caguirofie

哲学いろいろ

#18

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第八歌b やうら やうら やうら ゑおい

さて 朝鮮の扶余アマテラス・カグラ派は 《精軍(せいくさ)を押し発て》ることになる。やって来た《せぢ鳴響み軍》は 先のノリトに従えば フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコトらであった。
もっとも この前に日本が 朝鮮や中国のオボツカグラのオモロの影響を全然うけなかったというのは うそである。先に見たように 縄文人から弥生人へ移って 原日本人が日本人となり――だから 第一の原日本人のみが形成していた東日本では この新しい変化を 観念的にこうむって行ったであろう―― アメノと呼ばれる前のホヒのミコトやタケミクマやワカヒコを受け入れるとともに 文法構造の核分裂のきざしは見せていた。すでに述べたような意味で マキョ時代から按司時代への展開であり また 按司時代なるやしろオモロ構造のいくらかの動揺である。
いま 《その国(西日本一帯 それとしての倭) もとまた男子をもって王となし とどまること七・八十年。倭国乱れ 相い攻伐すること歴年 すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という》といった記事を想定しているのだが またこのひみこのヤマト国(なる諸按司の連合)が ヒメ(おなり)をアマテラシテに立てなければならなかった分だけ すでにオボツカグラ思想が 派を形成したと考えたい。
もっとも 《その(ヤマト国の)南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王(ヒミコ)に属せず》という場合には ヒミコのヤマト国(もしくは それとしての諸按司連合)に属さないヤマトのくにもあったと考えなければならない。
ともあれ 朝鮮のくにの新たなアマテラスが タケミカヅチらを送るその前のヤマトの状態について そのように考える。

  • もし騎馬民族説であるなら その本隊がやってきたことになる。つまり その程度の違いだという見方を している。

さらに同じく タケミカヅチらの《せぢ鳴響む軍》を迎える以前について ここでは 次のような想定をしておきたい。
ヤシロ資本連関のオモロにおいて 三つの考え方があったと。
まず 象徴的に言うのだが イヅモの立ち場。つまり のちに第三のスサノヲを受け容れるようになったとするなら それは 具体的には ツクシ(北九州)に始まったのだろうが その影響を観念的にしろ こうむった国の代表として イヅモとしておこうと思う。それは 次の理由による。
騎馬民族説に従う場合でも この朝鮮からの第三のスサノヲを受け容れその支配下に入ったツクシは その後の日本としてのオモロ構造の変遷において もしそうであるなら 騎馬民族=第三のスサノヲのその後の動きに オモロとしては 従属するであろうから。そうして ヒミコのヤマトでもなく 狗奴国のヤマトでもなく この新しい第三のスサノヲを 観念的にしろ・つまりオモロ構造として受け取った今ひとつのヤシロの立ち場を イヅモと想定して 論議いていきたいと思う。
一般に イヅモでは オボツカグラのオモロを受け取りつつ しかしながら 核分裂しないことを建て前としたと考えられる。膨張しないという考え方である。そういう立ち場を想定しておくべきだと考える。

