caguirofie

哲学いろいろ

#5

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第五節 観念の資本力としての《せぢ》

第三節に示した構図に見るようなやしろの観念の資本形態=中央集権的な古代市民の国家は その後 《一六〇九年 薩摩の侵略をうけ 沖縄はその植民地的支配を受けるとともに 与論島以北の五島を薩摩に割譲してしまった》。この境界は いまにまで続く。

ただ薩摩の植民地的支配を受けていても 対中国貿易を維持する関係上 独立王国としての体面は保持せしめられていたが・・・琉球王国が廃止されて琉球藩が置かれたのは 一八七二年(明治五年)であり 沖縄県が設置されたのは一八七九年で それ以後一九四五年に太平洋戦争で日本が敗北したときまでは 県政時代である。
(宮城栄昌:沖縄の歴史 〈第一〉)

このようして つまり この観念の資本制形態は 島津藩および日本のやしろ資本連関に ともあれ組み込まれるようにして それとしては 消えてなくなった。おもろの構造が 今に現実のやしろ資本連関として 存在するわけではない。とともに このような母斑の世界の認識・位置づけ あるいは その世界からの新しい歴史的な出発の吟味を 沖縄人を含めた日本人として・および現代人として おこなおうと言うのであった。
問題は この原始心性の揚棄であって その無視・排除ではないであろうと捉えていた。
また これの吟味を ここでは 経済学的にも・歴史学的にも あるいは宗教史的にも なさず 観念の資本の観点から 現代市民としてのわれわれの存在構造の自己了解といったようなことがらとしておこなう。

  • わたしは 記紀の神話(一種のオモロ)体系から続く日本の観念の資本制としてのヤシロ形態を 《アマテラス‐スサノヲ》体制として認識することをおもっているが 沖縄のオモロの構造についての認識は そのことを《逆照射》(大江健三郎)することができると考えている。が この論点を直截にはここで取り上げない。(ただし 後半で触れることとなった。)
  • もう少し言っておくと 《アマテラス‐スサノヲ》体制とは より具体的に ヤシロ資本連関(《社会的諸関係の総和》)が スサノヲ市民社会圏の第一次ヤシロと もっぱらのアマテラス(社会科学主体)圏=スーパーヤシロとに分離して 《A(アマテラス)圏‐S(スサノヲ)圏》連関体制を まず きずく。これが 国家であるが 日本の観念の資本制は このA圏に《アマテラス社会科学主体(現代では スサノヲのアマアガリした市民政府である)とアマテラシテ象徴=社会科学主体つまり天皇)(これは 《聞こえ大君》のヤシロ的存在を いい意味でも〔=民主主義において止揚しつつの意味でも〕悪い意味でも〔=原始心性の純粋化の意味でも〕 思わせるものがある)》とが並び立つかたちの中にある。
  • 言いかえると 沖縄の観念の資本制は 観念の資本力を 一つの《せぢ》という概念にまとめており またもっぱらこの力に仕える神女たちのやしろ諸連関が きみ‐のろ‐かみというように明快に組織立ったかたちに作られているゆえ いわゆる一つの理念型として捉えることが容易であるなら そうであるなら この点では 日本の観念の資本制形態は より複雑である。つまり その中に 内外のいろんな思想形式としてのせぢの形態や 時にヒミコ的支配者の隠然とした存在を温存させつつの まぼろしの蜃気楼閣なる器で それは ありうる。そういう要素が残ってい得る。また おもろさうしからの逆照射という所以は ここにあるであろう。
  • また せぢの対象化と聞こえ大君のアマクダリという作業の具体的な案としては やしろ形態についてこれを スーパーヤシロ=アマテラス圏じたいをアマクダリさせるところの《S圏市町村連合主導‐従属A圏(一種の相互調整・仲介機関)》連関制(つまり早く言うと 自由都市連邦・インタムライスム)の実現がかんがえられるとした。
  • これらの論点は つねに考慮に入れつつ しかし――ただちには――直截に論じない。

そうして 観念の資本の観点は 固有にと言うのがいちばんふさわしいほどに やしろ資本主体としての男の女に対する関係 これによく現われると捉え その考察に着手してきた。
もちろん 文学的にあるいは倫理的に まして宗教的に 説くのではないから この人間の性の関係は それじたいが 社会的諸関係の総和を映すと言ってのように やはり やしろ資本連関を――共同主観そして時に《せぢ》連関の観点から――論議するというかまえである。



ここでしかしながら 《おなり(姉妹)とゑけり(兄弟)との関係の観念の資本力たる〈せぢ〉》を言いつつも 共同主観は 共同のであっても 主観であるから――また スサノヲ・キャピタリストとしての 近代知性としてすでに 人は 独立・自由な主観であるから―― やしろ関係を離れない独立主観といったようなせぢの問題をも まず 考察しておかなければならない。

