caguirofie

哲学いろいろ

対話論

amaguappa 2012/12/31 05:13

対話論 - caguirofie コメント欄

せっかくのお言葉ではありますが、ですが、わたし、言うこと何もないんですよ。
今までたいして何も言ってきてないのも、似たような感じで、
そうですねえ。。。


対話は、傾聴より難度が高いと思いますが、
まず、傾聴にひたされるとは、透明な全能さの前で語る自分を見出すことで、
そして、対話をするとは、さらにそのうえ聴く自分を見出すことであると思います。


" わかってもらえるわけがないという気持ちが奥底にある "
" 計画や策謀であるという抵抗感や疑惑がぬぐえない "


という人々には、傾聴には不向きで、対話も実りはしないでしょう。
彼らはあたかも自分の中に引きこもっているようで、実は、
そうした人々の心は、前提に他人の存在が大きくのしかかり、
いわば他人に押し潰されているものだと感じられます。


わたしたちが、どのような他者になって、
そして彼らの心を占めないような透明さによって、
対話が可能であるのか、という方向性が大切なのではありますが、


ブラジュロンヌさんには、ブラジュロンヌさんの培った信念による対話の姿が
あるのでしょう。
良いお年をお迎えください。
まあ、

amaguappa 2012/12/31 05:15
こんな感じでお許し願いたいと思います。

ぶらじゅろんぬ


 傾聴いたしました。傾聴いたさねばならないと思いました。

 ★ 〜〜〜〜
 彼らはあたかも自分の中に引きこもっているようで、実は、
 そうした人々の心は、前提に他人の存在が大きくのしかかり、
 いわば他人に押し潰されているものだと感じられます。
 〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ おっしゃるとおりに考えます。そしてただし その《他人の存在が大きくのしかかり》の部分で 或る人びとはそこから抜け出そうとするのではないかとも思いました。

 その《のしかかり》関係について いや待てよそもそも人間は互いに対等で関係は自由であるはずだと見る。(感覚的にそう捉える)。
 だから人と人との関係は のしかかり‐のしかかられの関係にしても互いに責めを負うし しかもそのような消極的な見方をするにとどまらず 責めを負う関係をも話し合いで開いて行きもともとの自由対等の関係に立ち帰らそうとする積極的な動きを見せてもよい。――こうも考えます。

 のしかかられたと感じる人びとの中には 一時的な現象として引き籠もりがあるかと思います。そしてそれでも積極的な動きを見せるときに あやまって言わば押し籠もりのかたちになる場合もある。

 そしてもしそのように何らかのかたちで《押し》がある場合には そのようなこれまで述べた状態について出来るだけ《透明な》観察とその事実認識を言葉にして表わして 相手の見解をたずねる。ということも してよいと思っています。
 ★ いわば他人に押し潰されているものだ
 ☆ というときであっても《押し》があれば 将来の対話への糸口を見い出せるのではないかともです。

 分かりませんが これは あたまで考えてそうすると言うよりも そのように欲するという内面での動きがあります。
 というふうにお答えして ご返答をさせていただくよりほかにないかと考えました。
 そう言っていただいているのですけれどね。

 ありがとうございました。
 あたらしい年もよい季節でありますように。