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哲学いろいろ

《比喩》の理解

【Q:精神障害と比喩の理解 認知言語学と関係あり?】

精神に障害がある場合に、比喩が理解できなくなる、あるいは比喩が成立しうる二つの対象(たとえば風車と巨人)を取り違えるような現象は生じるでしょうか。

メタファーやメトニミーを扱う、認知言語学の本で、精神障害と比喩の理解に関する研究がある、と読んだ気がしているのですが・・・

統合失調症の患者が、誇張表現などを文字通り理解してしまう、「具象化傾向」を有すことがあるというのはしっています。

お分かりになる方がいらっしゃいましたらご教示下さい。

amaguappa さん(A.#4)

はじめに断わっておくと、症状としての不安と症状としての鬱に、さまざまな下位カテゴリーが存在して症候群の名に振り分けられます。この不安と鬱とは、混在するかどうかは別として気分障害の主要な要素です。認知機能に注目する時は、精神障害というくくりで考えるのではなく、もうひとつ上のカテゴリーにのぼって、この気分障害との関わりが第一に問題です。
言語の認知に関わる研究は、ヒューマン・コンピュータインタラクションのような方向性つまりどのように言語は認知されているかという、大学の実験室の中での研究と、不安や鬱の症状を認知的な視点からあつかう、臨床研究の二つの方向性があります。後者が築いてきたのが認知療法です。
おもに臨床からあがってくる気分障害における認知研究は、1980年代以降になって有意なデータが論じられるようになったものですが、その主眼は、認知研究のほうにあるのではなく、不安と鬱の関係を調べることにあることにも注意が必要です。


比喩とは、あいまいな情報のひとつです。あいまいな情報に対する解釈は、その人の記憶と知識の体系であるスキーマの影響を受けることがわかっています。(Beck,"cognitive thory and the emotional disorders",1976) 鬱では、そうでない人よりも否定的な解釈が行われ、不安では、そうでない人よりも脅威と結びつく解釈が行われます。これは、認知的バイアスを測る実験によって示されました。設問が与えられて回答選択肢を選び取るときに大きく偏りを示すのです。
スキーマとは、情報源記憶である現実モニタリングと呼ばれる能力と深く関わります。これは、想像による内的な起源を持つ記憶と、知覚による外的な起源を持つ記憶とを区別する能力です。もちろん簡単な図式的区別ではなく、スキーマとの流動的な掛け合いにおいて、現実モニタリングはスキーマの精緻化や再構成や推測をおこないながら判断し、またスキーマのほうもそれに影響されていきます。それゆえ、思考のコントロールや言語の認知にとって、スキーマと現実モニタリングは根本的なはたらきとなります。


さて、より深刻に、妄想や強迫観念をともなう精神疾患では、多くがこの現実モニタリング能力の欠如を示します。
統合失調症や痴呆症などに代表されますが、精神錯乱や、なんらかの中毒症状の場合にも、一時的ではありますが欠如します。
それはまた、スキーマへの体系的蓄積が偏ることをも示します。比喩のようなあいまい情報を解釈するにはスキーマへ照らし合わせなければならないのですが、こうした解釈が一般的な健全な成人モデルの統制群とは異なってしまうのです。
つまり、不安や鬱によるバイアス、さらにそこでルールや仮説に発展するならば確信バイアス、そして内的記憶と外的記憶の無分別、内的記憶を作る認知的な操作が、現実モニタリングを阻害しスキーマを構成していくことで、比喩を理解するさまたげとなるのです。


ご質問にはこのあたりで答えになっているでしょうか。  


ひとつ、比喩をくみとれない構造における、地下茎ともいえる内的記憶の話をしましょう。
外的記憶と内的記憶はどのように違うのでしょう?
結局は確信の問題に行きつくのですが、記憶痕跡にもとづく区別の方法というのがあります。(M.Johnson, C.Raye, "Reality monitoring" 1981)
それによると、外的記憶は、さまざまなこまやかな感覚属性と、文脈的な情報を豊かにそなえており、特定の時間や場所や出来事のエピソードなどと結びついています。
しかし、内的に作られた記憶はより図式的であり、豊かな文脈情報を持たず、推論、推測、イメージ化など、記憶生成にかかわる操作の痕跡がみとめられるといいます。
この違いは、ちょうど、比喩というものにおけるわたしたちの言語世界の感受性に比例しているのではないでしょうか。
つまり、比喩の世界とは、すぐれた知覚と外的記憶によって、豊かで細やかにとめどなく広がる情報に飛躍的な結びつきを与える柔軟な能力をわたしたちが発揮しているという様態であって、それが何らかの理由で妨げられている状態では、どれほど情報を図式的な貧しい文脈と推測やイメージによって構成しても届くものではない、ということなのです。

ぶらじゅろんぬ A#5

こんにちは。


 おそわりたいということから 投稿します。


 ◆(回答No.4) 想像による内的な起源を持つ記憶と、知覚による外的な起源を持つ記憶とを区別する
 ☆ これは まだよく飲み込めません。


 すなわち たとえば


 (あ) 内的記憶は まづたとえば或る文章という《知覚による外的な起源》を一たん持って そのあと《内的にその文章内容の一部分を取り上げ これをあれこれ想像する。そしてその結果を記憶している》という場合がある。


 と思われますが それは違っていましょうか?


