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――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917
第一章 やしろ資本推進力について
第八節 したがって新しい《せぢ》関係の動態の確立へ向けて
聞こえ大君が
降れて あすびよわれば
天が下 平らげて
ちよわれ
(巻一・1)
われわれが このおもろを聞くとき 自己を そらぞらしい者でなくとも 何か障子(壁)一枚をへだてて たえず向こうから・外からやってくる者として 了解せざるを得ない。筋のとおって(降れて) ゆたかになる(あすびよわる) また 天下が平らぐことは わたし(素朴な主観)と地続きであるのに そこに 謡い舞う聞こえ大君や平らげてちよわる按司添いが一枚かんでいる。
- もっとも 聞こえ大君も按司添いも 抽象化され ただの表現じょうの文句であるとするなら 全体のおもろとして 主観の中に内面化されていると言いうる。そういう素朴な願いとして。そうして もういちど具体的に 聞こえ大君や平らげてちよわるその者との関係を受け止めて オモロするなら ともあれ 社会的であり 前近代的だがヤシロロジの原形に近い。要するに 聞こえ大君らは われわれがそのヤシロロジにおいて ひとつのアマテラシテ(象徴)としたのであるなら。
逆に
ゑけ あがる 三日月や
ゑけ かみが かな真弓
(巻十・534)
とか
吾がおなり御神の
守らてて おわちゃむ
やれ ゑけ
綾蝶 成りよわちへ
(巻十三・965)
とか オモロするとき 《三日月》や 《綾蝶(あやはべる)*1》が 神やセヂそのものであるなら そのものとして信仰されるなら その自己は いまだアニミスム(呪霊信仰)なる原始心性の繭の中に眠っていると考えられた。そして この場合には 真理は これらの中間にあると言ってよいだろう。もしくは 自己が真理を分有しているはずだ。
やしろ資本推進力――これが 真理のことだと想定しているのだが――について ふたつの横道があるように思われる。ひとつは たとえば綾はべるに憑依しての呪術霊化である。三日月に憑依することは ないかも知れないが はべるには 原始心性が 思考停止となって取り憑くことがあるかも知れない。もうひとつは 必ずしも モノを崇めるのではなく そうではないが けっきょく今の《真理》なり《やしろ資本推進力》なりと言いかえるかどうかを問わず この《せぢ》を スサノヲ語として想定し 表現じょう用いることから抜け出してしまう場合である。
ふつうにも まず この語を観念として頭に持つことを始めるはずではある。互いの意思疎通に この語を用いるはずである。そのうたは おもろとして 観念の資本でもある。思想である。このスサノヲ圏なるヤシロを超え出ようとする動きが どこからか始まる。やしろに第二階をこしらえて そのスーパーヤシロを あたかも観念の資本の枠組みのようにして・だから あたかもスサノヲ市民社会を上から包む繭となってのように 観念の資本制とする場合である。むろん この体制――つまり 国家である――におけるセヂの象徴は 聞こえ大君である。スーパーヤシロは アマテラス圏であり セヂの象徴は アマテラシテである。聞こえ大君は あたかも綾はべるのごとく 謡い舞うことになる。
原始心性の横道は その内へ閉じこもるがごとく思考停止し退化する呪術心性と その外かつ上へ突き出ていく観念の思考なる超原始心性とである。超原始心性は 原形的な原始心性の二番煎じのごとくであり 外に出ようとするようで 実際はその外側に勝手に枠組みをつくってやはり内に閉じこもるふうにもなる。繭という形容がふさわしい。繭の中にいれば 人は安心するのだろうか。核の傘のごとくに。そうである限りでは このスーパーヤシロに躍り出て《活躍》しようとするアマテラス族が あとを絶たないのは 無理もないのかも。
旧いセヂ関係 横道のセヂ関係 観念超越的なセヂ関係 これらは 観念の資本制として(また その中にあらためて組み込まれて棲息し) われらがヤシロの母斑としてある。あざや ほくろのごとくである。それに ちなみに 近代精神とかいうオモロによって 理性信仰が 加わる。スーパー原始心性が完成した。
- もっとも すでに 古代市民のアマアガリとしての超原始心性は すでに 超越観念としてけっきょくは人間知性の突出のようでもある。その精神に光を見たところから出ている。アマテラスという。
ただ われわれはすでに結論を出して このヤシロ全体のおおきな繭は あたまの中だけの蜃気楼であると言った。単に人間の能力によって原始心性を脱しようとするまぼろしの母斑にすぎないと。そういう観念の資本力ではある。知は力なり Sapientia est potentia. であること自体にまちがいはない。コギト・エルゴ・スムですべてが表現されきったかどうかは うたがわしい。
ここでは 旧い母斑と新しいスーパー母斑とのあいだに 真理があると言うのではなく kぉれらおおきく両極の原始心性が ともにわれわれの母斑となる。せぢ関係は 《ゑけ》と発語して自己還帰した《今日より》始まるものだが そこに《朝凪れや夕凪れがしよら》ないものではないから つねに過程的前進(滞留もある)である ゆえに 観念的なことばとしても ここまで言いうると考える。
