#29
――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504
§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (29)
階層(内的な)の視点によって捉えうる二種の平面の交錯という過程が 焦点である。
ちなみに 経済的に《むさぼる‐むさぼられる》連関という階級関係に根ざしたところの社会階層という言葉も つまりそれが外的な階層として 用いられるばあいも あることは 言うまでもない。
あるいは 外的な階層・階級の関係によって 種平面が異なる・つまり人と人とが馬が合わないという場合も 起こりうる。これは 内的な階層がはたらいて 人種の関係として その平面を交錯させるということである。内的な階層――そこに 複岸性と一元性 現実と超現実 また 牽引と反撥 そして それらの局面転換としての 構造的な発展を宿している――は 外的な階層連関・階級関係そして国家の視点などを むしろ 利用していく。利用していくことが 問題解決の展開過程そのものである。
これが なお のっぺらぼうのただの平面的な展開にとどまるかどうかは 社会科学じたいの問題ですらなく 人間の問題である。信頼関係――内的な階層が 二種の平面の交錯する種関係を 引き受けて 内的(愛欲論)・外的(事業論)に そしてそのとき社会現実の基地である家族論を 両者全体の回転軸としてのように 類関係へ発展させるところの第二の地下水関係――が われわれの武器である。《問答》が 戦いであるならば 武器と表現することができる。
二種の平面の交錯関係という点については すでにわれわれは やや違った意味合いで 触れている。それは 《〈超現実〉が まさにその言葉の意味するように 〈現実〉の制約条件を超えて――もしくは 制約条件は制約条件として なおかつ これから 進んで―― 異種の現実に属する第二角を欲するとするならば その孤独(非孤独)関係は 端的に言って 二種の平面の互いに交錯する情況を生みうる》といったように。
- 《異種の現実に属する第二角を欲する》というのは はじめにおいて 想像力(問答)の問題である。
そしてこのことの意味は 同種の現実においても 孤独の存在(その矛盾の構造と階層)にとって 基本的に 異人種が存在しえているから われわれは これに近づく これへ進みうるということであった。愛欲関係は 馬が合う・合わないのいづれの場合にも 種関係(特に家族論)として 成り立ちうる。このことであった。反撥・牽引いづれをも通して 家族関係をむすぶ種関係を成り立たせうる。問題は 過程であるから これの指摘(確認)に尽きるとも考えられる。実際 尽きさせたほうが よいと考えられる。
愛欲関係の したがってまた 家族論における 複岸性の顕在化については この原則の確認が ――過程的な問答として――すべてであるように思われる。言いかえると ここでの任務は この原則論の展開であるように思われる。日常生活の井戸端会議――われわれの戦い――では 具体的に問答がおこなわれ 実践されていくと思われる。
そこで以下において なお余分に議論が残るとするなら 次の問いは 種関係の現実(ないし超現実)が織りなす《平面》とは何かであると思われる。同じことで 直前の問いを言い直すなら 二種の《平面》が交錯するとは どういうことか これである。
異種の平面の交錯とは いくらか卑猥な表現を用いるとすれば 複雑に しかも微妙に 入り乱れながら(複岸性は 放射線状のかたちをとる)・互いに交接する種関係のことである。そして この互いに異なる《種》と《種》との交接する包摂・被包摂の関係は――あの自由な第二の愛欲も このような類型的なかたちをとると思われる―― そのまま《種子関係》という二角関係となり やがてその種子の実のるとき それは すでに指摘してきたように 垂直的もしくは時間的・歴史的なわれわれの 類としての三角(種子)関係へと 脱皮すると 類推できそうである。このようにして 経験現実的な永遠の三角関係が かたちづくられていくと考えられる。
もちろん 家族論とは 社会現実の基地であるなら 非・家族 論を 内包していなければならない。家族関係へとつながる種および類の関係だけではなく そうでない一般の 種だから類の関係論を 同時に 用意していなければならない。このことは 二種の平面の交錯する種関係が 互いの包摂・被包摂の関係であるというとき じっさいには一般に 非包摂・非被包摂の種関係であることでなければならない。しかも ここで われわれは 二種の平面の交錯する情況が 基本的な(つまり類関係を生みうる)種関係であると言ったのであるから このような 種と種との交錯平面 これが 家族論としての包摂・被包摂のあたかも一人格 および 非家族論としての非包摂・非被包摂の社会関係 の両者を 同時に 意味しているものでなければならないであろう。
これは 余分な議論であるが じっさいには種たる人間の平面(そこに 構造および階層を含む)は 或る種の仕方で 互いに接触するとき 包摂しあうことは ありうると思われる。むさぼらないなら そして 支配・被支配の関係でないなら そのように自由に 平面は 交錯するものと思われる。交錯するゆえ 複岸性の放射線も ある種の仕方で 取り押さえられてのように ――現実・超現実の相克過程で 反撥・牽引をきっかけとして――新しい局面へ発展した場で 展開されてゆくように思われる。
われわれは この必然性(必然の王国 つまり 第一の局面のごとき)を 恐れる必要はないと思われる。この必然は 内的にやはり愛欲(その地下水・複岸性) 外的に事業論(その一元論 ゆえの複岸形態)のこと もしくは それらから来るものであると思われるが もし 独立主体が ただ一人で 社会現実となることはできないとするならば 経験的な論法で言って それは 基地である家族論をとおして 自由な必然(必然からの自由)へ揚げていかれる(すなわち 発展する)ものと思われる。われわれは 外的な展開としての事業論については まだ述べていない。
また 問答の根拠 孤独の核たる孤独(その根拠) したがってまた 愛欲の地下水の根拠(第二の自由な地下水に発展させる力) それぞれ一本の河の流れたるわれわれの源 これについても ただちに述べることはできないのである。人間のことばで これを 真理というちからであると言うことはできると思うし また 先ほど 人間的な論法で その基本的なちからは 信頼関係であるとも言った。そしてわれわれは このように 問題解決の展開過程を どこまでも 漱石流に言えばうんうんと推し進めていく。新しい自由な地下水が われわれのもの(われわれの用いる能力。または われわれが能力によって用いるもの)であるなら これの推進力は われわれ自身の能力として 存在するであろうし また 根源的な推進力も 愛欲論・家族論・事業論つまり要するに社会現実 をとおして われわれに そなわっているものであるだろう。残念なことに われわれは この問いに対して――問答を展開させていくとは言え―― そのまま答える術は 持ち合わせていないように思われる。現実といい 超現実といい これら両者の能力 ないし 経験行為を持ち合わせているなら われわれには 快活な彷徨(旅)が待ち受けているであろう。テオドリックの空位期間では このような問答が 繰り広げられたと思う。
ただしここで・・
(つづく→2006-06-04 - caguirofie060604)