  • また その限りで これによって 東日本を代表させうるかも知れない。そのようなオモロの行き方が 西日本にも存在したと想定する。

そして ここでは 仮説の便宜上 ヒミコのヤマト連合を ヘグリ(イコマ)とし それに属さない狗奴国を 同じくヤマトのカヅラキと想定して話をすすめたい。いづれにせよ これら両者は 倭人と原日本人とが築いた日本のヤシロ資本連関であった。また ツクシにあったとしても いづれヤマトへ移って行ったことは事実であるとして 捉えておく。
イヅモは むしろ 沈黙していた。ヒミコのヤマトは もともとそうしていたように 中国とのつながりを求めた。狗奴国(カヅラキ)は いわば独立派であって しかも沈黙しておらず むしろヒミコのヤマトと争った。いづれにしても あかぐちやのヤシロ資本連関に オボツカグラのオモロ(のち タカマノハラ)を表象するようになって ここでまず 三つの立ち場が現われたことになろう。いづれも素朴には独立派だが 沈黙と そして中国とのつながりを重視するところの連合派と さらにそして この連合派とあい争う独立派とである。三つ目の派は なぜ争うかといえば かれらも 天=オボツカグラをかかげるオモロによっているからである。
これは イヅモなどが 沈黙したままでいることによって さらに動揺を増したとも考えられるし 逆に 連合派も独立派も これに理解を示して行ったとも考えられる。それは のちに示すように すでに触れたノリトが 《荒びたまひ健びたまふ事なくして》いわばオボツカグラ派の思想つまり国家としてのマツリゴトをのちに形成したと言っており このことを重視するとすれば――そのような展開は むろん 歴史の偶然の出来事に より多くを負っているのだろうが―― のちの騎馬民族=第三のスサノヲによる征服王朝説をとる場合でも 互いに相容れない史観ではない。なぜなら 単純にもし たとえ せぢ鳴響む軍による《荒びたまひ健びたまふ》武力による征服であったとしても まずその以前に成り立っていた基調としてのオモロ展開だと考えるから。もう一度くり返して三つの立ち場を説明すると イヅモ沈黙のオモロのばあいは いわばもっぱらのアマテラスは 按司時代の段階にとどまった形式である。ヒミコ・ヤマトのばあいは 中性なる共同観念アマテラス語ないしアマテラシテ――それとしての オボツカグラである――に 女性・ヒメを立てて せぢ連関をすすめていこうというのであり この場合のアマテラシテ・ヒメは 中性観念との結婚であるなら その限りで 性倒錯した聞こえ大君の類型であると考えられた。そして独立派カヅラキ・ヤマトは このヒミコ連合と争った。せぢ連関・オモロにおいて 相い容れないようにして 争った。
ヘグリ・ヤマトのヒミコが死んで 《さらに男王を立てしも 国中 服さず こもごも相い誅殺し 当時 千余人を殺す。またヒミコの宗女トヨ 年十三なるを立てて王となし 国中ついに定まる。うんぬん》といった展開があったのかもわからない。トヨも去ったのちでは あるいは聞こえ大君類型としてのヒミコ制が一旦消滅して 基盤としては同じセヂ連関にもとづきながら 男の按司(諸按司の盟主)が引き継いだか あるいはカヅラキのヤマトがトヨ(またその後継者)を討ち取ったか そのときには カヅラキ独立派も そのヤマト連合の盟主としてヘグリに取って代わったか代わらなかったか 代わらないで 連合派の諸按司のくにぐにを いくらかの動揺の中に置いたまま推移させたか 新しく盟主となったばあい そのヤマト連合は 連合を説くまでには至らないゆるやかなヤシロ諸連関が取り戻されたか。
しかしこれらいづれの場合であっても あのオボツカグラ派の思想の核分裂が一旦は おさまったようであったとしても それが くすぶり続けたことは想像されるべきだと思う。
くすぶり続ける核分裂のオモロが いづれ総体的に熟したとき――くすぶり自体が熟したとき―― たしかに国家を作ろうという考えが生まれたのだと思う。諸按司の連合でもなく あるいは 諸按司の呪術的なセヂ連関への反対としての連合といった独立按司の互いの攻防にとどまるものでもなく そうではなく 一人の按司添いによる一定地域全体の統一なるオモロ構造である。この一人の按司添いがになうオボツカグラを タカマノハラと言ったのだと思う。このタカマノハラは 派を形成するよりは 初めには 基礎を 赤口や(また トヨアシハラ)の生活に置いていたと言いうるかも知れない。カヅラキのヤマトと 元のヒミコ連合のくにぐにと またイヅモらと西日本全体に タカマノハラおぼつかぐらの観念を含んだオモロが そのような統一セヂ連関の形式が 起ころうとしたといま 仮定する。

この仮定のかぎりでは この日本(ないしヤマト)というナシオンのオモロを実現させたのが ミワ(もしくは 巻向)より出たミマキイリヒコイニヱのミコトであったと思う。かくて 初国知らすスメラミコト崇神天皇というわけであるが このときの問題は オモロ構造としてタカマノハラ思想による統一なのであって 言いかえるとむしろ 赤口やぜるままがなしの基盤が おぼつかぐらのアマテラス語による統一ともいうべきタカマノハラ要因を得て 一個のヤシロせぢ連関として構造的にまとまったというのであって これは 国家が 形態として(権力的に)確立されたのではないと思われることである。つまり この時点では タカマノハラ主義となったのではないと思われることである。