 ◆(同上) 〜〜〜〜〜〜〜〜
 記憶痕跡にもとづく区別の方法というのがあります。(M.Johnson, C.Raye, "Reality monitoring" 1981)
 それによると、外的記憶は、さまざまなこまやかな感覚属性と、文脈的な情報を豊かにそなえており、特定の時間や場所や出来事のエピソードなどと結びついています。
 しかし、内的に作られた記憶はより図式的であり、豊かな文脈情報を持たず、推論、推測、イメージ化など、記憶生成にかかわる操作の痕跡がみとめられるといいます。
 この違いは、ちょうど、比喩というものにおけるわたしたちの言語世界の感受性に比例しているのではないでしょうか。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ これによって考えるときにも 内的記憶が上の(あ)として成り立つ場合があるのではないか?
 すなわち


 (い) 内的記憶は 《図式的であり 豊かな文脈情報を持た》ないとしても なおそれが《特定の時間や場所や出来事のエピソードなどと結びついてい》ることはあり得ると考えられます。一たんそういう外的記憶が得られたという段階を経て想像が起こされる場合です。 
  また 同じく《推論 推測 イメージ化など 記憶生成にかかわる操作の痕跡がみとめられる》としても 同じくなおそれが《外からのたとえば或る文章を知覚し読んだ結果得られた情報といった起源を持つ記憶》と遠くではつながっている。こうであり得る。


 と考えられるように思うからです。




 これは 次のように説明されている《実験観察》の方法を問題にすることにつながるのかどうか。というところですが どうなんでしょう?
 ◆ 〜〜〜〜〜〜
 あいまいな情報に対する解釈は、その人の記憶と知識の体系であるスキーマの影響を受けることがわかっています。(Beck,"cognitive thory and the emotional disorders",1976)
 鬱では、そうでない人よりも否定的な解釈が行われ、不安では、そうでない人よりも脅威と結びつく解釈が行われます。
 これは、認知的バイアスを測る実験によって示されました。設問が与えられて回答選択肢を選び取るときに大きく偏りを示すのです。
 〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわち


 (う) 《大きな偏り》はどれだけ有意か?
  《回答選択肢》はじゅうぶんに質的な豊富さが保証されているのか?
  そもそも《設問》の作り方において 《認知的なバイアス》がありはしないか?


 などなどとまだまだただの猜疑心によるものであれ疑いを晴らすまでには 飲み込みがたいものがあるのではないでしょうか?



 直球を投じる無礼さと知識の無とをしのぐ意味がありますれば おしえていただきたい。こう思います。

amaguappa さん(A.#6)

5でおっしゃった文章の内容の記憶は、独立した研究で扱われています。"現実"モニタリングの範疇ではないように思います。
というのもまず言語の理解自体が、分析可能な命題連結のほかに推測という大問題をはらんでおり、読みの作業とは、短期記憶を使いながら表象を獲得することの連続で、いうなればシステムを創出しながら修正をほどこしていくようなものです。しかもまだ明らかでない何らかの制御的な枠組みの中でです。メンタルモデルという言葉を使うことがありますが、われわれは類似や照応を取っては転移させて推測をたてるというシミュレート機能をフル稼働させています。それゆえ、単語の記憶でなく文章の記憶や談話の記憶となると、とても知覚のはたらきによる記憶だとはいえません。
(そしてこのことは、質問者さんが問うている精神障害にはかぎらない問題圏にあります。)

念のために確認しますが、この質問にとって重要なのはスキーマのほうです。上記のような言語理解においても、メンタルモデルにスキーマが具備されていなければ表象にはなりません。想起や推測にあたって記憶を検索するのが、概念知識の体系であるスキーマの仕事だからです。そして、現実モニタリングが外界の手触りを立ち上げなければ、社会の共通認識や合意形成された知識の体系は得られません。また構造的にこの体系を支えるためには、スクリプト(類型的で隠れた言わずもがなの脈絡)の知識が形成されている必要もあります。しかし、さらに逆のことも言わねばなりません。外的記憶の確信は、一貫性や是認可能性への照らし合わせと外界の知識に合致するかどうかに依存して成り立つのです。

