caguirofie

哲学いろいろ

#32

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第四章 ゑけ あがる三日月や

第三のおもろ 動態的な《祭のさなか》

《イントラ・フェストゥム(祭のさなか)》(木村敏。第二章第二歌)というときの《まつり》は もちろん ヤシロ資本家スサノヲらの祭である。

  • やしろ資本主体を もはや やしろ資本家と言っていこう。社会資本は われわれみんなのものだから。

わたしたちは これが タカマノハラ・オモロの中で アマテラス圏主宰の《〈まつりごと〉のさなか》になりうると見た。《まつりのさ中》が《まつりごとのさ中》になりうると見た。赤口やの《祭》(セヂ連関を祀りつつの 共同自治)から分断され上昇して出来上がった・おぼつかぐらの《まつりごと(政治)》 これによってのみ 人びとのセヂ連関を捉えざるを得ないなら 人は こぞってアマテラス語観念の司祭たる聞こえ大君となることを引き受けることになり あるいは 同じくヒミコにまつりあげられる。しかも これを 女性がではなく――女性が本来 まつりをつかさどるのだったろうか その女性ではなく―― 男がおこなうということになる。

  • アマテラスおほみかみも 聞こえ大君も 卑弥呼も 女性である。

精神分析学(大きく言ってプシコロジ)の問題は わたしには思われるのだが 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》連関体制なる国家についての論議と不可分である。いや それ以外のやり方では いけないのだと思う。以下 木村敏の著書《時間と自己 (中公新書 (674))》(1982)を一つの主題としている。


