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哲学いろいろ

ニーチェのディオニュソス帰り

 ▲(ニーチェディオニュソス帰り) 〜〜〜〜
 この書物(『曙光』 断章18)でわたしは次のように書いている。

 現在ではわたしたちは人間の理性と自由の感情を誇りとしているば そのほんのわづかですらこれほどに大きな代価をもって贖われたものはないのだ。そしてこの誇りのために わたしたちはもはやきわめて長期間にわたって支配していた《習俗の道徳性》の時代に同感することは ほとんどできなくなっている。

 この時代は 《世界史》に先立つ時代であり これが人類の性格を確定する上では決定的な意味をもつ真の《主要な歴史》だったのである。

 この時代にはいかなるところでも 苦悩は徳として認められていた。残酷さも徳であり 偽装も徳であり 復讐も徳であり 理性を否定することも徳であった。
 (* というよりもまだ理性の使用をほとんど知らなかった。(ぶらじゅろんぬ))
 反対に幸福は危険であることが認められていた。知識欲も危険であり 平和も危険であり 同情も危険であった。そして同情されることは侮辱されることであり 労働することも侮辱をもってみられた。

 狂気は神聖なものであり 変革することは 倫理に反すること 堕落をそのうちに含むものとみなされていたのだ!・・・
  (『道徳の系譜学』 第三論文 禁欲の理想の意味するもの――哲学というヒュブリス)
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 理性一辺倒ではいけない イデアの世界に沈潜することは 何も実践し得ないとアリストテレスのごとくひと言批判すれば済むものを わざわざ原始心性に帰れと 狂気にも 言っている。

 原始心性にも 梵我一如の道があった。とひと言添えておけばよいものを。




 こんにちは。

 《絶対》ではないという意味で 人は誰でも《不完全》です。

 またもし《完全》を目指すとすれば それでも どこまで行っても それは――絶対でないのですから―― 《未完成》です。

 《絶対》という場を別とすれば あとはすべて相対の世界であって 人間はその経験世界に属します。

 もっとも 相対性の世界にあっても 《瑕疵(きず)》がなければ 《完璧》です。


 ★ どの、または他のどんな人間観が幸せだと考えますか?
 ☆ いづれの見方であっても 人間の存在は 動態であり このことを前提とする必要があります。

 その道を――と言ってもたしかに主観にとっての道に過ぎないのですが――逸れずに・そして逸れてもまた道草を食ってもまた道に戻るという過程を経て行けば その過程という観点から見て ひとはすでに――未完成のまま――完全な動態であると見る場合もあり得ましょう。

 ほかの人びととくらべてどうかという意味ではなく――つまりもしそういう比較の問題であるなら すべてどんぐりの背比べでしかありません―― 《わたし》にとっての道のことです。
 
 この独り善がりは あんがい有効のようです。(なぜか?・・・)