caguirofie

哲学いろいろ

#41

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§5 ローマへ ** ――文学と文明と―― (41)

そこで われわれは 新しい文学論を模索しなければならない。愛欲論・家族論そして事業論は 思想として質料論であるが これの方式を 時代に即した種関係的平面の交錯関係の中から 模索しなければならない。思想的な質料論については 《α》の無限追究一元論および《β》の無限判断一元論による文学観それぞれに対して また 社会全体的な文明論としては 類関係の観念的な一元論に陥るような社会科学先行論による文学観に対して いづれの場合も アンティテーゼとしての批判を出しただけでは 不十分であるから 肯定的に新しい文学論の方式を 提出しなければならないと思われるゆえ このように ばかみたいに 勇みこんだとしても 愚かだということには ならないであろう。(文学論の方式は 経験可変的である)。文学作品としては 第一部に提出したから それが なお不十分であっても この問答の道は すすんでよいものと思われる。
以下が 本論である。おおきくは 第二局面における一段階としての 新しい一つの方式 しかも これは つねになお 過程的であって 時間的・経験可変的であることを まぬかれない この点は もはや繰り返すまい。


はじめに 一般に 文学の流派と言われるようなものを一応 概括的に触れてみようかなと思えば われわれは すでに 《現実》主義であるとか 《超現実》主義であるとかの流れが 《文学》的に どんなものであるかを――その文体の個性ないし種は 別にしても―― 充分に見きわめる術を もっている。なぜなら 文学は 現実と超現実との相克過程としての《生活》の中からしか 出て来ないものだからである。社会科学も 観念をとおして この生活(共同自治)過程について 理論し 政策を共同化するというときには そのように文学が先行するというのは 社会科学が それ自身も 第一次的に 文学的である。また 哲学や思想は これの観念の領域を受け持っている。
社会派とか心理派とか 純文学とか推理小説とか大衆小説とかも 現実と超現実との相克過程を愛欲論・家庭論・事業論などとして それぞれ扱う。
たとえば 思想形式としての《α》の無限追究方式は 《現実主義》的であるとき 矛盾の追究ないし告発といった流派を かたちづくるであろう。あるいは 《β》の無限判断方式は 現実主義的にしろ超現実主義的にしろ キリスト教思想や仏教思想などの 無限判断の場合を 説き明かそうとし そのような流派を かたちづくるであろう。《γ》の判断停止方式は 実際には これじたいが一方式ではないであろうから 作者の側の一元的な判断を あくまで控えるような(つまり 逆に その判断があいまいであるような)文体を旨とし 質料論を確乎として説くのではなく 質料関係の中でわれわれの生活において生じる互いの心理ないし その事象の筋を 主として描くような流派をかたちづくるはずである。
ただし 心理の組み立てと その推移過程としての筋が 作者によって 《機械仕掛けの神》のもとに 運ばれるなら 一方で 作品の全体として 無限追究や無限判断にかかわって しかも これらに後の道を残し委ねつつ 他方で その物語の要素は 超現実主義的となるであろう。
問題は ――具体的な文学作品の 評論・分析・方式分類にはないのだから―― これらの流派のいかんを問わず 土壌として《A》文明的であるにせよ《B》文明的であるにせよ また おおきく《α》流の社会現実的であるにせよ《β》流のそれであるにせよ 文学作品ないし文学評論等が 類関係への移行論を どのような方式で持つか にある。文学が 種関係を描く ないし 対象にすることは わかっているのだから その作者ないし評論家の 一般にその底流にある質料論が どんな方式をもっているかによって 文学論の基本を 見て行くことができるであろう。言いかえると ここでも 《γ》の判断停止の方式については 取り上げないことになる。また 上にあげた現実主義か超現実主義か――その《主義》というのが問題――の 分類も 基本的な観点には 入らないであろう。
つまり ここで――前章とともに 二つの章をもって―― 文学論をさしはさむのは 愛欲論・家庭論および事業論(三つの全体として 孤独の時間的な展開)にかんして 文学は 社会科学(その方法論)とともに 全体観に立ち しかも社会科学に対して先行し その全体観は 第一次的な方法を提示することが できるものだからである。人間の本質としての内的な階層構造は 一つの行き方としては 文学がよく これを担い その限りで 人びとに 愛される。
これの方式を 時代と社会に沿って 基礎的に 議論しておこうということである。
前提的な指針としては 先に 《類関係論(社会科学)に対する種関係(文学)の優位》を言ったことと関連させるなら 現代では 図式的な分類としての《α》陣営と《β》陣営とに別れるとする限りで 一般的に このように 《類関係論(《α》無限追究論および《β》無限判断論)に対して 一度 劣位に立たされたあとの 種関係の 逆転的な優位》というのが 一つの方向として 家庭論的な事業論という質料論だと すでに 言ったのであるが これを 文学論として 具体的に 吟味していかなければならない。
われわれの存在現実が 基本的に 類としての存在であることに いささかも変わりなかった。すなわち 個は 平面的に言えば 社会全体たる類としての個であるというのは すでに種関係における時間過程的な内的階層構造の 本質的な現実であった。個は 家族三角関係(家庭) 事業三角関係(会社) 社会形態の類(いまは 国家〔つまり これも 《家》と言っている〕) あるいは 地球という類などなどの一員である。このはじめの基本現実が 内的な個から 類推されて《α》の一元的な無限追究論によってにしろ 《β》の一元的な無限判断論によってにしろ 類関係論の優位の一元的な社会科学のもとに 言わば先行的に デザインされるとしたなら これには 抗するというのが われわれの主張の 消極的な側面であった。
これを 積極的に ふたたび文学論 の方式として たとえば《登場人物のではなく 作者じしんの 時間=種差をともなった 動態的な事業関係を宿した一個の質料論を書くこと》が 主張されていなければならないと思う。単純な結論だが これが 積極的な(肯定的な)文学論の 現代における一出発点として 確認され 吟味されていかなければならないのだと。そうでなければ 文学は 変わったというか 滅んだというかしなければならないようにさえ思われる。あるいは 単に《γ》の判断停止派のみが 残ったということになるのではあるまいか。
いくらか旧い議論だが たとえば江藤淳は これを《作家は行動する (講談社文芸文庫)》ととらえて その題名の評論のなかで 次のように主張している。

