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哲学いろいろ

#33

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて――(33)

労働観というものがあるならば その歴史的な流れを かんたんにみてみよう。
たとえば古代ユダヤ社会における 種・類関係においては 労働は 《原罪の呪い》と見なされたとされるが これは 原罪によって 人間の可死性=時間性(一定の時間帯)としての存在が 顕わになったことの結果にほかならないと考えられる。これは 原罪そのものの宗教的な意味あいを除き去れば われわれの現実存在についての 一般的・普遍的な視点であると考えられる。
すなわち これの以後 第二の局面に立って 労働(仕事)を愛するという視点へ 発展するとみることにおいてである。すなわち すでにキリスト・イエスの出現によって 世界自治=われわれの生の時間的な営みが もはや むさぼりなる不法を 時間化つまり労働とすることなく 法が法である形式へ 文明(つまり同市民的な種関係の総体)として 普遍的に発展したという第二の局面のことである。この文明は ただちに一様な現実でなくとも 有効性の基準であれば よいと見うるわけである。
別の労働観としては 古典古代において いわゆる労働は ひとえに奴隷のなす仕事であると見なされた。しかし この時においても 実は ポリスの市民として政治に携わること(これは 社会形態という一組織の経営である) あるいは 知を愛する者として 特に精神的な交通(つまり 種関係の展開)をおこなうことこそが 実際には 労働であったと言うべきである。すなわち 政治すること・哲学することが 事業として われわれの時間の領域= 類へ移行すべき種関係を 主として になっていたと言えないこともない。
そして 現代のわれわれの一般的な 時に没歴史的な《労働》の概念であるもの――つまり われわれみづからの作った道具を用いて 自然の素材に 目的に従って 働きかけ 身体=精神的な生活に必要とされる財産を生み出すために持つ時間的生――は その後 たとえば中世において そのことが 神に従うこと=召命とみなされるという労働観において一般的となったと考えられる。ここでは いわゆる《生活》という意味での現実が そのまま 労働 即 われわれの事業というものによって 展開されるという 種から類への関係が 見出される。
そこで 近世以降においては この中世における労働観から 神からの呼びかけ・神への呼びかけ(祈り)の部分が 剥奪(揚棄)されることになって そこでは 財産の量的な増加・質的な向上によって 《生活》をゆたかにすることじたいが そのまま 労働=事業として 展開されていくのを見る。
そこで このような労働観のもとにおいては 特に資本論(一元的であれ多元的であれ)としての市民社会の情況においては そしてまた 資本主義的であれ社会主義的であれ(つまり 両者とも 多元的な資本論への移行を 主張していないではない) このような労働=事業による種関係の中からは まず 情況全体の経済的な進歩・向上 つまり端的に言いかえれば 貧困の克服こそが われわれの類としての生の関係を完成するものであると考えられ 実践されたとしても また そうだと見たとしても 誤りではなかったであろう。
さらに今後においては 貧困の克服という類関係が ある程度において(ただし それは 別種の社会の側の犠牲においてであったと議論されることがある) 達成され したがって 世界史的な全体のそのような類関係を目指すことが 今度は それだけでは 必ずしも現代のわれわれの志向する類関係ではないのだと考えられているとするならば その時には たとえば社会主義思想におけるような 労働は《健全な肉体の要求》であるというようなそれ 従ってさらに 労働=事業としては 《健全な肉体の要求》以上のわれわれの生の時間化の領域も あるはずだという観点が 当然のごとく 主張されることに 何ら不思議はないものと考えられるであろう。
流れを 分析してみると かんたんに このような思潮を大きく歴史的に 非孤独的存在の外なる現実的な・時間的な展開として 跡づけることができるかも知れない。
そして先に ひとつの見通しを述べておくとするならば 内的な階層構造の 歴史的な 解放なら解放の過程であったと これらを とらえることができると思われる。
マルクスの思想をとりあげると言ったが そして ここでは かんたんに 触れるのみであるが たとえば 労働の疎外というとき たしかにこれらの歴史が 疎外であり疎外の克服のそれであったと見ることができるはずである。そう見ざるを得ないはずである。内的な階層構造

  • そこに 種差を含む。そして種差は 時間の要因である。つまり 労働の主体的なちからに かかわると思われる。

の歴史社会的な疎外は 当然 種関係の表現(展開)としての疎外であり その旧い疎外形態の支配による《むさぼり》としてのよそよそしさであったし これを 新しい疎外(表現)によって 克服していくその展開でもあった。また 疎外された種関係の社会的な連関総体を その全体としてみるとき つまり 種関係の内的な階層構造が圧迫されているのを 全体の仕組みとしてみるとき いわゆる《物象化》という分析視点も持たれるように思われる。
内的で自由な階層構造(要するに こころのことである)が 一様な平面としての経験現実たる《物象》に 社会的に 引きずられていく。言いかえると 内的な階層構造の内部(つまり 自己の中)で 種関係のきっかけとしての牽引 / 反撥と その発展(発展後の局面)とが さかさまになってしまう。すでに発展したのだから あとは 牽引にしろ反撥にしろ この今の最高段階としての同一種の一様な平面現実の中で それらは おこなわれれば よいと成る。
これらは 労働の疎外であり 人間の物象化 の価値自由的なと言うか 没歴史的な事態であり その分析内容である。また 法(一定の段階としての社会現実)の有効と無効 無効の実効性などが つねに過程的に そこでは問われているであろう。
われわれは 分析論理 論理的な分析には あまり なじまないものであった。疎外ないし物象化の 発生する起源 発生した情況を 抽象的に見たことになる。かんたんに言うと 事業論においては 皇帝論ないし資本一元論が 内的な階層構造を 疎外させ物象化させるということである。階層構造の時間化としての労働観における人間の皇帝《論》・資本一元《論》が そうさせているというのが ここでの視点である。
皇帝その人 一元的な資本という事業関係が 疎外させる場合も あるわけである。ただし ここでは それらが 現実の無効またその実効性の 張本人でありうるわけだけれども 基本的には 場の無効性の原因としてみるわけにいかない。皇帝その人・一元的な資本(また資本家)そして国家に 場の無効や階層構造の疎外 の責任を帰すわけには行かない。
事業論としての労働観の 歴史的な流れ・現段階を よく把握し この場にあって これを よく展開していくことが われわれのなすべき事柄である。家庭論が 基地であった。歴史的変遷を ここでは端折ってみているが 現代の問題をとらえることが さしあたっての議論の内容である。歴史的変遷を問題とするとき 論理的な分析が 必要となり また抽象的で没価値的な議論が むしろその通史的な一つの理論として 説かれざるをえないようになると思われる。もちろん歴史学として 経済史・社会思想史という分野では 具体的に 研究されていくのである。もっとも 家族論までは 或る種の仕方で 哲学的な議論でよかったものが この事業論では どうしても 歴史観歴史学が 要請される。
ここでは 個別的な主題から入っていきたいと考える。
(つづく→2006-06-12 - caguirofie060612)