caguirofie

哲学いろいろ

#12

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第三歌 やしろセヂ関係(愛はここにある)が 歴史の舞台である

沖縄の宗教史で一ばん強く印象づけられるのは 女の霊的な力がひどく優位している点である。今でも神事はすべて女によってとり行なわれ 以前は御嶽(おたけ・うたき)に男が立ち入ることも許されなかった。とくに斎場(さやは)嶽などは 男子禁制の霊地で 男は女装して入ったという。・・・
西郷信綱:〈オモロの世界〉六)

  • 斎場嶽は 沖縄島 知念村にある嶽。沖縄開闢の神・アマミキョ(アマミコ――古事記のイザナキ・イザナミのごとき――)の創成によるという伝説があり 《おあらおり(御新下り=聞こえ大君の即位式)》もここで行なわれた。

このような――いま単なる現象・習俗的な側面の指摘のみとしても―― 男と女の関係としてのセヂ連関なるやしろ的行為形式 これは むろん その原始心性の部分が揚棄されるべきものとしてだが 新しいやしろ資本主体のオモロ つまり 愛の勝利なる過程を 基調として持つと思われる。それは 西郷も説くように ゑけりに対しておなり神の持つ《せぢ》の力が 《すぢ(筋)》の語に由来する(§1・7)といったごとく 一般のやしろ資本連関の動態を――《関係》=《筋》として――充分にあらわしうると思われるからである。
合《理性》的な男女平等の理念も このような前提のうえに 成就(過程)されると言おうとしている。まだ 何の論証もなしに。
セヂの力は これを原始心性の園にとどまらせるのも この園を脱して幾何学的な経済行為関係へとみちびくのも あるいは その新しい動態を切り開こうとするのも これらはみな 或る女性的なことではないかとわたしは言った(§1・6)が そのような意味で おなりの優位は ゆえなしとしない。そして セヂ関係が 女性的な力によるものではないのかというのは むろん 原始呪術心性としての《イントラ・フェストゥム》=《もっぱらの祭りのさなか》=《聞こえ大君のようにマツリゴトのさなか》 である部分はのり超えられるべきであるとしても 性としては女が 時間的なものごとに向けられる理性の部分を 本質的に担当するからのように思われる。
もっとも 西郷信綱は 《聞得大君によって 邪馬台国卑弥呼などを連想してはならぬ》(同上)と言っている。《聞こえ大君‐きみ‐のろ‐かみ》といった神女組織から成るオモロの構造と 女王ヒミコの世界とを混同してはならぬというのである。この点は もう少し詳しく解きほぐすべきだと思う。
(1)ヒミコは 男弟王を持ち 《共立》された女王であることを見逃すべきではない。すなわち 《鬼道につかえ よく衆を惑わす》も 独裁的なシャーマンであることよりは セヂ連関が――観念的にしろ――そこまで(女王共立にまで)及んだのであるだろうことのほうが いっそう本質的なやしろ形態の問題であるように思われる。
(2)オモロが 上下階層的な神女組織によって よくも悪くも すなわち セヂ(筋)連関の滲透によって 原始心性的にしろ 女性の存在が貶められなかったであろうことと 同じそのことによって もっぱらのアマテラスせぢ能力者の君臨とともに そのやしろセヂ連関が 見えざる強固な蔽いをかけられてのように 停滞的な進行にとどまりがちとなったこと このように よくも悪くも やしろ資本が形成されて行ったということ。卑弥呼の世界の場合のほうが まだ よきにつけ悪しきにつけ 社会が流動的である。
(3)それにもかかわらず わたしは 本質 Wesen 的に(人間の社会的な存在 Wesen として) 聞こえ大君によってヤマト国のヒミコを連想すべきであると思う。
それは 《シャーマニスティックな要素がどちらにもあるのは確かだとしても》と西郷も言うように 今度は現象的に セヂ関係の呪術的な心性をどちらも現わすとしてよいと思う。
問題は この現象が 本質的にとさえ言いうるほどになって セヂ連関が停滞するばあいにあるだろう。一方で 聞こえ大君の神女組織としてのセヂ連関制は あまりにも純粋にと言いうるほどにモデル形式で その世界がひとまとまりとなって 停滞的であったゆえ それは容易に崩れることができた。その要素がなお尾を引いていることはあっても 一つのオモロの世界としては 或る想像上のくにであるごとく 起こり来たり 去って行った。

  • 組織のほうではなく 《きみ / のろ / かみ》としての存在 特に最後の――つまり 歴史的に最初の――《ねがみ》たる存在は 女性の存在そのものに等しいと考えられる場合には 今にも そのオモロは 継承されている。

