caguirofie

哲学いろいろ

#16

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第七歌 きざはしの歌

歴史(やしろ資本の形成・共同自治)に女性を排除しない。にもかかわらず 排除の論理(生理?)がはたらくと――つまり 火の神あかぐちやぜるままがなしに仕える生活人・主婦を セヂ関係の基体から押しのけてしまって 上昇志向によってのごとく おぼつかぐらなる観念の天(A)に 生活人(S)が依り憑くと つまりは 依り憑くようにして 女性やよそ者を 排除し 排除するからこそ これらの人びとを むしろ自己の圏域内に上層から組み込もうとすると―― そのようなソフィスティケートして二層構造から成る観念の資本制は 考え方において聞こえ大君体制であり 実質において性倒錯したそれであるとなる。

  • 卑弥呼の時代には それぞれの国に ヒコ(卑狗)つまりオモロの《てだ〔の子〕》であるとか シマコ(兕馬觚)つまり 間切といった管轄区域なるシマ(島)の按司を持っていたと解するなら それは おそらくまだ 一方で古代市民の国家形態に達しておらず 一方で それの一つの模型としての聞こえ大君体制すなわち 《聞こえ大君=按司添い / のろ=按司 / かみ=根人》といった《おなり=ゑけり》のセヂ連関の重層的な体系に達していない段階で かつ その一種の変形形態にあったと考えられよう。要するに おなり‐ゑけり もしくは 女(ヒメ)と男(ヒコ)のセヂ関係 これが 流動的で自由であったと言えるし そのぶん おおいに――倭国の乱を招いてしまうような不安定要因によって――動揺してしまったとも言いうるであろう。
  • 動揺したぶんだけ 観念の資本制として あかぐちやぜるままがなしの基盤(S)がゆるみ その現実情況が おぼつかぐらなど天(A)を表象する共同観念派の分離分立となって現われ セヂ関係が 女性を基盤としてではなく どういうわけか 男によって取って代わられ そのぶん 性倒錯または逆立ちするヤシロ資本の運営形態へ移ることがありえた。
  • もとからのヒメヒコ(日女日子)ないしオナリヱケリのセヂ基盤が動揺しなかったなら ヒミコ=つまりメのミコトが わざわざ やしろのアマテラス統治者に共立され そのように形態的に従来のヒメヒコ制を確認するという手続きを取る必要はなかった。
  • ヒミコ女王の以前の時代には 《もと また男子を以て王と為し》ていたのであるから それとして 男女セヂ連関が 共同自治の方式としてオモわれていたと推測しうる。そのときには《一女子を共立する》ことをせざるを得ないような危機はなかったと言いうる。沖縄では 国家形成に際しても――それは一つの危機(オモロ構造の動揺)であったかも知れない―― セヂ連関が やしろ動態の原理であることが しかし基本的なオモロ構造として 保存されたという違いである。この原始心性は 尊重されるべきであると思う。(また このオナリ・ヱケリ連関を 姉妹・兄弟関係に求めるのではなく 女と男の関係もしくは主婦コデを基調とするとわたしたちは 読み替えてきた。)また これを 確立――揚棄されて 近代理性として 確立――したなら 神女組織はどうでもよいものとなり かつアマテラス社会科学主体に女がなっても男がなっても かまわないわけである。もっとも 誰でも アマテラス政治学主体になれるということに力点があるのではなく 観念の資本制が その内部で倒立していたとするなら これを再倒立させるということ だから アマテラス市民政府は あかぐちやぜるままがなし市民スサノヲ共同体の単なる代理・調整機関だということに それは ある。

したがって 性倒錯し 女性を排除するから 取り込もうとするオボツカグラ派の論理は 同じく神楽歌で 次のようにオモロする。

  〔庭燎の儀式での採り物の〕弓
   本
弓といへば 品なきものを 梓弓 真弓槻弓 品もとめず 品もとめず
   末
陸奥(みちのく)の 梓の真弓 我が引けば やうやう寄り来(こ) 忍び忍びに 忍び忍びに
小西甚一校註:《古代歌謡集》)

《ゑけ あがる辺のみづかわ / ・・・しけしけと 降れさちへ / 今日より あいいてるむ / 船子 選で乗せて 手楫 選で乗せて》(巻十・531)ではなく つまり 《選ばない》=《品なきものを / 品もとめず》と言うときが 性倒錯する排除の論理だ。《我が引けば やうやう寄り来(だんだん こっちへ来い)》と言うのは すでに セヂ連関から外に出てしまった(つまり いわゆる自己疎外を どうしようもないものと見ている)からであり このセヂ連関は むろん 消えてなくなるものではないから 隠微に・密教的に 《忍び忍びに》 排除するから 依り憑こうとして 取り込もう・取り込まれようとする。
言いかえると セヂ連関(それは 男の女に対する関係である)は あかぐちやぜるままがなしの現実であるのに 現実でしかないのに かれらは 一旦 これを疎外する 観念のオボツカグラのほうへ アマアガリして 取り憑く 言いかえると 女性を排除して 性を禁忌とする(それが 教養のある徳の人の道だとオモロされる) だから カグラ派のしるしである山葛をつけることによって初めて 性関係・セヂ連関が成立するのだとオモイ込ませる だから ひそかに談合して一部のスサノヲ市民に ポルノ解禁論をぶたせて そうして 禁忌とされたことによって 性関係を享受しようという。