・・・この未完の傑作(=《明暗 (岩波文庫)》)の読者が あの漱石の繊細な しかも ばねのように強靭で弾力のある文体――それはそのまま かれの行動の軌跡であるが――に 完全に参加しているなら かれは必然的に 突然 作家の死によって遮断された持続のかなたに投げだされるであろう。そのときに描かれる放物線の大小によって われわれは この小説の完全な結末を予想し のこされた可能性をみようとする。
作家は行動する (講談社文芸文庫)

そして このように言わばわれわれの《可能性》としての類関係を 望みみるべく 《投げだされる》ことは 単に絶筆によるだけではなく つねに 完成された作品においても そうであるのであり そう考えているのが われわれの基本的な立ち場である。質料論の方式は さらにこの立ち場のあとに 具体的に個々の作家・作品の文体において 見られると言わなければならないが この文学方式の底流は やはり 類関係移行論とかかわっている。しかも それが 一元的な(そして観念的な)類関係の先行論によるのではなく 種関係の逆転的な優位の視点に立って その社会科学的な文学論(むしろ 非文学。つまり 社会科学的な種々の情報の集積たる文学)を 排すということであった。

  • 社会科学の研究成果が われわれの 類関係移行論にとって 視野をひろげてくれる程度において そのような情報文学が 寄与することは 否定すべくもない。

そうなのだ。文学(その論また作品)が その作者の一個の質料論(世界観)によって――それは 種関係現実を 描いている・ないし取り上げているそのことによって―― 類関係移行論を 望みみるべきようにして そなえるというのは 作品の結末が描き出し 読者をそこで投げ出し そうして読者それぞれの個が 潜在的に持っていたその類関係移行論(第三角価値の協働生産)を 放物線のようにして描く(行動する)その力の過程の大いさに ある。
これは あたらしい方式 ないし方式の大前提であり 旧い文学論も このことを言っていたとするなら あらたな確認であり その復活であるように 思われる。だから 《読者は行動する》でなければ ならない。この意味で われわれは まだ 社会科学に移りたくないし 移らない。
《α》ないし《β》のそれぞれ極論派が 一元的な社会科学の類関係論(それは 移行論ではなく 文学論による移行論の テーマ・矛盾解決過程ごとの 政策実施にすぎないように思われる)にもとづくような文学におちいったとするならば それは 《α》極論においては その無限追究論じたいを 有限者われわれにとっての無限者とみなして これにもとづいて判断するようになり 《β》極論においては その無限判断論じたいを 有限者われわれが 無限追究するようになったことを 意味する。
これは 両者の交錯関係であるかも知れないが ただし 種差の交錯ではなく 一方の・つまりおのれの種差の中に 他方の種差を 包摂してしまい 結局 種差=時間=労働を 見なくなった・見ようとしなくなった情況ではないだろうか。作家は 行動せず 読者は 行動させられ あたかも ひとり社会科学が――または その既成の社会現実が―― 行動している。つまり 類としての観念ひとりが 文学している。すべて 無効のうちに。矛盾の解決ではなく 矛盾(他の個との種差)の包摂・支配が その武器である。内的な階層構造の 外的な社会過程への類推的な当てはめによる 文学(非文学)論。ここでは 文学が なお依然として 皇帝論である。
文学作品が 種関係を描いて 類関係への移行論を有するというのは 質料論およびその方式というほどに 《時間》=労働が その最大の眼目であるように思われる。無限追究の一元論《α》も 無限判断の一元論《β》も 社会科学ないし社会現実のすでに描いたデザインにのっとって――あたかも 文学論として 描いたところの青写真にのっとって―― 時間的に動く。超時間のなかで 労働する。これが 内的な階層の種差の幻想化 つまり 文学の死以外のなんであろうか。
われわれの基本的な方式を かんたんに言ってしまえば こうである。論理としての 《A》文明が 非《A》でないことを――つまりたとえば《B》でないことを―― われわれは知っている。あるいは同じことで 《B》文明が 非《B》――つまり《A》など――でないことを まず知っている。しかし ひるがえって 《A》が時に非《A》(たとえば《B》)を受容し さらに現実的にそれになりうることを あるいは同じことで 《B》が非《B》に なりうることをも 知っている。すでに そのような交錯は 現実である。つまり 種差関係は 過程的に 類関係をはらみ これに移行しうる。アジアとヨーロッパ ないしその他の地域は 地球という一つの類の関係を むすびうる。それでは――
それでは 《α》論が 《β》論を容れ またはその逆が おこなわれていくことは うえの現実過程にもとづいたことなのであろうか。
議論のはじめの前提は――それは 経験現実に沿って 言っているが―― こうであった。