逆に他方で ヒミコの相対的にはより流動的なセヂ連関は 呪術的にしてそうであることによって 流動性を 新たな発展へとは導けなかった。流動的でありつつ 停滞するほかない原始心性の横道に入って しかも その停滞的な要因を 自らは崩壊しつつも その横道の性格はこれを残すことになった。のちに女性が――伊勢神宮に仕えた斎宮(それは 聞こえ大君のように天皇の姉妹ではなく むすめが成る)などの例を特に取り上げる必要が 一面では ないほどに―― 一種のアマテラシテなるやしろ的役割をになわなくなっていけば行くほど 新しい動態的なセヂ連関を切り開いたというよりも 見えざるかたちで 停滞的なまま この横道停滞性をよりいっそう色濃く引きずったのではないか。卑俗的にはっきりものを言うなら このほうが たちが悪い。

  • ヒミコの呪術心性からの《新展開》は もっぱらのアマテラスなるオモロによって 《寄り(S)‐寄せ(A)》のやはり横道セヂ連関が出来上がったことである。あたかも神なるセヂが降りるというのではなくなっていったことを 横道と言っているのだが それは ヒミコの・セヂに寄り憑いてこれを天から降ろすという内容のオモロに加えて たとえばオキナガタラシヒメは このセヂを 自らが自らに 寄せた。遠く《朕は国家なり》を見通すかのように すでに或る種の(つまりここでは 一人の人間存在としての)アマテラシテとして 《わたしが セヂでございます。セヂなる神なのよ。》とオモロした。
  • 繰り返すなら ヒミコの呪術心性は まだ 自らは セヂなる神のほうへ 《寄っ》ていく。そのあとの神託・託宣である。タラシなるオモロは 神を《寄せ》た。神よりも優位に立った。それは 一面では 人びとのあいだには まだ 呪術心性の《寄り・依り・また 憑く》オモロが残っていたから これらの《迷える羊》たちを安心させるために これらの人びとそのものを 自らに《寄せ》たのである。《寄らしむべし 知らしむべからず》というオモロ。むろん A圏‐S圏の二階建てヤシロ構造の構築と並行的であった。これも それも みなオモロの問題である。観念の資本のありようの問題である。というほどに 愛の問題である。

これらの場合 一面においては よくも悪くも 密教的に奥で セヂ連関(その限りでの女性の男性に対する平等な位置)が思われており これが そのまま つまり密教的に奥の領域で 近代精神的な男女平等の思想と むしろ観念的に呼応して 全体として スサノヲ・キャピタリストの新しいオモロ構造(思惟=生産の形式)の中へ 受け継がれていった。
この意味では――もしこのような歴史的な変遷の概観が ただしいとする限りで(つまりたとえば 男と女との関係は 《矢の飛ぶは弓の力なり》(日蓮)というように 矢と弓のごとくだというオモロが ともあれ現実的だとする限りで)―― われわれには 停滞的なイントラ・フェストゥムとしてのヒミコの問題 これが 尾を引いて くすぶっていると言うべきではないか。

  • 矢と弓とのたとえは 二面の内容を持つ。ひとつは 原始心性の原形的な要素で 男女の平等をうたう中核である。もうひとつは あたかも《寄せ‐寄り》の連関のごとく やはりまだ なんらかの依存関係をそこに想定している部分である。それが あるとしたなら・つまり 人という字が支えあっているように人間は その原形としてそもそもが依存関係にあるとオモロしているなら この後者の部分は 横道だと言わざるを得ない。弓と矢をどうしても言いたいのであれば 両性のどちらも 弓であったり矢であったりして それは まったく自由だという前提を言っていなければいけない。原形として言えば 人は ヤシロの中にあって 独立主観であると同時に 関係存在であるというようなオモロになると思う。
  • 原始心性の中核は 《イリ》なるオモロだとすでに言った。セヂ関係に 自らが 《入り》する(ミマキイリヒコイニヱのミコト)。また それだけである。横道は ヒミコに象徴される《ヨリ》のオモロと その《発展》形態つまりタラシのオモロが《開発》した《ヨセ》(精確には その中に《ヨリ‐ヨセ》の連関がうたわれている)のアマテラス道である。

よくも悪くも わざわざ理知的に あるいは憲法や法律において 男女平等と唱えなくても それは 観念の資本として 時代を問わず 人びとには ごく日常的に分かっている。むろん 沖縄と同じように 女性がはっきりと優位に立つ神事を行なえということにはならないが やしろ資本連関については 大前提としてこのような過去の推移を捉えて 継承すべきを継承しつつ あらたな発展に向かおうと言っていくことができる。
性の差に関係なく職業をもって働き 給料を平等にせよといった主張にみちびくかどうか そのような細かい施策については 過去の継承という点では やはりよくも悪くも 一晩で変わるというわけにはいかないであろう。やはり見えない経済行為の領域で つまり経済行為の目に見えない部分の領域で まだ 問題を捉えることが出来るのではないか。たとえば極論のごとくにだが 一般に男の仕事に対して 女・子供は仕事に口を出すなといった性倒錯したようなヒミコの託宣が 反面でよく日常に現われる。われわれは ここでも女性を歴史の共同相続人から排除するなかれと訴えることになるであろう。
それは 女性も男性の仕事を熟知するべきだといった見方からは微妙にそれて 性倒錯したヒミコのつまり男性のそのような仕事ぶり 流動的(ある意味で経済成長的)だがおおきくは停滞的なそれ ここに問題があるように思われる。