分裂質(ここでは《病》の用語はいっさい用いない)の人のオモロ(主観)では 明らかに文字どおり スサノヲ圏のまつりとアマテラス圏のまつりごととが 分離してしまっていると言ったほうがよい。おおむね どちらのほうに片寄るかと言えば A(アマテラス)圏の祝祭の
ほうであろう。かれらは 公民(政治家・学者・詩人・革命家等)になることによって しかも もっぱらそうであろうとすることによって 自己の主観を表現してゆく。一般に現代では S(スサノヲ)圏の祝祭に就く分裂質の人びとは 原始心性の持ち主だとみなされよう。いづれも 《A圏‐S圏》連関形態つまり 国家オモロを まだ 捉えないことによって 《アンテ・フェストゥム(前夜祭的)》と称される。
永遠の前夜祭は 一般に言葉はわるいが 自転車操業と言われるやしろ資本の運営の仕方である。原始心性の持ち主と呼ばれてしまう人びとは 永遠に昨日的な前夜祭の中にある。
分裂質の人々の両様のあり方 かれらの相互の共同自治は 愛である。しかも 永遠に母斑あるいは前史の中の愛である。
この分裂質的なセヂ連関を脱している人びとで なお 前史や母斑の世界に住む人は 母すなわち単純に聞こえ大君あるいはそれに男がなったというところのその意味でのヒミコ類型 これに愛着する人のようで ユウウツになる。このユウウツ質は 《ポスト・フェストゥム(あとの祭)》と呼ばれた。
《S圏のまつり‐A圏のまつりごと》構造連関を見たのであるが 母(母斑)を愛することによって 分裂質の人々の共同自治形態・その愛を愛着するのである。
一般のスサノヲ市民は 《イントラ・フェストゥム》の状態にある。かれらは トヨアシハラ(S圏)とタカマノハラ(A圏)との弁証法的な綜合(だから過程)であるカシハラ・デモクラシにもとづいて S圏にあるかA圏にあるかどちらかである。このイントラ・フェストゥムの状態にあって なお原始心性のオモロを表現する人びとは カシハラ・デモクラシの原理に出会って 時に てんかんを惹き起こすと精神医学では報告されている。その原理は むろん形相(イデア)であるが 可感的にオモワレうる。
なにが 問題か。
国家形態のオモロを前提にしているのは 当たり前なのにもかかわらず あるいは時に当たり前であるゆえに この前提を不問し付して セヂ連関プシコロジを アマテラス語理論において分析することがである。
わたしはいま 聖徳太子のA語道徳オモロに逆らって 《我れひとり得たり》として述べているが このセヂ連関への適応困難のばあい(分裂質・ソウウツ質・テンカン質)を 患者つまり病気として扱い 科学的な治療の名のもとに 患者に対しては医者となって研究し実践するというもっぱらのアマテラス者は もっとそれぞれ《我れ一人得たり》とオモッテいることになるのではないか。このアマテラス者のまわりには 国家形態オモロの各ジャンル・各論の補充者としてのごとくアマテラス予備軍がいて だからあたかも互いに共犯構造のセヂ連関をかたちづくるかのようにして 支えあっていると思われる。
《我れひとり得たり》などとオモッテはいけないのだよと言う聖徳太子A語オモロを――つまり 国家オモロの側から言っており 国家の共同観念につながるものだが―― より一層 詳細に完成させていくやり方だと考えられる。この観念の運河の掘削者たち ここに問題があるのではないかと――つまり 精神気質にまつわる問題がである――と考えている。これらの人びとが 現代人の――いま唐突に言うけれども――性倒錯した聞こえ大君化のごとくして 問題を助長してというように考えられるのである。
わたしは 精神分析学のみならず 政治学・経済学等あらゆるジャンルのヤシロロジA語理論が この観念の運河のツカサツカサであるように作用しているのではないかと疑っている。
たとえば オイディプス・コンプレックス。これは まさに A圏ないしA者つまり王としての我れと そしてS圏ないしS者としての我れとの分裂質をあらわしていると思われる。コンプレックスとは 時間=主観あるいはオモロの複合性である。
オイディプス・コンプレックスは 足(プス=スサノヲ性)の肥大(オイディ)によって アマアガリしようと欲し――あたかも核分裂の思想に乗って―― アマテラス聞こえ大君ないしヒミコを思慕するかたち そのようなオモロ構造の一面への偏りであって これはまた 分裂質であるとともに ウツの気質にもなりうると思われる。なぜなら かれオイディプスは すでに 《朝は四つ足 昼は二本の足 また夕は三つ足となり 足の多いときほど弱い動物は何か》というスフィンクスのなぞを 解けないで絞め殺されることなく 《それは人だ》と解いて 祝祭の中にあったと考えられる。したがって このあと 《ポスト・フェストゥムとして分裂する》のであり 分裂した結果 《ふたたびアンテ・フェストゥムとしてユウウツになる》ことでしかないからだ。
アダム・スミスが A圏社会科学主体は 警護国家でよく 何もするなとオモロしたとするなら これは すでに《祭のあと》だからそうだとも言えるし それだけではなく 後世の歴史において 国家が形態移行するという《祭の前》だからそう言ったとも考えられるのは ケインズが 近代市民スサノヲたちのくるぶしの肥大によってすでに スサノヲ・キャピタリストのオモロの祝祭が済んだあとだから A圏はヤシロ資本の過程に介入せよと言ったことにおいて 同じく 来たるべき新しい祭を予表してそう考えたとも言いうるように考えられる。類型的な同一性があるように思われる。
スフィンクスの謎を解いたオイディプスの原形的な共同主観なる祭のさなかにある人びとは 容易にこのコンプレックスを持ちこたえる。というよりは コンプレックス(A‐S連関)が 動態である。また これを自覚しないときには 原始心性もしくは前史の中にあると言われるかも知れない。

だから 分裂病統合失調症)者のアンテ・フェストゥム的な《前夜祭》意識と うつ病者のポスト・フェストゥム的な《あとの祭》意識とを 《祭》の前と後ということばの上の対称性や プロレタリアートの革新性とブルジョワジーの保守性についての通俗的な理解の前後対称的な両方向に表象するのは正しくない。アンテ・フェストゥムの反対がポスト・フェストゥムだとは言えないのである。あるいは そもそもアンテ・フェストゥムの逆とかポスト・フェストゥムの逆とかいうようなことは考えにくい。
木村敏時間と自己 (中公新書 (674))2・2)

