性
▼ 掴み不可能性自体が掴めない
☆ という表現に出会った。《神》についての説明としてである。
《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。
それは理解不可能性自体が把握できないことである。
人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。(山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in
- 作者: 宮本久雄,大貫隆,山本巍
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1997/09
- メディア: 単行本
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pp.105-106)
わたしは つとにこれを《分かるか分からないかが分からない》と表わして来た。
山本は 出典を明らかにしていない。ということは すでに或る程度一般に言われて来ている表現であるのかも知れない。
どちらが先かをあらそっても仕方がないので 後発であることに甘んじなければならない。