  • なぜ性倒錯かは すぐ後に考察する。 

沖縄なる日本人の世界では オモロのあり方によって ある面では 純粋模型であることにおいて 聞こえ大君による一種の停滞の極みにまで行き着き 他の面では ヒミコの類型とその性倒錯の類型 これを回避して進んだように思われる。
性倒錯というのは 聞こえ大君のオモロ構造を基盤とするようなヒミコのヤマト国がやしろ形態として おなり‐ゑけり関係をやがて否定しつつの国家形態として確立されてゆく そこで この確立期としては前進するためにと言うように 男である柿本人麻呂が すでに見たように 形態としての国家のオモロを――しかし 本質的には 人間の《S-A連関主体》としてのやしろ資本主体なる像 またその力を――表現して行かなければならなかったのに反して この確立以後においては 国家形態の保守のために オモロをうたう=政治経済行為をおこなうようになる このことは おなり(ヒメ)‐ゑけり(ヒコ)のセヂ関係が 揚棄されたのではなく 中性化された そして否定されたのであるから 実質的には 性倒錯だと考える。
性倒錯とは 男の女性化 女の男性化にあるのではなく 中性つまり或る種のアマテラス語共同観念(和=やまと)との結婚にあると考える。性関係としての結びつきにおいて 横道にそれるなら それは 性倒錯である。ヒミコの場合 おなり‐ゑけり連関を基盤にしつつ――もっとも女性であっても 悪い意味を抜きにして 黒幕的存在の男弟王がいたと考えるのだが それでも―― 女性にしても男性にしても 一人の人格がアマテラシテ象徴になるということは セヂ連関の擬制たる中性アマテラス語概念が オモロの核にすえられることによって 性倒錯が始まるとと見る。
先の人麻呂のオモロは 国家形態のおおきく確立期にあって この性倒錯への転化を救っていると見る。ともあれ いまは 経済成長では後進的なところで セヂ関係の点では 新しい先進的な要因を持っている・保っていると見ることは ありうるのではないか。
問題は微妙だが 遠くヒミコ類型の呪術心性セヂ連関を持ったことに発して これが 密教化してゆき 近代理性の資本主義(たとえば 結婚の一夫一婦制を言う男女平等なるオモロ)のもとにも 密教的にして観念的なセヂ関係の尊重される反面で 女性が犠牲にされてきたとも捉えられる。つまり むしろ顕教的には男性が ヒミコ類型となって(ヒミコとなった権力者のもとに 小ヒミコとなって) セヂ連関を倒錯させ観念共同化させて進めてきたのではないか。
だから このヒミコの世界の継承としての日本社会の見えざるオモロ構造に 見えざる(いや 見えてもいる)聞こえ大君‐きみ‐のろ‐かみの呪術的な性秩序をかたちづくって スサノヲ・キャピタリスムなるやしろ資本連関を推し進めてきた――わたしには 自由民主党総裁である総理大臣が 性倒錯したヒミコなる聞こえ大君であったと言おうとしているのだが――と考えなければならないのではないだろうか。
この論理でいくと 日本の男は みな 女であるということになる。女性的なものが セヂ連関の推進力であったが これが そのままではなく――たとえば 人麻呂のようにではなく――むしろ 中性として観念共同化されたゆえ これとの或る種の結婚(共同観念)においてのことではないか。また ヒミコ類型をまぬかれていないとするなら それは 内部でかなりの部分においてヒミコ類型に同意する者のあいだでは流動的にして かつ総体においてオモロじたいの大枠としては締めつけるようにして停滞的なやしろ資本の形成(経済成長)であったと言おうとしている。
こう言うと おまえは歴史をもとに戻せと言うのかと言った人がいる。わたしは 過去の世界を吟味しつつ進むと言った。母斑ののり超えにおいて このような認識の作業が必要であり 本質的であると思っている。ちょうど 聞こえ大君のオモロ世界が 原始心性としてのセヂ連関のやしろ形態的な極みであったように 一般にナシオナリスムの共同観念オモロも やしろ形態的にすでにあらゆる展開をなし終えてのように また キャピタリスムによるウルトラ・ナシオナリスム(ウルトラ・ナシオナリスムによるによるキャピタリスム)なるインピアリスムが 近代理性の経済行為形式の最高の発展段階だと言われるように つまりもしそうであるならば 内外のやしろ形態的に 過去のオモロ構造の吟味・揚棄しつつの再編成は その意味でおよそ総体的な 母斑ののり超えであり 観念の資本制の歴史的な書き換えであるかも知れない。
そうして 問題は この未来社会の展望にあるのではなく 前向きにすすむのではなく 後向きに前へ進んで 現実のセヂ関係を新たな動態へと書き替えていくことである。その過程で われわれは けっきょくは 《やうら やうら やうら ゑおい・・・》と少しづつ歩むしかない。
‐性倒錯の問題は ここでの議論としては 最後まで残るであろう。
(つづく→2006-09-30 - caguirofie060930)