caguirofie

哲学いろいろ

#14

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第五歌 あかぐちやぜるままがなし

第四歌を もう少し継いでうたおう。
太陽(天)が 呪術心性の憑依の対象としてではなく――そうなると 空気のような身体をもって 性倒錯するヒミコとなるのだが―― 火の神(生活)の中で捉えられ それとして・また時にセヂを送る源として 対象化され おおきくセヂ関係の構造の中に表象されて行ったと言おうとするのは 《あかぐちやぜるままがなし》というオモロの言葉にちなんでである。

  • ちなみに 《ちなみに》とは 《ち(道)なび(並)に》の転で 一つの事が進むのと並んで 別の事が行なわれるのが原義だという(大野晋)。火の神(S)(あかぐちやぜるままがなし)のセヂ連関のみちが進むのに並んで 別に 日の神なる天(A)(神てだ・おぼつ・かぐら・てるかは・てるしの)のスヂが行なわれると言おうとしている。

《あかぐち(赤口)や》が 火の神のこと。《ぜるまま》は 《ぜる》が 地炉(ぢいる) 《まま》は 娘を意味すると言われる。《がなし》は 接尾敬称辞としてついたものである。

  • 火がもたらされる前にも 人類は 太陽(その他自然の力)を 崇め拝んだかも知れない。だから 火がもたらされたとき 同時に 太陽神が あらためて信仰の対象となったかも知れない。しかし ここで 同時にというのは 火を発見した人間(プロメテウス?)の主観(またその共同)の中に ある種のオモイの転換 としての非連続があったと考えなければならないであろう。火の神が主で 太陽神が従であるのでなくとも だから 太陽神の化身が 火の神だとオモロされたのであるとしても それは 火を与えられたことへの感謝のオモイをあらわすものではあっても 太陽神がいよいよ信仰の対象となって 憑依の対象となったことを 基本的には 意味しない。つまり そう意味するようになったとしても 人間の主体的なオモイの転換としての《ゑけ》を発する行為を いちど非連続に介してのことであるだろう。このスサノヲ人間語の介在は 重要であると思われる。
  • そこで わたしたちは やはり 《あかぐちやぜるままがなし》をセヂ関係の基調をなす要因とし 日の神はその観念的に表象されたひろがりといったものとして 読み替えることとしたい。もっとも 水の神や日の神などそれらすべてを 生活というセヂ関係の中に全部まとめてくくってしまうというのであれば 別となろう。
  • ところが 火や水や土やらを 不可視の霊力なるセヂそのものとすることはできない。だから 火の神(時に 水神や大地母神や)が セヂのお通し神として表象されることになるのだろうが 《てだ》にかんしては 容易に 火や水や土やとは別の道をとおってのように 観念共同とすることができる。人の手のとどかない天なる物体であるからだろうか。

マキョ(原始的なスサノヲ共同体・S)の中から もっぱらの公民たるアマテラス(A)が出現すると かれは 火の神とは呼ばれないが 日の神またはその子であるとは 表象されうる。じっさい マキョをいくつか統治した按司は 《てだ(また てだ子)》と呼ばれた。単純に捉えて やしろの空間が上層に伸びた。上昇志向なのだろうか。
《あかぐちやぜるままがなし》を基調とするセヂ関係(S)が 構造的にひろがりを持って 《てだ》なる按司(A)のもとに やしろ諸関係を形成するようになると 火の神と日の神との非連続的な連関が 一つの観念の資本として オモイの構造を持つようになる。人間のヱケリとオナリとの関係としてのセヂが――それが あかぐちやぜるままがなしを通して認識されていたところへ―― 《おぼつセヂ・かぐらセヂ》というように この世から離れたところの天・太陽神を容易に取り込んで オモロされるようになった。

  • ちなみに アマは 水平的に海人であり 垂直的に天でもある。

このオモロの一つの拡がりの極みが 按司添いとそのオナリ神である聞こえ大君の国家という一観念の資本形態であると思う。
たとえば

一 聞得大君ぎや
  せぢ 勝(まさ)って 降れわちへ
  按司添いしよ
  君ぎやせぢ 持ちよわれ
又 鳴響む精高子が
  気(けお) 添(そ)れて 降れわちへ
又 年直(としなお)さ 取りよわちへ
  おぼつせぢ いきやよわちへ
又 きら直さ 取りよわちへ
  神座(かぐら)せぢ 降ろちへ
又 君手摩り 間遠さ
  見物(みもん)遊び 珍しや
又 英祖(ゑぞ)にや末按司添い
  今からど
  せぢ 勝て ちよわち
(巻三〔きこゑ大ぎみがなしおもろ御さうし〕・113)