これらは オモロ / スサノヲの主観(また時間) / まつり / やしろ資本過程が すでに《S圏とスーパーヤシロA圏》とに構造化された歴史の出発点を経ているという意味で この原共同主観を一つの祝祭として すべての時間が ポスト・フェストゥム(あとの祭)であると言うことが出来るし 同時に このはじめの祝祭たる国家オモロは 仮りの共同主観であったということの継承(記憶行為)の結果 来たるべき現実的共同主観への前夜祭(アンテ・フェストゥム)の中に位置するということは イントラ・フェストゥムの人びとがよくおこないうる一個の史観の両様の見方である。
けれども 記憶行為(これは  ヤシロロジにおいては 社会組織行為・その秩序に比されるから やはりカシハラ・デモクラシに対応する)が 前(過去)と後(未来)とに 分断されるわけではない。分断されるときには ユウウツになるか それともユウウツを嫌う人は A圏スーパーヤシロのまつりごとの中へ傾いて行くであろう。しかし 時間(セヂ連関の動態過程)に 前と後 前史と後史があるのである。イントラ・フェストゥム(祭のさなか)にあっても この祭・原共同主観を たとえば《神柄跡》というように 形態的に捉えて そこに母(母斑)の世界を見てとどまるとき  それは 時間(主観)の前史であり 《神在随》なる
動態としてなら――図式的に言って―― 前史の母斑制を超えているであろう。

  • このいま言っている前史には アンテ・フェストゥムだけではなく ポスト・フェストゥムの一面的なオモロもあると思われる。また 神在随というように ただ文字表記で判断しているようであるが その心は 記憶行為は目に見えないゆえ 《神》といった言葉を用いるというところにある。《跡》を言えば 目に見えるごとき形態をオモッテいることになろうからである。

なるほど 時間は 《〈こと〉であって 〈もの〉ではない》(木村敏)が このように《こと》=動態として捉らえるだけでは 不十分である。《こと》なる時間(つまり 主観の表現行為過程)を そうではなく 固定的に《もの》と見てしまうとき あとの祭・あるいは 前夜祭なる それぞれオモロ構造が 停滞的になって 現われるというだけでは 不十分である。このように 《時間(主観)=こと》であるという基準によって 人びとのオモロ構造を分析し判断しプシコロジ理論してゆくことは むしろ危険である。論理的に言っても 《時間=こと》なる基準は すでにそこでは《もの》と化していることより充分に言える性質のものであって おそらく愛が動態であると言っていくほうがよい。
母斑を愛着する愛と 母斑を乗り越える愛と。すなわち 前史と後史が過程されていると。もし 後史の愛(これも 時間=共同主観)に立つなら そのプシコロジは 《医者と患者》といったヤシロロジ的な役割規定を取り除いてしまうであろう。かんたんに言えば 医者は やしろ内の職業としては成り立たないであろう。ゆえに 広義の病気治療を仕事とする医者のヤシロ役割分担が 生起するであろう。
こう言うと おまえのオモロは 前夜祭的ではないかと反論されうる。けれども はじめの共同主観が 仮りに国家オモロを想定していたとするなら 後夜祭も前夜祭も その顔のごく単純なそれぞれ表情として 存在しないと強弁することはできない。カシハラ・デモクラシが そのような動態として 日本では見えないセヂ連関として ヨーロッパではアマテラス語理論なるヤシロロジとして オモワレ この歴史を継承している。もしこの方法とは別の仕方で プシコロジやその他のヤシロロジを理論し実践して進むとき それが いまある仮りの国家形態オモロの中で その観念の運河に乗ってすすみ 観念の運河をよりいっそう詳細にし堅固なものにしようと欲していることにほからないなら 仮象的な――仮りのとしての現実のではなく 仮象的な――共同主観であって アンテ・フェストゥムともポスト・フェストゥムとも看做すことができる停滞的なイントラ・フェストゥム(つまり まつりごと)であると考えねばならないのではないか。
おそらく このようなオモロ構造の回転は 成ったとおもわれる。わたしたちは すでに勝利の歌をうたっている。なら 人間(現実)が変わったのであると察せられる。神によって始めたのなら 神によってこれを継承するのが すじであるし もし 形態的な国家の確立が 人間の手によって 一般に権力として  始められたのなら これを人間の手によって 再編成することができる。現代の原罪は 国家形態のオモロを アマテラス予備軍となって 科学することそのアマテラス語理論にあるのではないか。
このことは わたしの専売特許ではなく ほかならぬ木村敏も言うところである。

