caguirofie

哲学いろいろ

#17

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第八歌a やうら やうら やうら ゑおい

《おけ おおおお》ではなく 《やうやう寄り来 忍び忍びに》ではなく よみがえった自己が やうら やうらと自己を押してすすむ。


まず 原日本人がいた。――と始めて わたしはここで 第二章 勝利のうたのしめくくりとして 日本と日本人の歴史の成り立ちについて かんがえて見ようとしている。主眼は オモロの吟味であるから 歴史学的な事実の措定にあるのではなく(――というぜいたくな立ち場を使って――) 今にまで続くオモロの歴史とその新しい書き換えのための吟味にある。言うまでもなく 試論である。
まず原日本人がいた。
と見てきたような何とかの表現のかたちを許されよ。やがて穀物と従って農耕技術を持った人びとがやって来た。朝鮮半島の南部地方にも移って住んだのではないかと思われるこれらの人びとは いわゆる倭人であって 中国江南地方からの非漢民族に属すると考えられている。縄文時代の後期もしくは晩期。倭人が東日本には移って行かず しかもその東日本の歴史を直接ここで取り上げないとしたら それは 東日本の人びとも原日本人として この西日本の原日本人と同様に 海を渡ってきた倭人を おおきな歴史過程の中では やしろ全体のオモロ構造の新しい形成という点で 受け容れたことになると見ることによる。これらが 縄文市民としての広義の原日本人であり 原スサノヲである。
かれらは セヂなる言葉を持っていたかも知れないし 持っていなかったかも知れない。

  • スヂは 朝鮮語 tyul (筋)と同源といわれる。

しかし 赤口やぜるままがなしを通しての生活をすすめていたであろう。いわゆるマキョ時代である。言うまでもなく 倭人の渡来をのちに受け容れて この縄文市民のセヂ連関なるやしろの時代は長く続いた。
新しいスサノヲが海を越えてやって来た。
かれらは 単に 朝鮮半島南部に移住していた倭人であったかも知れないし 半島の先住民としての朝鮮(韓)人であったかも知れないし 両者の混血した人びとであったかも知れない。かれらは その言葉の文法において 原日本人とよく似ていた。つまりまた 当然のごとく 赤口やぜるままがなしのオモロを共有し これを――原始心性としては および 倭人が基本的に海人(あま)であったことを別にすれば―― 杜・御嶽・山なるぐすくに関係づけて 信仰として 持っていた。すなわち かまどの共同主観を 表現の形態として 山をとおしてのように おぼつ・かぐらなるオモロ要因を媒介としても 持ったと思われる。
言うまでもなく 原日本人とともに弥生人を形成するようになる人びとの渡来であり 新しい穀物として稲がもたらされたことが 画期的であったと考えられる。そこで 《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》のノリトに従えば はじめに アメノホ(穂)ヒのミコト(その一族=マキョ)が来たと言われる。
同じく 次に タケミクマ(米)のミコトと呼ばれる人びとがやって来た。北九州をはじめとして いわゆる西日本の各地に住み着くこととなった。弥生人とはむろん これらの人びとを受け容れた原日本人のこの段階での呼び名であり 全体として 第二の広義の原日本人として捉えるべきかと思われる。
文法構造には ちがいはなかった。が 言語としてのそれはそうであっても やがて マキョ時代は すでに按司によるくにの統治の時代に入って行ったであろうと思われる。