《A》:種としての個が 基調
《B》:類としての個を はじめに掲げる


《α》:質料論の無限追究
《β》:同じく無限判断

そして 種としてのアジア文明《A》も 同じくヨーロッパ文明《B》も ともに 自分の中に 《α》《β》の両方式を もっている。《α / β》両方式を 明示的に表現してきたのは ヨーロッパ《B》であるが 密教的(潜在的)にアジア《A》も これを持たないわけではなかった。
とすれば 《A / B》東西文明の種関係的な一体において 新たに 《α / β》の東西世界の種関係交錯が 経験的に展開されるのは 一つの必然であったと言うことができる。《A‐α》の組み合わせと 《B‐β》の組み合わせとの 相互交錯は 伝統的な両文明の種関係であり 《A‐β》と《B‐α》との それぞれ一元論となった組み合わせどうしの 交錯が 東側・西側の両世界の種関係である。
ところが この《A‐β》と《B‐α》との相互の交錯は 種差関係ではなく それぞれが 一元的であることにより 他を 包摂し支配するような思考形式を もっている。というのが いまの焦点である。
このとき 《A》ないし《B》は 社会現実の土壌としては 種関係または文学にかかわり 《α》ないし《β》は 類関係論用意する思想形式として 種関係の社会的な統一現実または社会科学にかかわると言いうるかも知れない。
《A‐β》《B‐α》の二つの組み合わせにおいて それぞれ《A》《B》の社会的な土壌を合わせ持っているのだから 種関係現実の土台も 失われていないと言いうるかも知れない。これは 文学の方式の模索にとっての 場の確認である。場の確認(その 連続的=類関係的な 展開過程) これが むしろ われわれの基本的な方式だと ――そのように 自同律的にさえ―― 述べたほうが よいのかも知れない。
われわれは 文学論を模索しているのである。問い求めるべく方式の拠って立つ道の 場が 文学論であり 時代の一段階としてもの 方式であるとは どういうことか。
内的な階層構造が 人間の本質として 一つであったことだと解明すると言ったら 人は 怒るであろうか。じつに いま述べている文学論の方式は 経験現実に沿っての 質料論なのであって ――そこに 事業論の 法現実的な 有効と無効との 混在が みられるが―― この方式は 一つの本質の 個別的・種関係的な展開であることを 有効性の一つの(おそらくただ一つの)基準としている。ゆえに 個は 多様性として 存在(過程)し これは 種差関係を 有効に 形成する。したがって 多様な 個性的な小方式といったようなもの(文体)は まったく とうぜんのごとく 自由である。
場(人間の 局面)と場合(局面のもとにおける地域的な 小方法→文明種) ここから 方式は出て 小方式(文体)として 多様であるが 方式が 地域伝統的な文明種としての場合を 現実の土壌とする場(第二局面)から 出るというそのことは 人間の本質として 一つである。方式と小方式とを あわせて 各文学者(つまり われわれ一人ひとり)の文体である。文体は 人間である。
もっとも 文学を 言葉によって 文章にして おこなうことを おのれの事業(職業)として やるのだというときには 別様にではないが さらに具体的な文学論が(つまり 文体論から始まって 作品論や テーマ別の質料論として抽出されるもの などなどが) 説かれ 争われることと思われる。われわれは いま ここへは 進まないのである。
