caguirofie

哲学いろいろ

#28

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第三章 日本国由来記

第七節 アマテラス予備軍のオモロに対する批判

聖徳太子の《十七条憲法》の中に 

嫉妬をやめよ 嫉妬の思いは際限がない。(物ネタミの戒め)
賢明であり愚かであるということはちょうど環のはしがないようなものだ 自分一人が正しいと思ってはいけない。(自是非他の戒め)

といましめて 

財産のある者の訴えはやすやすと通るものだ。石を水に投げ入れるようにたやすい。貧しい者の訴えは困難で通ることがない。ちょうど水で岩を打つように困難だ。(追従マイナイの戒め)

とおっしゃっているが 十七条の中で三つの事がもっとも重要なことである。それなのに 世の末ざまの現在の世間では そのような訓戒があるか とさえも思わないで ことさらこの三つを結構なことに思って 少しでも気力があると思っている人は 《物ねたみ》と《自是非他(我れをよしとし他を非とする)》と《追従(おべっか)と賄賂》をやっている こういう人びとがひたすら世(国政)を支配する場合には 災難が起こるであろうよ。これは全くはっきりしたことだよ。
慈円《1155〜1225》:愚管抄 (岩波文庫) 巻七 石田一良訳)

これが アマテラス予備軍のオモロの例である。現代では 過去になった日本社会党のオモロ方式である。
第三のスサノヲの受け容れにかんして 新しいオモロ共同主観が形成されたことについて――または 新しい共同主観にのっとって 受け容れていったことについて―― このカシハラ・デモクラシのもとにおいて 人びととして入って来たかどうかを別として このように仏教が 一つの新しいスサノヲであった。慈円は いうまでもなく このブッディスムにのっとって こう書いたのである。ちなみに 慈円は つまり天台座主を四回までつとめた僧侶であり 関白フヂハラ兼実の弟である。――何がいけないか。
これは ただ 精神の徳によって 精神の徳を――アマテラス語理論として―― オモロしたに過ぎない。ブッディスムの影響で 天・タカマノハラを この精神の徳(聖徳)に代えたに過ぎない。ところが セヂ連関は 精神の徳なる形相(イデア)やエートスではない。(いかなるオモロも 習慣化すれば そこに エートスができてはいるが。)静かなるイヅモは まだ うたわなかったのである。なぜなら このようなエートスイデアとしての人間の徳は 内なる聞こえ大君のうたとなって すでに沈黙のうちにも――誰の心にも―― 充分に聞かれているからである。このうたを見つめてはならない。
このうたを 鏡にして鏡そのものとして うたい出しては(表現=疎外しては)ならない。鏡は鏡であって 仮りのオモロ構造にしか過ぎない。鏡をとおして或る謎において セヂ連関の動態を見守るべきである。上のオモロは くすぶるオモロの アマテラス予備軍による表明なのである。核分裂には 核分裂をもって対処しようと言ったことになる。愛をもってではなかったか。
だから 《嫉妬をやめよ 嫉妬の思ひはその際なし》と言うのは 幻影のカシハラ・デモクラシである。はじめの共同主観を その時点で アマテラス語普遍抽象化しつつ――そしてそのような普遍概念で認識することは 必要であるにかかわらず―― すでに幻影としてしまったのである。
こう言うと わたしたちは 《我一人得たりと思ひ》て言ったことになるであろうか。
しかし 《賢く・愚かなる事は また環の端なきが如し》なのであるから 《追従と賄賂》に血道をあげる人とあげない人とに セヂ連関の環としては 端はないであろうとすら言わなければなるまい。聖徳太子は 国家構想の実際の形態としての確立の地点に立って こうオモロしたのである。《聖徳》によって人びとを啓蒙しようと言うのである。しかし このオモロは すでに充分に共同主観されて 歴史は出発したのであり こう言わなくとも 沈黙のうちに人びとは この声を先刻 聞いている。
ブッダは スサノヲ者としてセヂ連関の中にあって このことを言ったに過ぎない。精神の徳を プシコロジ(心理学・倫理学)としてアマテラス語理論体系化したのは 後の人びとである。ブッダは 倫理学を修めようと思って 家を出たのではない。王子アマテラスの地位を去って 家を後にしたのではない。また いわゆる悟りを開いてのち 人びとに倫理学を講義したのではない。見えないセヂ連関の倫理を アマテラス語理論化して 講義したのではない。静かなるイヅモの道に従ったまでである。