  • これは 自然成長のようにして そうなると見る。マキョの時代にも 指導者はいたし 交通が発達すれば やしろ連関は 拡大するであろう。

したがって オモロ構造は ゆるやかに変化していった。いわゆるアマテラス語普遍概念の成立であり これは その象徴(アマテラシテ)たる交換価値=貨幣概念の発達とともに 成立しうる。スサノヲ語が アマテラス語を介して流通する。この按司なるアマテラス者のもとでは アマテラス語は 交通の手段ではあっても 共同観念(ナシオナリスム)となって スサノヲ語を蔽い尽くすことは まだ多くないであろう。つまり 原始心性を純粋に――原始心性を純粋に――訴えたり 媒介としたりしなければならない呪術者・シャーマンを必要とした分だけ 共同観念アマテラス語が スサノヲ語を蔽い尽くすことには まだ なっていない。と見たい。
逆に 国家の共同観念アマテラス語の成立は 少なくとも一度 原始呪術心性を否定していた。ただし この按司〔-のろ〕時代に 呪術的なセヂ連関を すでに按司たちは否定したかたちで 用いて形成していくようなことが始まっていたと考えられる。一般的に言って 広くセヂ連関の対象化がおこなわれ始めた。
こうして 弥生の人びとの赤口やぜるままがなしには コメがひろく作られ食されるようになってゆき また 銅や鉄が入り用いられていく。
このころ しだいに朝鮮では そのオモロ構造に変化をきたした。同じくいくつかのマキョを統率する人びとが現われたのであろう。あるいはまた いわゆる騎馬民族なる扶余系・高句麗の人びとが南下して来たのであろう。中国では マキョを統率する人びとを統率する王がすでにあった。高句麗の人びとは 天の思想・オボツカグラのオモロを独自に持っていた。中国の国家のオモロとも結びついて 高句麗のオボツカグラ思想は 発展(構造化)して行ったものと思われる。
ともあれ これらの影響を受けて 原日本人の赤口やぜるままがなしのオモロには その仮象また象徴として 場のぐすくに 同じく象徴としての天がともに 表象されるようになる。中国江南から来た倭人たちには この考え方は なじみにくかったかも知れない。けれども オモイの領域は 容易に広がり得た。そうして 水平的なぜるままのオモロが 構造的・垂直的に おぼつかぐらまで達した。
この文法の構造的な発展は その内部で ぜるままのカミクラとおぼつのカミクラとが 分離し 両者がやがて互いに逆立ちすることをもたらす。火の神をとおしてのセヂ連関は そのセヂの源として 日の神・天が表象され 構造的な共同観念となっていくのである。一つのオボツカグラのもとに それぞれの家の赤口やぜるままがなしが 存立するものだと言う。赤口やのスサノヲの中から もっぱらのオボツカグラ=天照らすが 分立したのである。
もっぱらのアマテラスは その分立したオモロを拡大再生産させる。もろもろのアマテラス(按司)は このオモロの中で いくさセヂをも受ける。天が下をみな平らげるというのが このオモロの自己運動である。文法構造が 核分裂する。赤口やぜるままがなしのセヂ連関が 明らかに対象化されたのである。人びとはここで セヂなる言葉を持った。こうして 按司時代を超え 王国(アマテラス按司添い‐スサノヲの連関形態)のオモロがうたわれることは 核の拡散であるとともに 核と核とのセヂ連関の安定した落ち着きを求めての歴史的な行動でもあったと考えられる。ゆえに一般に 反核の声は まだ あがらなかった。


朝鮮でのアマテラス(新しくその地で 韓人と倭人とを従えた扶余系の)は こう言った。アメノホヒも タケミクマも アメノワカヒコも わたしたちの核分裂であるのに かれらは 海を渡って行ったままである。
つまり アメノなる形容は このときつけられたアマテラス・オモロ語の一環である。

  • 沖縄では もちろん アマノのオモロ語はあるが 希薄である。アマノかなしや アマノうれしや アマノまなしや などとオモロさうしには使われるのが 基調だ。むしろこれを スサノヲ語に そのスサノヲ語を主体として つけている。また おぼつセヂなる語も そのようにして――呪術心性のごとく そして 性倒錯しないで――保った。
  • 言いかえると 《聞こえ》大君《がなし》 《鳴響む精高子》 《御愛(みかな)しけ按司添い》 《成(な)さい人(きよ)思い按司添い》 《吾が掻い撫で貴(たた)み人(きよ)》 《鳴響む》王《にせ》 《地天鳴響む大主》などが アマテラス者の形容として基調であり 《てだ》についても それと同等の《王》 《てだが末按司添い》のほかに 同じく《にるや鳴響む大主 / かなや鳴響む大主 / あがる辺の大主 / てだが穴の大主》つまり 太陽それ自体の表現が 別個に存在し 天オボツカグラ派は むろんそのときには出現したのだが 一本にまとまっていなかったとも言えるし そのような形で一本にまとまったとも言える。後者のばあいは この一個のやしろ内では よきにつけ悪しきにつけ 核分裂の力が薄かったと言える。
  • もっとも 日本本土・朝鮮・中国・東南アジアとの中継ぎ貿易のやしろ資本行為が 活発に展開されなかったとは言えない。けっしてそうではなかった。――そして アメノホヒらの日本への到来を そののちに 分かち合うことになるのである。核分裂の思想を そうやって受け取った。その前に 東日本がそうなのであるが 東日本は 沖縄とちがって 西日本と地続きであり またあまり時の懸隔をおかずに 受け取ることとなったであろう。

さて 朝鮮の扶余アマテラス・カグラ派は 《精軍(せいくさ)を押し発て》ることになる。やって来た《せぢ鳴響み軍》は 先のノリトに従えば フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコトらであった。
(つづく→2006-10-05 - caguirofie061005)