《作者は 行動する。読者は 行動する》――すなわち 種差関係を 有効に 過程的に展開して おのれの質料観を示し 類関係への移行を むしろ作品の完結のあとに 読者を放りなげてのように えがく――とは 本質的に 一つの文体で この本質の一に立って 多様な文体の中に位置するやはり自分が一つの文体であることだと 結論づけたい。
読者を ある種の仕方で 行動に駆り立てることが 文学ないし芸術の目的ではなく その真の目的は 浄化(カタルシス)にあるという立ち場からの 反論が ありうると思う。現実の種関係的な矛盾に対して 観念(ことば・文章)をとおして これを解消させるべき或る種の類関係をしめし これによってわれわれを 昇華させるものが 芸術であるという立ち場。行動をうながすような類関係移行論の 暗黙のうちの 提示 これは 文学として 邪道であるというもの。
われわれは かんたんには この《邪道》がないなら 《浄化》はない と言おうと思うが これは さらに 争われるべきであるかも知れない。
が しかし このカタルシス説に対しては あまり再反論しようとは 思わない。このカタルシスは 種差関係に目をつむることではないであろうから たしかに 時間化=労働の過程を 離れることではあるまい。カタルシスの時のあいだだけ 現実の種差関係とは無縁であって いわば 同じことで この質料関係の矛盾から かれは 治外法権を与えられるということではあるまい。類関係の実現(第三角を生産しえた三角関係) その過程的な実現 つまり実現過程に カタルシスが 生起しないとは 言えないのである。また 第二の局面にあって 人は 自由な内的構造(愛欲の複岸性・一元性)が 階層発展的でもあるのであって これは カタルシス過程にほかならないとも言うべきであるとともに 時間の必然または偶然が身にふりかかること(法無効的な経験現実)から 治外法権を得ているのではないが 基本的に自由である。自由であるというのは 無限の絶対的な解放ではなく しかも 解放されて生きるということだ。これは 経験現実としても 可能。
逆に言いかえると この世の 有限な世界自治にあっては 絶対的な治外法権を得ることは出来ないから――得ようと欲することが そもそも まちがいであるから―― われわれは 永遠の類関係の実現に対して ついに不案内である。このことを 謙虚に受け容れなければならないとしたなら むしろ 文学という人間の所産によって 浄化を得るということでも われわれは 不満足であり さらに次の新しい過程へと進まなければならず 言ってみれば カタルシス中毒となってしまうであろう。
内的な階層構造が 自由な第二局面へ 転換され さらにその場で 発展的に展開するという この一個の本質と 本質の――文体をともなった――歴史的展開 これらが われわれの方法であり 基本的な方式であり それは 経験現実的な小方式を 含む。カタルシス説は この過程から 浄化という要因を取り出して これによって この問答過程を 説明したものである。
これが われわれの文学論である。
もし 邪道で不正な反文学の立ち場だと 指摘されるとき なお むきになって 反論するならば われわれは 浄化というよりは 《対立物が 対立のまま 動的に統一されたシーンを見て 〈欲望〉や〈嫌悪〉を 掻き立てられたい》(花田清輝)のである。なぜなら われわれは 《種関係の優位》と《類関係論の肯定》とを 同時に もった。言いかえると 《種関係の先行によって 類関係への移行を 期する》。さらに 《異なる二種の平面の交錯する関係よ 永遠なれ》とさえ 言った。ここから 《無限追究(種関係的な自由意志 の選択)》と 《無限判断(観念としての類関係を なお 超えて 浄化のみなもとに 臨みたい)》との 両方を みとめ これを欲し 時にしばしば 走り行くのであるから。