全体のオモロの構造としては すでに理解がおよぶことと思う。
《気(け・けい・けお)》とは 《精(しひ・せ・せい・すへ)》と同じく セヂのこと。《年直さ》で 一年を穏やかにする・平和にする祈願の祭事という。聞こえ大君と鳴響む精高子 おぼつと神座とが 互いにそうであるように 《きら直さ》は その対語である。吉日を選んでその祭事とする。《いきやよわちへ》は 天上の霊力=おぼつセヂを請い招きたまいての意。
《英祖にや末按司添い》は 《英祖にや(エゾ=イソの地の人)》が 最初の按司添いであったところから その後の王を言う。《今からど=今からぞ ちよわれ》というのは 年直さ・きら直さの祭事の日からのことだが 同時に 《君手摩り(神々が出現し 王の即位を祝福する祭式。手をすり合わせ拝むことをいうと言われる)》の《間遠さ=待ち遠しさよ》と言っている。その《見物遊び(立派な神舞)の珍しや(美しさよ)》と。
ここでは――火の神(S)と日の神(A)との構造的なオモロを形成したここでは―― 《おぼつセヂ》そのものとなってとか その化身としてとか言わず 《てだ子》つまり《天つ日子》とかも必ずしも言わず 《〔聞こえ大君が〕おぼつセヂを請い招きたまいて / 神座(かぐら)セヂを降ろして 〔それを 按司添いこそ 持ちたまえ〕》という表現をとることに注目すべきように思われる。

  • 按司添い=王について 按司と同じように 《てだ / てだが末》と言う場合がある。つまり 普通にそう言うのだが それは 《按司=てだ子》の跡を襲ったというように その表現も模倣であろう。

反面では いや一般的に 王は《てだ》だと呼びつつ 表現上は 《せぢの すぐれて 降れよわる》ことを オモッている。それは このセヂが オモロの主体である聞こえ大君(つまり人格)のほうと一体であると観念されているのであろう。王を てだと言いつつ 《首里(王府)のてだ(つまり王)と 天に照るてだと まぢゆに(共に)ちよわれ》(五・212)と表現して 一個の観念の資本制の完結した世界を反面で思わせつつも いわば 火の神と日の神(さらに この観念のてだと 国王としての観念のてだと)が 概念として依然 基本的には それぞれ別の筋において表象されるオモロ構造ではある。てだ つまり簡単にはアマテラス大御神と呼びつつ その呼ばれた王は 観念の資本である全体のオモロ構造の中に 一要素として位置づけられている。聞こえ大君のセヂ――アマテラスなる光の源――がなくては だめなのである。
つまり それがゆえに 一つの古代市民的な国家として 構想されたヤシロ総合のセヂ連関体が 脆弱であったとも言えるのではないか。いや そうではなく 実質的なスサノヲ圏のオナリ‐ゑけりなるセヂ連関体が強固であったから そのあたかも模倣としてのアマテラス圏のセヂ連関制は 中途半端なものであったかも知れない。原始心性において 想定の限りでヤシロ資本推進力としたセヂが 基礎の領域では 健全に・つまりふつうの自然知覚において捉えられていたと言えるようだ。それに較べると ヤマトにおいては この模倣・この上昇志向が アマテラストゥームにおいて 完全なかたち(?)で実現されてしまったのかも知れない。

  • かまど(赤口やぜるまま)から煙が昇ることを 政策的にオモロしていた仁徳オホサザキ天皇なるアマテラスがいた。つまり アマテラスないしアマテラシテが 二階からないし雲の上から スサノヲシャフト市民生活のすべてを そのオモイの内に摂り込んでいたそういうセヂ連関制だったかも知れない。成功したのかも知れない。てだ子 つまり 光の子たらんとした。 

いまは 113番のオモロをかかげる前の主題において 別の論点で議論しているのだが わたしたちの考えは こうである。オナリ・ヱケリ(一般スサノヲ市民) また それぞれの家のコデ(主婦)を中心として あかぐちやぜるままがなしを通してのマキョにおけるネガミ・ネヒト(同じくスサノヲ市民である)のセヂ関係 これが基礎にある。その上部に 地域が少し広がって 間切におけるノロ・アヂ(てだ)のセヂ関係が出て来て そしてさらに上のオモロ構造の天頂に 国におけるキミ・アヂオソイ(てだ)のセヂ連関が形成された。そしてまた そこに 天女伝説なるオモイを仲介させて 火の神(あかぐちやぜるままがなし)と日の神(てだ)とが――後者が神てだと呼ばれ おぼつセヂの源であるとして表象されることを内容として―― やしろの構造的な連関の一形態が成り立った。こういう捉え方である。

  • ここで 天人女房伝説のオモイ(そのような想像上のオモロ)を仲介としてというのは オモロさうし自体においても 要因として 一方で 天=おぼつを仲介として 他方で 女房(主婦→火の神)を仲介として の意である。
  • また 天女伝説の中の《聖水を浴びる》ことは オモロさうしの中にも うたわれている。

・・・
又 聞得大君ぎや
  あさ川に ちよわちへ
  孵(す)で水は 召しよわちへ
  京(けお)の内に 在つる
  百口(ももくち)の手持ちへ
・・・
(巻七・346)