言語理解や談話の認知研究では、ツリー構造に表しうる命題が短期記憶でまず処理され、連結できないときは長期記憶を検索するという説が支持を受けています。その検索を推測が導くところまでは定説化されていますが(Kintsch, van Dijk, Sanford, Garrod,)、推測は認知プロセスの広範にまたがって膨大なテーマを従えており、類推においては社会的な要因から生得的な要因にいたるまで、その統御のありかが問われています。
精神障害と比喩理解の関係といったところで、明白なのは不安と鬱が上述のサイクルにおいてシミュレーションに失敗する過程でしょう。発達障害であれば別の理由から失敗することがお分かりいただけるのではないかと思います。

補足質問への返答に入ります。

・内的記憶と外的記憶 
記憶は、記憶情報がどこから来たものかを覚えていることが重要であることがわかっています。(Schachter, Harbluk, MacLachlan,1984) 現実モニタリングはその特殊な様態で、内的な情報源と外的な情報源の区別の能力です。記憶は健常な若い成人でもスキーマにもとづく再構成を経るため、文字通り「外的」「内的」と捉えると齟齬があります。
日常的な失敗例をあげると、「鍵を閉め忘れた。(だが実際は掛っていた)」、「有色人種が白人の車のピッキングをおこなっていた。(だが実際は白人の車ではなく本人の車を開けた)」、「まだ薬を飲んでいない。(実際はすでに飲んだ後だった)」、「まだこの話をしていない。(もう何度もその話をしたことがある)」などです。
しかし2つめの例では、他の目撃証言者が数名いたとしても同車種の車かよく似た車を白人の車だと思うかもしれず、見たという知覚情報からずれたところに問題のあるまま記憶の確信にいたることがありえますから、外的記憶の欠如を慎重に探らねばならない例といえます。(目撃証人の心理学の領域)
内的記憶と外的記憶の実験は、たとえば被験者にYellow-Fruits-Bと提示する回数とバナナの絵を提示する回数をチェックしておき、その後、何回バナナを見たかを答えてもらうといった形式です。
Bの付く黄色い果物がどんな言語圏でもバナナ以外あり得ないのかどうかわたしは知らないのですがたぶん誰でもふつうは知らないのではないでしょうか。
回数を間違えるのはかまいません。肝心なのは統制群はどれくらい混同するかということであり、全回数についてバナナを見たと言う人があれば、バナナにまつわる強迫的な不安か、精神錯乱か、中毒か、何らかの障害を疑わなければならないでしょう。

・5でいただいた質問について
(い)からでよろしいでしょう。たとえば新聞でパレスチナの報道を読み写真も見たとします。
新聞で読んだという情報源を忘れ、日本の家のドアから一歩も出ずにカーテンを閉ざして震えている、というのが現実モニタリングの失敗であり、内的記憶と区別されない状態です。火薬と油の臭いはなく、耳を塞ぐような轟音もなく、誰の家が壊滅し、誰の子どもが亡くなって、どこの道にイスラエルの装甲車が駐車しており、これからどこに避難しようと計画しているのか、晴れているのか雨が降っているのか朝なのか夜なのか、ご飯を食べたのはいつなのか、何も知らないというわけです。といってもこのような羅列もまた図式的です。推測に導かれた命題の連結が隠れ、イメージ化にも牽引があります。現実の経験のほうは痙攣的にこまやかに刺激的で不規則です。
>《外からのたとえば或る文章を知覚し読んだ結果得られた情報といった起源を持つ記憶》と遠くではつながっている。
読書のイメージについてはそういうご理解でよいと思います。

(う)についてですが、有意であるといってよいと思います。1976年にさかのぼりますが、A.T.Beckが鬱の認知スキーマを発表して以来検討は多く行われましたが、鬱の特徴的な認知スキーマを支持しない方向の研究が注目されたことはありません。
あいまい情報については認知的バイアス検査Cognitive Bias Questionnaire 、現実モニタリングについては記憶特性検査Memory Characteristic Questionnaireが支持されていますが、しょせん検査は自己報告に成り立つものです。これらは、設問と選択肢からなっていて、統制群とはみ出す領域の偏差を見るのに役立ちます。念を押しますがうつが判明するのではありません。うつでない人が、極端な否定的解釈を連ねるということは性格や生い立ち上からありえても、うつ患者が、統制群と同じ結果を出すことはほぼないと言えます。ほぼというのは、うつでなく見えるようにつとめて反応したなら、うつの結果は出ないからです。
うつよりもやや遅れて認知研究が始まりましたが不安症についても同じです。ただし不安症では認知の初期にある注意に気を付けるべきで、刺激を提示して選択させると、中性刺激よりも脅威刺激だと解釈することがわかっています。同音異義語を聴取して書かせると、不穏な語のほうを選択的に書くという結果も出ています。(Eysenck, “Anxiety, the cognitive perspective” 1992) こうした実験結果は一度おこなわれてデータを使いまわすものではなくて、予測としての理論について、それを支持する結果ががでるかでないかを検討するという歩みで、続いてきているものです。