  • この指摘は 今では 旧い。

これが ほんとうの共同主観(常識)だとオモイ込んだかも知れない。この共同主観――つまり あやまったそれ つまり幻想的な共同観念――の枠がなければ 《外山なる真析の葛
 色づきにけり》とはならなかったであろうと考える。だから 《品なきものを / 品ももとめず》と 自分にこの共同観念を植え付けるようにして うそぶく。
これが 《排除しないんだ》と叫ぶ排除の論理 性倒錯のオモロの世界である。
聞こえ大君の(沖縄の)観念の資本制国家は 性倒錯しない統合――ただし逆立の統合――の論理だと言ってよいであろう。

  • セヂ連関が 一つの現実であり それは 連関とか筋とかいうように オナリとヱケリとには 性の区別は そのまま あるが もともと《品なきもの》であることを見ていたし 知っていた。

ところが 神楽歌が 《穴師の山の山人と 人も知るべく 山葛せよ》とオモロするとき この《山》は 単なる山ではなく 《ぐすく》なる御嶽・杜をあらわしている。オボツカグラからのセヂの降臨をここに受け取ろうと言うのであり それは あかぐちやぜるままがなし・竈・主婦を 排除せず むしろその基盤としていた。今 詳しい論証をしないが 巻向の穴師(痛足)の山は あのヒミコ体制を揚棄したミマキイリヒコイニヱのミコト(崇神天皇)の観念の資本制国家 またその信仰を象徴する近くの三輪山を 連想させる。あるいは 国家つまり逆立ちしたセヂ連関形態ではあれ オホサザキのミコト(仁徳天皇)の煙にまつわるやしろ資本連関のまつりごとを想わせる。つまり かまど・あかぐちやぜるままがなしの思想である。
神楽歌は ともあれ――沖縄や北海道をまだ含まないときの――日本なる国家の確立してからのオモロであるから ヒミコ体制の直截の継承ではなく またオモロ構造として いわれのないものでもない。セヂ連関が 原始心性のわたくしそのままでは いけないというので オボツカグラ(おほやけ)なる観念のもとに オモロしたものである。天女の思想を 取り入れたことになる。
これを 国家がおこなったのである。あかぐちやぜるままがなしの主婦が それぞれおこなう(スデ水・ウビナデ)のではなく その思想をいわばアマテラス語に普遍化して アマアガリさせたことになる。したがって スサノヲ語の《ゑけ》を 阿知女の《おけ》に変えた。しかも これが 共同観念の蔽いとなって――聞こえ大君のセヂ連関のいわば運河よりも いっそう強固な観念の運河となって―― 品ももとめず排除せず 韓招ぎして韓神を取り込む排除の論理となったのだ。
しかし この排除(取り替えばやによる摂り込み)の論理は ――沖縄なる一個のやしろの中で その人びとのセヂ連関が 聞こえ大君体制にまで膨張したように この排除の論理なるオモロも 行き着くところまで行くと言ってのように―― 膨張する。山葛することによって 自己のアイデンティティを確認する(自己の存在意義はこの集団の一員であることによってのみ 存立すると思っていることになる)わけであるから 山葛していない人びとに向かって 摂り込み=排除のために 進まないでいないことを むしろその生命としている。

   〔採り物の〕鉾
    末
四方山(よもやま)の 人の守りに する鉾を 神の御前に 斎(いは)ひ立てたる 斎ひ立てたる
(神楽歌)

けれども この《四方山の人の守りに》向かって進むオモロの膨張は すでに 過去のこととなったと思われた。山葛するしないではなく その元の《山》が思われるようになった(――この執筆の頃 古代史ブームがあったことを言っている)。内部から生まれ変わるのである。その原理は あかぐちやぜるままがなしのセヂの動態であり――それ以外の難しい理論はまったく要らない―― このもとに スデ水・ウビナデの水の神 あるいは おぼつかぐらの天が思われたことを知ることになる。
もしこのオモロ構造が なお原始心性のものであるとするなら わたしたちはこれを容易に読み替えることができる。

  • そのために 学問があり スサノヲ語は アマテラス語理論を用いて 自己の認識をすすめていかないわけではない。けれども アマテラス語理論のために 生きているわけではない。

もし それでも 共同主観の現実・あかぐちやぜるままがなしの生活に 人間的に言って 対立・矛盾があるとするなら 生まれ変わって 前史から後史に入った人も 次のようにうたうかも知れない。つまり

深山には 霰降るらし 外山なる 真析の葛 色づきにけり 色づきにけり

こう思わなければならない場面があるかも知れない。いま・ここ あるいは ふるさとのほうが よいと思うときがあるかも知れない。
こう言うと それは自己満足だと言う人がいる。しかし 共同主観セヂ関係は 動態だが 動態であるゆえに 滞留する。ただちに 天女(天使)となってアマガケようとは思わないから。ゆえに 滞留する。膨張しないゆえ 自己満足する。この自己が すでに 動態なのである。そうでなければ また 同じように 後史に入って母斑をのり超えた人たちも ふたたび オボツカグラ派へと 観念的にアマアガリしていかなければならない。
韓招ぎせず 韓神とセヂ連関を保つから 自己満足している。けれども これは 真正のオボツカグラ派に譲って かれらが つまづかないように述べたことばである。たしかに これらの人びとに 一旦 恥じ入らせるために述べたのである。
われわれは このように勝利のうたを 階段をのぼるようにして おもっていかなければならない。このようなセヂの動態をさまざまに語るであろう。これからどうなるかは まだわからない。しかし セヂ連関が 動態であることを知っている。
(つづく→2006-10-04 - caguirofie061004)