  • 《聞こえ大君が 知念大川に 来たまいて スデ水を受けたまいて〔また 取りたまいて〕 京の内(首里大城内の聖域)に在るたくさんの手持ち玉〔を スデ水で濯ぎたまう〕。》手持ち玉は のろの首飾りにした珠。スデ水が 聖水であり この浄めの水を浴びる(また 略式で 指でもって額につける)のが ウビナデである。(=《思い撫で》(外間守善)。また =《御水撫で》(倉塚曄子)。)《孵(す)で》は 新しい生命力を得て生まれ変わる 若がえること。
  • 天人女房伝説は 天(おぼつ)と聖水(スデ水)と水浴び(ウビナデ)の 観念ないし行為を共通として 神てだ・おぼつセヂと および 女房・主婦という点で 火の神と それぞれ要因としてみると つながると見られる。全体として 天とかまどとを結びつけたセヂ連関の構造と捉えられる。
  • さらになお 手持ち玉を聖水ですすぐというのは 次のオモロに見えている。
平安座(ひゃむざ)濯(ささ)ぎ川 平安座島の濯ぎ川で
手持ち 濯ぎ出ぢへて 手持ち玉を 洗い清めて
国手持ち 美しい手持ちを
おぎやか思いに みおやせ おぎやか思いにさしあげよ

(巻十六・1154。おぎやか思い=尚真王の神号。)

  • また 《南島の生活に清水がいかに貴重であったか》(前節・第四歌)を伝えるオモロとして

一 安谷屋(あだちや=地名)の泉 清水
  百ぢやら(按司たち)の 羨も(羨む)清水
又 肝あぐみ(=安谷屋。世人から待ち望まれているの意)の泉 清水
(巻二・70)

しかし さらに スデ水・ウビナデまた女性(主婦)が 火の神と日の神の観念の資本の一動態にとっての要因であることに注目しておきたい。

聞得大君ぎや 聞こえ大君が
おぼつ嶽 在つる おぼつの御嶽に在る
孵(す)でる上(てう)水よ 上等のスデ水よ〔これが〕
神ぎや肝(きも)やてや 神の心であるから
厳子(いつこ)島 降ろちへ 厳子(兵士)のいる島(首里)に降ろして
掻い撫で水 しめまし 貴人に差しあげるこの水で〔ウビナデ〕させなさい

(巻七・348)
このようにオモロを引くのは 《あかぐちや(火)‐おぼつかぐら(日)》連関が たしかに動きを持ってのように おもわれている・うたわれているからである。儀式としてのウビナデが いまでは ついて行けないようなオモイであるとしても この動きに注目したいと思う。
次のオモロも 母斑の世界の中にあって母斑をのり超える動態 つまり 勝利のうたである。つまり スデ水・ウビナデは 自己の中に・自己のセヂ連関の中に それらが女性的な力として捉えられ 避け所として・再生の力として・やしろ資本推進力として 存在することがオモわれている。というと 神秘 また 聞こえ大君ぶりっ子となるだろうか。

聞得大君ぎや
鳴響む精高子が
珍しや 実(げ)に 有居(あよ)る
さしふ 降れ栄(ほさ)て
むつき 降れ直ちへ
成さい人(きよ)思い按司添い
吾が掻い撫で貴(たた)み人(きよ)
精軍(せこさ)発(た)ち しよわてて
精百発ち しよわてて
10 大君は 宣立(のだ)てて
11 精高子は 祈(いの)の
12 天(あま)にいしややこさに
13 天の愛(まな)しやにしよ
14 およりとて 降れわちへ
15 おなおさとて 降れわちへ
16 眼(まなこ) 合わちへ 珍しや
17 御顔(みきゃう) 合わちへ 珍しや
18 如何(いきゃ)る首里杜が
19 如何る 真玉杜が
20 君にいしやまれて
21 主(ぬし)に 好まれて
22 按司添いが 掛け成し
23 貴み人が 持ち成し
24 おぼつてて 想(さう)ぜて
25 神座(かぐら)てて 想ぜて
26 赤口やが 依い憑き
27 ぜるままが 依い憑き

(巻三・94)

火の神(生活)が依り憑いて〔26・27〕
天つ神と言ってオモイを馳せ〔24・25〕
どんなアマテラス市民政府が〔18・19〕
自己のオモイ( cogito )の中で好まれて〔20・21〕
自己〔6・7〕の持て成し〔22・23〕をなそうとするのか〔3〕
あなたがたよ〔12・13〕
百花繚乱のもとに〔4・5〕
繁栄による平和と幸福のいくさにたび発てと言って〔8・9〕
おぼつせぢ(ナシオナルな天)を抱いて〔10・13〕
われわれ自身の為めだと声掛け合って〔14・15〕
ナシオナリスム観念の資本連関を頼んでいる〔16〕
共同観念の神国に甘えている〔17〕
珍しや〔16・17〕 
この幻想が〔1・2〕 この世に有居る〔3〕

性倒錯を解放しても 幻想がなくなるとは思わないが ここでの幻想は 幻想の幻想であると思う。
(つづく→2006-10-02 - caguirofie061002)