caguirofie

哲学いろいろ

#35

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて―― (35)

同じくマルクスに沿うならば 先の引用文にさらに続けて

人間は 一つの類的存在(類関係)である。というのは 人間は 実践的にも理論的にも かれ自身の類をも他の事物の類をも かれの対象とするからであるが そればかりではなく さらに――そしてそのことは 同じ事柄にたいする別の表現にすぎないが―― さらにまた 人間は 自己自身にたいして 眼前にある生きている類にたいするように〔種的二角関係において〕ふるまうからであり かれが 自己(内的な階層構造)にたいして 一つの普遍的な それゆえ自由な存在にたいするように ふるまうからである。
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2))(括弧内は引用者)

類的存在の現実的な形態は その基地として 家族関係・家庭であると われわれは議論してきたのである。《一つの普遍的な それゆえ自由な存在》が つまり 特にこの《超現実》という無規定で その意味で自由な世界の中の 愛欲(労働欲)が 牽引ないし反撥をきっかけとして その複岸性をも通して 《現実》の中で その潜在的な 動態としての一定の位置を得ることによって 種=類関係となる。このことは 家族論(非・家族論を含む)の問題であるにほかならなかったから。
市民社会もしくは現代の産業・工業化時代において 《事業》は 《所有欲( concern )の継続的な( going )一元化》としての《企業( going concern )》である。ここで 関心( concern )――内的な階層構造の――が 一元的な資本論のもとに 一様に 無差別・無関心という一個の種になったとも言えるし 《市民社会》というほどに 《関心》において その内的な階層が 人間として 一つの本質(これによって 人は 普遍的に 自由な《市民》である)となったとも言える。
内的な階層構造は たしかに そのおのおのの種差の関心をもって 継続する動態(つまり going concern )である。事業論における だから外的な資本過程としての 《継続的な関心》=《企業》論は そのように 外的に資本一元論となったとするならば そしてこれが 無効においてにしろ 支配的となったとするならば 逆に外から内へ入って 階層構造を圧迫する。影響をあたえずには おかない。つまり 《企業》という事業論が 人間の内的な本質としての階層構造だと主張されるときには。
この企業は 先の本質的な市民の社会と同等であると言ってのように 《会社》と見なされる。フランス語では 会社も社会も 同じ société である。英語では 仲間( company )のことである。
社会現実の有効な基地は 家庭から 会社に移ったのであろうか。
しかし 企業も会社も 事業論――内的な孤独の外的な展開――の 歴史的な形態にほかならない。孤独の外的な展開は 種関係つまり類関係として 家族論から 出発するはずである。もしくは 外的な事業論と 内的な愛欲論との 仲介者として 家族論は その限りで 独立しているはずである。また それゆえに 会社社会においても 家庭の福祉論が 唱えられ 実行されるに到った。しかし 会社が 第二の別種の(それは 超現実においてである)家族論として 内的な愛欲論に取って代わることにも なったのであろうか。
おそらく 会社が 幻想的な第二の家庭論として みなされることは 家族論が 《非家族》論でもあったのだから その意味で きわめて愛欲論とも事業論とも共通する一つの(通史的な)場である――そのように なった――ことは 超現実のきっかけとしては 迎え容れられることだと思う。その一部であり しかも 家庭と同じようなもう一つの基地であることにも 異論はないように思われる。これが 具体的な実践において 有効であるかどうかが 問題であろう。
企業も それぞれの内的な階層構造――それが はじめに going concern であった――の 種関係に始まり これらが集まり 自己を展開する場であるとする限りで 迎え入れられる現実ではないかと考えられる。
事業論としての資本論が 法か不法か または 有効か無効かの判断によって だから それが 多元論か一元論かであることによって そこにおいて 問題解決の過程が 展開されていくのではあるまいか。これは 《労働者の自己喪失》が 自己つまり内的な階層構造(つまり 本質)そのものの喪失なのではなく この階層構造つまり自己を 資本一元論という超現実(宗教)の世界へ 譲渡(疎外)してしまったことの謂いであったからには まず 場は むしろ確保されており 次に やはりこの場の歴史的な展開も むしろよく過程されていると見なければならないと言うことに ひとしい。これは 種関係つまり類関係の問題である。
これによって われわれは その事業論が 今おこなわれている企業論によって その資本論を ふたたび開始していけばよいという単純な結論にみちびかれたのであるが 社会科学の政策を抜きにすれば このような単純な議論を 確認しておくことは 必要であると思われた。そしてそう言ったからといって これも 単なる理念の表明にすぎないのであるが われわれは つねに ここから出発して ここに還りつつ 再出発していると思われるからである。
したがって ここでの議論の主旨は 引用してきたマルクスの思想に沿いつつ それに新しく付け加えることがあるとすれば これを誤解を恐れずに述べるとすれば むしろ 労働の疎外よ 万歳! と言うべきであると思われることである。これは ほかならぬ 種差関係の動態のことに ひとしいから。また これによって 無効現実の宗教――あるいは それに対して 起こりうべき別種の宗教――を 破砕できたなら それで 満足としなければならない。

  • 労働の疎外によって 孤独やこころの種差――時間化の要因――が保障されている。
  • それにしても 万歳という言い方は よくなかった。

われわれは まだ――少なくとも 事業論として―― 何も述べてはいない。ただ ここでは われわれの主人公であるテオドリックの家族・事業関係にならってのように 種関係――特に 種の異なる両平面の交錯する関係現実――こそ 永遠なれ!と発しておいても よいように思われる。現在の段階の 類関係が 宗教として 一様な超現実とされたばあい その類関係が 最後の最高の類関係であるという むしろ労働の疎外の停滞(固定)に陥らないためには。
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(つづく→2006-06-14 - caguirofie060614)