ゆえに かれに人びとはついて行った。国家がブッダを 一つのアマテラシテ・徳の象徴として のちに まつりあげたのは タカマノハラ・オモロを いくぶん人間的なものにしたかったからである。しかも タカマノハラ仮象デモクラシの保守のためである。ブッダを 観念の運河に乗せたのである。これは 要らぬお世話であると言わなければならない。また カシハラ・デモクラシ共同主観者は そう言っていた(オモッテいた)であろうと いまのオモロを 反転させて捉えなければならない。
しかし はじめは《我ひとり得たり》という人によって始められたのである。この《我》が ミマキイリヒコであるとかイヅモであるとか言う場合は 複数の我れ すなわち共同主観なのである。セヂ連関の・セヂ連関における 原始心性(または 旧い母斑)の対象化であり揚棄であるにほかならない。これが 動態として 静かに起こっていることを 人は疑ってはならない。絶対にうたがってはならないのである。それとも それこそ観念の資本にすぎないではないかと 《我一人得たり》と言う独立連合派の人びとは 答え返すであろうか。
そうだ きみたちが 《我れ一人得たり》のブッダと 自分たちのオモロとを 取り替えっこしたのではなかったか。精神の徳は イヅモの人びともオモッテいたことであるから なお沈黙を余儀なくされなければならなかった。この《韓(つまり この場合 ブッダ)招ぎ》の過程を静かに見守らなければならなかった。
そうだ わたしたちは 恥づかしいことに 弱すぎたのである。わたしたちは タカマノハラ・オモロの内容が次から次へと変えられ――大枠の観念の運河の中で――うたわれて行くのを だまって見ていた。もし 《第三転》つまり中世封建市民の時代を不問に付すとするなら。
けれども 時の充満を見なければならない。もはや もっぱらのアマテラス者は 取り替えるべきオモロを見出さないからである。アマテラス予備軍も かれらに仕えることが出来なくなってきた。世界じゅうのオモロが集まったからである。ブッダをタカマノハラ・オモロに取り入れたのと同じように 同じスサノヲイストのマルクスのオモロも アマテラス予備軍は いやと言うほど うたった。両者(アマテラス為政者側とアマテラス予備軍と)が 《フヂハラ》仮象普遍の抽象的にして性倒錯するデモクラシを構成する。残る道は このアマテラス語化されたオモロ集積を スサノヲシャフトへアマクダリさせることのみである。
わたしは言うが それは 人間(現実)が変わることである。精神の徳へと変わるのではない。嫉妬を共同主観セヂ連関の中におさめる動態の時代が来ると言おうとしている。その意味で 嫉妬(広く 原始呪術心性の母斑)がなくなると言うのではなく いわば――母斑の海をのり超えた――快活な嫉妬 快活なオモロ動揺である。また 言うとすれば そこには たしかに快活な畏れもあるはずである。
スーパーツカサが 観念の運河にのっかって アマテラス者公民として 嫉妬や追従や賄賂を受け取りつつ押さえ 抑えつつ受け取っているという共同自治の方式が変わると言おう。スーパーツカサが しんきろうのヤシロ資本主体であると確かに認識されようとしている。
オモロ構造が タカマノハラ要因を核にして独自の分裂を起こし自らの運動を繰り広げたとは言え 一個のヤシロとして いわば完結してまとまり また ユダヤ人のように必ずしも四散する必要がなかったこのくにでは この回転は 容易に起こるであろうと言わなければなるまい。
だから それが 内なる聞こえ大君の声(また その構造)の反転でないなら わたしたちはどこに 精神の徳を見出すであろうか。精神の徳が また律法が 核分裂を起こさせた――フヂハラ仮象の精神の共和国のもとに 核分裂を起こさせた――とは言え それは 悪なのではない。また ただし セヂ連関がやしろ全体的であるのに フヂハラ共和国は 単独分離している。つまり 自分たちは原始呪術心性とは違うのだという自負があって 選良でることをも自負している。ヤシロの総体とは言え その人びとの環には端があるかも知れないと思っている。それは 歴史を無視することになる。ゆえに やしろ資本連関の全体で オモロ構造が 殊にこの特異な(どの社会も独特・特異だから)日本のくににあっては 反転し 新しい時代を迎えるであろう。これは 弱い者のつねとして 自分に向かって言ったのである。しかもこの弱さには 環の端がないと聖徳太子は言ったのである。
しかしわたしは 聖徳太子は 歴史に甘えたのだと思う。それに対してわれわれは 弱すぎた。
(つづく→2006-10-16 - caguirofie061016)