  • スサノヲ圏赤口やぜるままの生活を基盤とし そのS圏のために タカマノハラ(要するに 天)なるオモロを用い これをその限りでアマテラス圏とした。S圏のためのA圏のかぎりで 民主主義である。

いまだ オモロ構造として・つまり そのような共同主観として むしろ信仰がオモイとして形態化したのであると考えられる。スサノヲ語における主観の観想が 基盤に あった。
逆に言うと このミマキイリヒコ按司添いの下のヤシロせぢ連関は 本質的に観念の資本であって その中のタカマノハラ要因は 仮りの要因である。または 時に トヨアシハラが一般スサノヲ圏で タカマノハラが もっぱらのアマテラス圏をかたちづくるまでにして この限りで形態的にも実現を見たとしたなら しかしこの時にも このタカマノハラは 仮りの形態的な要因であるとオモロされたのではないか。それは ヒミコが共立されたのが いまだ ある危機にのぞんでの 仮りのものであったようにである。もっとも ミマキイリヒコの観念の資本オモロは ヒミコ体制とはちがって すこぶる落ち着きのよいオモロ内容であったと推察される。
それは 一つに 古くからのオナリ‐ヱケリのそれとしての呪術的せぢ連関形式をたしかに揚棄しており 一つに そのように旧いせぢ連関を揚棄する過程で ヒミコのオモロ構造のように 中性アマテラス語共同観念に依り憑くことをこばみ 性倒錯しないからである。なぜなら このときのタカマノハラ要因は ただ おぼつかぐらが言葉として新しくなっただけではなく 以前のようにオボツカグラに依り憑くようにして 赤口やぜるままがなしの一般市民せぢ連関を守ろうとしたヒミコの性倒錯の形式を 揚棄したからである。
旧いオモロ構造――それが或る危機に陥り くすぶっていた――の殻を 破ったからである。マキョ時代のオモロから按司時代に移行し 按司時代のオモロに おぼつかぐら要因を取り出し 人びとは せぢ連関=やしろ生活を対象化していた ところへ このオボツカグラのオモロは 縦横に構造的となったところで 核分裂の思想をその文法構造の中に持った。按司がそうであったように 赤口やぜるままなるスサノヲの中からも オボツカグラに依り憑いてのようにもっぱらのアマテラスが出現するからである。そのくすぶりの中から スサノヲ圏のためのA圏タカマノハラというオモロが これのみが 落ち着きのよい構想として 選ばれたのではないか。
核分裂のオモイを容れて オモロ構造は動揺し そこで オボツカグラへの依り憑き形式を タカマノハラ要因の対象化という形式に変え 唯だ一人の按司添いの下のやしろせぢ連関体という文法構造 これが新たに むしろ仮象想定されて 核分裂せぢ連関を 動態としての・構造過程としてのせぢ連関に捉え返したのである。
何かが第一位に置かれるのではない。赤口やぜるままがなしは 基盤であり しかも これが何か一派を形成するわけではない。また タカマノハラ要因は やしろ資本連関の仮りの一要因ないし形態であって タカマノハラ主義となるのでもない。つまり 国家を実体としてのように これを保守するオモロではない。そのタカマノハラがもっぱらの棲息圏となって そのA圏のために・そのA圏の保守のために すべてがオモロされるのではない。そのように捉えられる。そのアマテラス語観念に取り憑くオボツカグラ第一主義などではないと。
しかし ここで あたかもアマテラス圏の誕生を見通すかのように 国家という形態が 或るオモイとして 思われた。