われわれは 現代にあって 文学論の コペルニクス的な転回をはからなければならないと思う。とさらに 勇みこんでみる。無限追究の道を あまりに性急に しかも 一元的に 走るほど われわれは 自分の内的な階層構造を捨てて 生きるであろうか。あるいは 無限判断の道を 一元論のもとに 観念的に むしろ道を閉ざしてのように 無限追究していくであろうか。《α》と《β》のそれぞれの極論は いづれも 部分を全体に変えたのである。《α・その1》のマルクスが 《β‐1》のアウグスティヌスの無限判断的な質料論を 見ていないということはなかろう。《β‐1》の宗教としてのクリスチア二スムでさえ 基本的に 人間の意志による自由選択(その意味での 無限追究)を はじめから 説き明かしている。われわれは 内的な階層構造を離れ 外的な社会現実へ すべてを 類推させつつ 昇っていくべきではない。本質としての全体を離れて 部分的なものへの気遣いへ 追いやられては ならない。
このあと 社会科学による 文学論的な種関係現実の さまざまな矛盾克服過程への 理論的な整理と実践的な交通整理が 要請されているのだと考えられる。


  *****

以下 付録として。たとえば 漱石は その著《坑夫 (新潮文庫)》において 瞬時における意識の流れをえがいて見せ 人間無性格を 主張したと言われる。人間が無性格だということは 個性としての多様な性格(あるいは文体)を 否定しておらず 本質として 性格的に無差別・すなわち 一つの本質ということを 言っているのだというふうに思われる。われわれの 問い求めるべき・また そこで生きるべき《場》が ある種 永続的であって この場の主体たる人間に 本質(内的な階層構造。それは 精神と知性と意志との同時一体性。つまり それゆえに 構造的な種関係に 階層的な発展が見られる)が 一つであるというなら この人間の本質(存在のことである)も 永続性の部分が あるかも知れない。だが これは むしろ措いておいて――つまり 本質が 先行しているというふうに 説こうとは思わないから―― 現実存在は 《時間》的である。本質すら 歴史過程的である。
《人間無性格》を説くことは 《時間》=《労働》の重視のことである。この労働=協働たる時間過程にあって 人間は 無性格であり つまり その種関係が つねに 潜在態として 類的な関係を 宿していることを見ようとすることでなければならない。個性・多様性は 類関係移行論と 別個にあるのではなく この移行論を 種関係において 各自が その文体をもって 表現するとき(つまり 日常の仕事や生活にあって ことばで観念をとおして 交通しあうとき) その表現・交通の 各自の小方式が それである。人間は 性格をもっているとも言えるし 事実 もっており また たしかに 無性格だとも言いうるし 事実 言うべきである。
そこで漱石は 無性格は無性格でも 《自分だけが 〔性格的に〕どうあっても纏まらなく出来上がってるから 他人(ひと)も自分同様 締まりのない人間に違いないと早合点をして居るの・・・では失礼にあたる》としながらも 次のように言う。

近ごろでは てんで性格なんてものは ないものだと考えて居る。よく小説家がこんな性格を書くの あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの ああだのと分かったような事を云ってるが ありゃ みんな嘘をかいて楽しんだり 嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏まったものはありやしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし 書いたって 小説は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。・・・
坑夫 (新潮文庫)

この文の話し手は 一登場人物(主人公)ではあるが おそらく このような議論から一つの方向性を取り出すとするならば それは 現実の質料関係の中で位置し 労働するわれわれの 心理を描くことに 焦点があてられるというよりは 微妙な言い方ではあるが 心理という種関係の一側面をとおして 質料関係(社会的な資本関係)などが 動態的に望みみられることを 基軸とすべきだという点にあるように感じられる。
作家は 類関係移行論で 勝負するものだと思う。
(この章のおわり。次章につづく→2006-06-20 - caguirofie060620)