そうでなければ人は その時代の目に見える資本関係・生産の様式に すなおに従属するヒミコまたは聞こえ大君の奴隷である。《島世 討ち取りよわちへ ヒミコを崇べて 今日の良かる日に 〈ゑけ〉と言って 声を掛け合い 〈よう〉と漕いでゆく》(532番)ことになる。
この自由 むしろ奴隷の自由を 観念共同化させたのは むしろマルクスの罪である。むろん マルクスの方法は これら母斑をのり超えてすすむ力をうたおうとしたところにあるが 次のようにかれが言うとき そのオモロは 聞こえ大君のオモロと――結果的に――かけはなれたものではない。
工場手工業(マニュファクチャ)(初期スサノヲ・キャピタリスムの共同主観)では 労働者は生きた機構の肢体をなしている。
- それとして認識されたセヂ関係が 協働行為の中にはたらいている。自己が自己であった。
工場では
死んだ機構(アマテラス語共同観念のオモロ)がかれらから独立に存在し かれらは生きた付属物として この機構に合体される。・・・
(マルクス:資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・4・13・4)
むろん マルクスの言うところは別だが――その心は 《ゑけ あがる三日月や / ゑけ かみがかな真弓》の・または 上の文章の 文字じたいにはないが――もし マルクスも 《ゑけ》というスサノヲ語の発言がなかったとしたなら 言いかえると 自由スサノヲ語の発信は たしかにキャピタリスムとその観念の資本制(国民経済学等の社会科学オモロ)の崩壊のあかつきにのみ 《ゑけ あがる辺のみづかわ》等々と言いうるのだと発言していたのだとするなら――誤解にしろ その誤解の余地をのこしていたとするなら―― 罪はマルクスにある。
せぢ関係は つねに動態であるから どの生産のヤシロ的な様式のもとにも それとして 発語せられるし また そのような共同主観者として生きていることができる。これを 方法において明示的に言わなかったとしたなら 非はマルクスにある。聞こえ大君体制を批判する聞こえ大君であったことになる。
マルクスや あるいはマルクシストのであるかどうかを別として一般に経済学的な分析は このつねに新しいセヂ連関を うきぼりにして示すことはできるが そのヤシロ資本主体の像ないし力を いまだ受け取って消化していない だから いつも前向きに進むのである。明日は あるいはさらにその明くる日には 必ず《ゑけ》とスサノヲ者として発語するであろうと言い続ける。《母斑をのり超え 自己を了解し ゑけ》と発語するのではなく 《この母斑をもり超えよう ゑけ よう》ときわめて科学的にオモロしつづけることになる。ちょうどシシュフォスの労働のように。または 世界のプロレタリア 団結せよとの 聞こえ大君の号令のもとに。
- 勇み足としてでも マルクスの一面の非を指摘したい。
わたしたちは 後ろ向きにすすむ。母斑を母斑として認識しつつ すすむ。せぢを飲みまつり 引き受けてのように 《ゑけ》と発して 自己還帰したその《今日より》。しかも この母斑の海から ただちにアマテラス語上昇(いつわりのアマアガリ)して第二・第三の聞こえ大君になるのではなく この母斑の海にいまだ寄留している。寄留しているがゆえに せぢを飲みまつったそのスサノヲの共同主観が すでに連帯である。新しいせぢ連関である。かれは すでに 母斑をのり超えたことを知っている。のり超えたゆえに それによってのり超えるべきセヂの力を知ったゆえに ゑけとスサノヲ語を発したのである。
また このスサノヲ共同主観者のエートスは何なにかなどと 《宗教社会学》しない。スーパー原始心性のごときヤシロロジとなりかねない。このウェーバーら《宗教社会学》者は 聞こえ大君の別働隊であるかのごとくである。また そのことを自ら知っている。マルクスは 現行オモロに対抗せよとオモロを語ったが ウェーバーは すべてのオモロを あたかも自分はセヂ関係の外に出てしまって その地点からやって来て エートス論として取材するのである。
わたしたちは 人間の自己還帰はひとつであろうから そのセヂ関係の中で自己を了解したスサノヲらのオモロのうたの系譜を継いで 表現形式の古さを更新してゆくのである。マルクスの行き方とに違いがあるとするなら これは 後ろ向きにすすんでよいし そうするということにある。ウェーバーらは そこへ横から やじ馬のごとく 取材に来るのだ。かれらは すべてのオモロを――世界のすべてのオモロを―― 純学問的な遺産として記録し残そうというのである。つねに百科事典を作ろうという。
わたしたちは 《朝凪れがし居れば 夕凪れがし居れば 船子えらで乗せて 手楫えらで乗せて》すすまなければならないが すでにすべてのスサノヲをえらんだ つまり マルクシストやウェーバリアンのすべてを選んだからでないなら このわたしたちの新しいセヂ連関の動態は あやぶいものである。共同主観(スサノヲイスム / コミュニスム〔なぜなら スサノヲイスムは sensus communis にもとづくゆえ。〕 / ヤシロイスム)は 見えないやしろ資本推進力の船に乗って すすむと言われるのは このゆえである。
(つづく→2006-09-27 - caguirofie060927)