ここへ タケミカヅチら第三のスサノヲの波がやって来たのだと思う。
《遷都崇神》のノリトに従うと 《荒びたまひ健びたまふ事なくして タカマノハラに始めし事(――国家というオモイによるオモロ構造のマツリ及びマツリゴト――)を神ながらも知ろしめして・・・》とつづくことになる。
もっとも このノリトのオモロが 《荒びたまひ健びたまふ》タケミカヅチの武力征服のあとに成ったものであるとするなら まるっきり別となるわけであるが ただ ヘグリ・カヅラキ・ミワのヤマト(およびイヅモなど)に 一つのヤシロせぢ連関として《タカマノハラ(おぼつかぐら)‐トヨアシハラ(あかぐちや)》構造のオモロ資本関係が 共同主観されようとした歴史を 排除しないであろう。なぜなら じっさい 騎馬民族説に従うとしても ちょうどこの頃 タケミカヅチなるセヂ鳴響む軍を従えた扶余人=第三のスサノヲとしての《ミマキイリヒコ》が 北九州に上陸したというのであるが――また このツクシで三・四世代を 勢力を貯えるために費やしその後 ホムダワケ(応神天皇)のとき ヤマトへ上って来て まずナニハに都したというのであるが―― かれらは 《決して無知蒙昧なところ 取る物がないところには入りません。相当な国であって しかもこれはものになるぞというところに入ります》(江上波夫)というのであるから どうしてもヤマトの弥生時代(その後期)の新しいオモロ構造の先行文化を見ていなければならないと思われる。

  • 沈黙派イヅモと連合派ヘグリ(旧ヒミコ連合)と独立派カヅラキを おおきく統合するミワのミマキイリヒコとは別に もう一人のミマキイリヒコがいることになる。つまり 半島から騎馬民族がやってきたとする場合にはである。後者・ツクシのミマキイリヒコは その地で三・四世代を経て力を貯え やがてホムダワケ応神天皇のとき ヤマト(ないし ナニハ)に上ってきたという解釈になる。この騎馬民族の上陸を想定しない場合には 一旦ミワにミマキイリヒコ民主政権が確立されたのち その内外・周辺から 国家オモロを第一に掲げるホムダワケ応神政権が 現われ ミワ政権に取って代わったという解釈である。
  • ミワのミマキイリヒコは 系統として・オモロの傾向として 沈黙派イヅモから出たと考える。その論証はない。ヒミコ連合派から出得なかったと思われる。独立派カヅラキは オモロの方向を同じくしたと考えられるが あたかも ヒミコ系統を敵対勢力として 成り立っていたのかも知れない。浅い考察にとどまるが。 