  • 関係主義の世界観は 独立主観の存在を 排除しない。

次のように説くことは あまりにも神秘的だと人は言うであろうか。

一 ゑけ あがる みかづき ゑ け 上がる三日月や
  ゑけ かみぎや かなまゆみ ゑ け 神ぎや金真弓
又 ゑけ あがる あかぼしや ゑ け 上がる赤星や
又 ゑけ かみぎや かなままき ゑ け 神ぎや金細矢
又 ゑけ あがる ぼれぼしや ゑ け 上がる群れ星や
又 ゑけ かみが さしくせ ゑ け 神が挿し櫛
又 ゑけ あがる のちくもは ゑ け 上がる貫ち雲は
又 ゑけ かみが まなききおび ゑ け 神が愛きき帯

(巻十・534)
この第十巻は 《ありき(走りき=船の航行)ゑと(掛け声)のおもろ御さうし》であるから いま 人は 海のうえにいる。または 想像じょう そのような経験世界が 前提にある。
原始心性を対象化しつつ それと紙一重となって その母斑の世界にむしろ寄留して いわば十字架の船に乗って この海をわたろうとするスサノヲ共同主観主体は その独立主観においては 必ずしも水平的に他者ではなく 時にあたかも垂直的に神を見るであろう。見たと表現したくなる体験を持つかも知れない。
航海者は

あれ あがる三日月は
あれ 神のかな真弓よ
あれ あがる明け星や
あれ 神のかな細矢
あれ あがる群れ星は
あれ 神の挿し櫛よ
あれ あがる横雲は
あれ 神の美しい帯よ
(比嘉・霜多・新垣:《沖縄》 8・1)

とうたったのである。原始心性の中から近代理性を獲得しつつ せぢ連関=つまり他者との関係にあるゆえ こううたったのではあるまいか。唯だひとり海の上にあるときにも むしろ 水平的な人間どうしの関係をおもっているゆえに 垂直的な表現のことば――すなわち かみ――で こううたったのではあるまいか。むしろこれが 近代精神の関係主義的な内面化ではあるまいか。
もし 科学的にして全能の近代理性が

ゑけ 東方(あがるい)の瑞日(みづかわ)
ゑけ 咲い渡るの桜
しけしけと 降り差ちへ
今日(けお)より あいいてるむ
ゑけ てだが穴の瑞日
ゑけ 朝凪(あさど)れが し居(よ)れば
ゑけ 夕凪(ようど)れが し居れば
ゑけ 板清らは 押し浮けて
ゑけ 棚清羅は 押し浮けて
ゑけ 船子 選(えら)で 乗せて
ゑけ 手楫 選で 乗せて
(巻十・531)

とうたいつつ 共同主観していくことが出来ないとすれば つまり ふつうの生活日常をいとなむことが出来ないとすれば――それを怠ってというよりは 近代精神のスーパー原始心性なる共同幻想の蔽いによって 逆に呪縛され それが出来ないなら―― それは 不幸なのではないか。やしろ資本主体の日常生活上の性としての関係も このせぢを飲み 精神の胃袋で消化しつつ 出発したのではなかったであろうか。
《経済学は いや人類学をも含めて社会科学は 男や女を〈人間〉として研究する従来の方法に深刻な反省を加えざるをえなくなっている》と言って この問題に発言する経済学者が あらわれた。(もちろん 初めてというのではない。)

・・・復位されるべき人間とはいかなる人間だろうか。・・・われわれはすでに《人間中心主義の幻想(近代精神)》が拒否されるべきものといって 復位されるべき人間が動物次元の属性にとどまってよいはずはないであろう。それならば 人間を《人間一般》として復位すればよいのだろうか。だが 人間は《人間一般》としてあるよりも前に 男として または女としてあるのではないか。男であり女であるということは 《人間一般》に付け加えられる二次的な属性ではないはずである。ここに男( man )であり女( woman )であるということは 雄( male )であり雌( female )であるということと同一ではない。いいかえると ジェンダ( gender )はセックスと混同されてはならない。
これまでジェンダーの問題を直視した雄大な社会科学者がいたことはたしかだ。マルクスはあの《経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)》のなかで 

人間の人間に対する直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性にたいする関係である。

といっている。その《青年マルクス》がやがて《抽象的人間労働》を強調する《資本論マルクス》へといかに変わっていったかを明らかにすることは 経済学とは何だろうかを考えるときの重要な論争的課題であろう。・・・

  • もう少し このまま話を聞こう。――引用者。

人間の歴史というものはジェンダーとともにあることが洞見され 強調されるべきではないだろうか。歴史を語るときの出発点は社会を構成する生きた諸個人だというだけでは せいぜい人間 群集 民衆 資本家 消費者 労働者等としてしか表現できない中性的人間どものパワーのぶつかり合う不毛の世界を描くばかりとなって これではジェンダーの世界の内部で男と女が織りなしてきた平和をつくる日常生活のたしかな足跡は 取りだそうにも取りだせないのではないか。
・・・
学際的規模でのジェンダーの探求は 今日セックス文化と暴力=戦争という虚構の社会システムを生み出している現代産業文明のおそるべき頽廃を突き抜けてゆくうえにも とりわけ若い人たちに採り組んでほしい八〇年代最大の思想的課題と思われる。
玉野井芳郎:〈女と男を考える視座〉 朝日新聞1983年1月17日夕刊)