・・・私たちが科学的真理とみなしているものも 合理的思考と呼んでいるものも こう思えばすべて夢の中の迷妄にすぎないことになる。私たちが時間とか自己とかの名で語っているものも 夢の中以外にはどこを探しても存在しないまぼろしではないのだろうか。
時間と自己 (中公新書 (674)) あとがき)

《しかし》と言って この種のプシコロジ=セヂ連関の科学が 提出するオモロは この《科学的真理》《合理的思考》を どこまでも継ぐものである。仮りの国家形態オモロの中で そのような観念の運河を《医者》となって――つまり《患者》があって初めて自己が存立しうるのだと言ってのように―― 掘り進むのである。

しかし たとえはかない夢であっても まぼろしであっても 私たちはいったんこの〔――セヂ連関の中で――〕《だれか》の夢に登場してしまった以上は この夢の中で〔――前史・母斑の世界の中で――〕生き続けなくてはならないのだろう。そのためには夢の中の論理をも求めなくてはならないのだろう。
ただ 私たちが普段確かな現実だと思いこんでいるこの人生をひとつの夢として夢見ているような もうひとつ高次の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいということだけは 真理に対して謙虚であるためにも ぜひとも誌っておかなくてはならないように思う。
(同上)

けれどもそうではない。国家形態オモロが 仮りの共同主観として 《夢》であったとしても 言うならば国家構想のオモロなる原共同主観は 真理(神)によって 第三のスサノヲの受け容れという歴史をはさんで 歴史的に始められている。この《真理に対して謙虚であるためにも》 前史が後史へ回転すると言っていなくてはならないのではないか。そうでないと 《夢の中の論理》は そのオモロ構造を進展させるためにではなく 構造の《科学的認識》つまりアマテラス語理論あるいはノリトやカグラ歌のただ近代市民化なる観念の運河の衣替えに帰するにすぎないのではないか。けれども 《たとえはかない夢であっても》 人がこれこれの夢を見たと述べるとき かれがこの夢を見たということじたいは 夢なのではない。さすれば 夢の中の論理を求めるのではなく 夢の中でも生きることを求めなくてはならないであろう。
著者が 《論理をも〔求める〕》と言っていることに 誤解があってはならない。人間は 夢の中・前史の世界にあっても その論理をも知ろうと欲すると言っているのである。つまり 永遠に この前史・母斑の世界の中にあって 医者と患者の関係を保ってゆくであろうと言っているのである。このオモロ構造が 仮りの世界・観念の運河だとわたしたちは 言ったのである。《真理に対して謙虚である》ことは 自己を誇ることではなく真理を誇ることであると思うが 現代のプシコロジは 真理に謙虚であるという聖なる徳を盾に その自己を誇っている――夢の中でもこれだけのことは出来ると言い続けている――のだと考える。
わたしが――わたしは 《我れひとり得たり》として述べているのであるが しかし わたしが―― このプシコロジとの言わばあたかも共犯構造を抜け出たと言っているのではない。もし真理に対して謙虚であるためには――そしてこのことは かれらが言い出したことであるが―― 以上のことを 主観として かつ 共同主観の動態として 言っていなくてはならない。後史もしくは勝利のうたとは このことであると思われる。
わたしたちは 第一章で 後史は前史に対して 紙一重であると言った。また 真理をわたしたちは――なぜなら 祭のさなかにあるから―― 分有することができる。そのようにして歴史を始めて来たと述べたのである。この回転を 前夜祭だと言うことは ゆるされない。なぜなら わたしは《我れひとり得たり》と 現在完了形で言っているのであるから。それでが あとの祭であるだろうか。しかし わたしたちは 祭のさなかにあると言ったのである。こう言っている人びとに対して そうではないと言うのは 真理に対して謙虚な姿勢とは言い難い。この《言上げ》は なすべき言上げだと思われたのである。このとき 前史の共犯構造は 共同になぐさめあいとオモロをうたうか それとも 《韓招ぎ》のカグラを歌って新たな《事挙げ》におもむいて来るかであろう。わたしたちは このセヂ連関の動態を見守っていかなくてはならない。

(つづく→→2006-10-20 - caguirofie061020)