文法構造の核分裂が ヤマトで ヘグリとカヅラキとミワとの間で 動揺し時に沈黙を経て 新しい一個の按司添いの下の動態せぢ連関へ移行していったとかんがえられる。ここへ――もし征服王朝説にしたがうと――さらに 第三のスサノヲの核分裂思想が入ったと推測されるのである。実際の騎馬民族が来なかったとしても そのかれらの国家オモロが 輸入されたと考えるのである。
わたしたちの吟味の要点は たとえこの応神征服王朝が 歴史的事実だとしても それは どうでもよい。――なぜなら すでに自分たちも独自に想定したタカマノハラなる国家構想の中へ 新しいタカマノハラビトがやって来たというに過ぎないからである。この形態としての国家の成立は 重要な主題だが ここでは その骨格じたいは すでに成立していたと考えられるからである。つまり タカマノハラA圏の想定は 国家オモロというセヂ連関の仮りの形態であるとすでに共同主観されていたから この新しい出発点じたいに おおきな動揺はなかったとさえ 主流においては 言えるはずである。
こうして 縄文原日本人と第一のスサノヲ(倭人)と第二のスサノヲ(韓人)と時に第三のスサノヲ(扶余人)とによって おおむね《日本人》が成立したのだと考えられる。またこれが やしろセヂ連関のオモロ原形式だと捉えられるであろう。
しかし その後――征服王朝であったとしても なかったとしても―― 時にもっぱらのオボツカグラ派・タカマノハラ主義・要するにナシオナリスムが 出来したとするなら それは神楽歌などが暗示するように この国家の自立自存のごとき事態が現われたことだと考えられる。それ自体が自体によって運動する。自己運動体となる。つまりは そのとき この自己運動を保守しようとする人びと・もしくはそのオモロが発生したと考えなければならない。われわれは この種の人びとを もっぱらのアマテラスと呼ぶ。そのアマテラス圏が独立する。スサノヲ圏から分離・分立するだけではなく スサノヲ圏を主導することになる。基礎が 第二階によって 導かれることになる。頭で立つことになる。
スサノヲ圏=赤口やぜるまま市民生活に 天=オボツカグラなるオモロ要因が生まれ これをめぐって 人びとは そのオモイに動揺をきたした。けれども 水平とともに 垂直にも伸びるオモイは 自然の拡がりであって その縦横の世界は オモロの構想として落ち着いた内容をもたらすと考えられた。これを ヤシロの形態としても 実現させた。赤口やぜるままを トヨアシハラと見なし オボツカグラをタカマノハラと捉え直した。後者は 素朴な原形としてのアマテラス圏である。しかも このA圏は 基礎スサノヲ圏の生活のために 調整当番である市長としてある。依然として 大きく広がったかたちで もとからのセヂ連関なるヤシロだと言える。ミワのミマキイリヒコ市政である。(その前の時代に トヨアシハラとタカマノハラとを統合するという意味でのオモロとして カシハラ・デモクラシと名づけたものがあったと考えたこともある。)
ここから ナシオナリスム・オモロへは どう展開したか。けっきょく 方向の違いだけであるかも分からない。生活基盤であるスサノヲ圏があくまでヤシロの基礎であり そのためにアマテラス圏があるるいう方向から これが逆転したという捉え方である。したがって そのときには やしろ全体として 目に見えない形では セヂ連関だという場合 たしかに その内容は変わってしまう。つまり 名前は同じセヂ連関であるが おそらく そのセヂ連関が S圏を基盤とした動態であると見るのではなくなる。つまり 今度は そのセヂ連関じたいが やしろ全体の秩序のためには 第二階のA圏から保守管理されなければならないと考えられる。スサノヲ市民たちの共同の主観過程であったのが 上から蔽いをかけられ このセヂ連関体のまとまりとして ひとつの観念と見なされ これを共同の観念とし さらにこの共同観念(ナシオナリスム・オモロ)を崇拝するという別種のオモロになっていったのだと。
こうなると 国家は 極端には 国家どうしが互いに排除しあわざるを得ないという論理を持つことになる。不倶戴天つまり 同じ一つのオボツカグラなる天を 共に戴くことがありえないと謳うナシオナリスト・タカマノハラ種族=もっぱらのアマテラスびとが《活躍》するとすればである。
また ここまでにおいて 東日本は必ずしも積極的に この日本なるナシオンの観念の資本制の形成に参加していない。この東日本への征戦が あらたに出来たヤマトなる文法構造の核分裂であったかも知れない。(ヤマトタケルの東征)。また 半島における朝鮮(扶余・高句麗および韓ないし倭)と中国らの関係――核分裂の関係――が問題になるかも知れないし ならないかも知れない。
基本的には 東日本の縄文人が 弥生人の時期を経ておおきく日本人となって行く過程である。言いかえると 逆のかたちで東日本人の・日本人としてのカグラ派の形成であり 逆からの核分裂なるオモロ過程である。この側面についても 注意しておかなければならない。
だが ともあれ ナシオナリスム形態としての国家確立の前には やしろの骨格としては あたかもそのナシオナリスム国家と同じような形態において 西日本ヤマト国家構想なるオモロが すでに現われたし 実現をも見たであろうと考える。(初国知らす崇神天皇とのちに呼ばれることになるミワのミマキイリヒコ市政である。)そしてこのオモロ構造の確立は 新しいセヂ連関共同主観として基本的に 名誉革命・平和革命であった――それは ただ歴史の偶有的な出来事の問題にすぎないが――と考えることが いちばんスヂがとおることのように思われる。

  • 階級関係・異民族関係による対立・矛盾を解決した(つまり 矛盾を解決したというのは その対立を動態させることに成功した)と言うのである。

このミマキイリヒコの国家構想のオモロ構造は そのヤシロ資本連関の中のやしろ資本主体(神主と表現される)であったオホタタネコの名をとって オホタタネコ・デモクラシとも呼ぶことにする。オホタタネコ・デモクラシなるセヂ連関動態の共同主観と言おうと思う。


まずここまでとしよう。この後 いわゆる古墳時代がつづく。また 自己運動する形態としての国家が 確立されることになった。
(つづく→2006-10-06 - caguirofie061006)