取り組んで欲しいと言っているだけだから ここで《視座》が示されたのではないが また《セックス〈文化〉》ということばが はたして存在するのか 疑問ではあるけれど――また 存在するとしたなら ジェンダーにもかんする最高の文化であるという逆説が 現実となること請け合いだが―― 参照しておくことができるかも知れない。
けれども やしろ資本主体としての性は むしろセックスとしての原始心性を扱うものである。そうして その結果(同時にその作業過程が続いているのだが)が ジェンダーとしての人間存在となってあらわれているものと言うべきではあろう。人間が 動物( animal )とともにその魂( animus )を共有しないわけではない。ちなみに 玉野井は 沖縄国際大学の教授である(何の関係もないことだが)。
もちろん このような観念の資本力(原始心性のせぢと このせぢを脱したと言い張る近代理性のせぢ)にかかわる問題は いくらでも取り上げられてきた事柄である。もう一つだけ例をあげておくと。

・・・〔ホブズボーム著《資本の時代》の〕第十三章〈ブルジョアの世界〉における二重の生活基準の分析・・・。それは 

努力と享受は共存していたが衝突していた。そして 性はこの争いの犠牲のひとつであり 偽善は勝利者であった。

という言葉に要約されているように

  • われわれは 玉野井が《偽善者》だとは思わないが。――引用者。

いわゆるブルジョア(近代精神)的偽善の本質に迫るものである。

  • ちなみに 偽善というとき それは 超原始心性というような見方とあい携えている。

ブルジョア文明が 女性は本質的に精神的な存在であることを強調する その大げさな態度がまさに 男性がそうではないこと そして両性間の明白な吸引を価値体系(――《せぢ》の関係における倫理的な分析・認識――)のなかにうまくくみこみえなかったことを 意味した。成果は享受と両立しないとされ・・・もっと一般的には 文明は本能の要求の抑圧のうえに 成立するとされた。

これは例えば金をもうけることと金を使うことの矛盾としても表現されるしブルジョアの芸術観 家族観などを規定する。
(水田洋:〈ホブスボーム《資本の時代》〉――書評・エコノミスト1982年7月13日。括弧内は むろん引用者。)

この批判的な見解は かんたんなものながら 玉野井の《視座》を具体的にすすめていると思われ 敢えてかかげた。敢えてというのは このように批判(政治経済学批判)の視点から 発言しつづけることは いい意味でも悪い意味でも すでに《せぢの問題》は 卒業したという見解に立ってしまっている。
《両性間の明白な吸引を 価値体系(いいかえれば 科学的なオモロ構造)のなかに うまく組み込む》作業は つねに――なぜなら 人間はその一世代ごとに交替するかのように生きている――過程であり動態であるから しかも一生涯(独立主観とは このことである)のあいだに共同主観者として立つことの作業は 政治経済学の問題であるから・もしくは 聞こえ大君ないし王としての自己の問題であるから 木の船に乗っての航行を 方法し表現していなければならない。言いかえると せぢの問題は 学者としてではなく 一般市民・やしろ資本主体として つねに直面し克服しようとしている問題である。
繰り返すなら 近代市民の合理精神は 《両性間の明白な吸引を 価値体系のなかにうまくくみこみえなかった》のである。《もっと一般的には 文明は本能の要求の抑圧のうえに 成立するとされた》とまで言っているが このやしろにおける性関係の要求を抑圧したところで 成立したという見解は 言い過ぎだと思う。もしくは あたっていたとしても 批判の切り口が 適切ではない。そんなことを言ったら おれは抑圧などしていないと返せば 話は 頓挫する。だけれども 両性間の吸引とまで言うこの性関係の要求を 価値体系のなかに つまり しかるべきオモロ構造のなかに うたい切れなかったと言っている。
たとえば おなり神の問題では 兄妹結婚などの近親婚が問題として取り上げられるが 人類はおおむね この近親婚の問題は 必ずしも納得のいく理論やわかりよい説明によってでなくとも あたかも せぢ連関のやしろをめぐる網のような習俗として 解決してきた。しかも 一般のスサノヲどうしの・というよりは アマアガリしたスサノヲのからむ性関係は われわれ人類は これを うまく やしろの秩序として うたい切っていないようなのである。原始心性のせぢ連関をまだ抜け切れていないからか あるいは 逆に このせぢをとおした両性の関係を むしろ ないがしろにしてきたからか なんら いまだに 合理的になったとは言えない模様である。
この節における後半の議論が あまりにも理知的であるとするなら 前半の論議はあまりにも神秘的であった。真理はその中間にあると言おうとするのではないが 沖縄の人びとにとって 少なくとも《おもろ》の世界の人びとにとって あるいは ヒミコの世界から出た日本人にとって 《せぢ》は 《不可視の霊力》(外間守善)なのであるから 男女両性の関係の問題も まずこの認識――見えない世界の認識――から出発している必要があるのではないだろうか。

  • ここで取り上げた二つのおもろについては のちに再び考察する。
  • 見えない世界というのは 中味はいろいろだから・つまり あまりにも広い世界だから この点 ここでは《せぢ》の問題なのだと重ねて付け加えておこう。

(つづく→2006-09-23 - caguirofie060923)