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哲学いろいろ

#42

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§6 ローマへ *** ――事業論―― (42)

テオドリックは ゼノ皇帝から
東ローマ帝国の将軍の地位と称号を得たのち
宮廷で 華美な生活に浸っていた
ところへ
マケドニアのゴートの国の人たちから
呼び戻されたのである。
イタリアに進むべきだと。
国の人びとは
国王テオドリックの不甲斐なさ
を なじったのかも知れない。
あるいは すでにゴート人たちが
マケドニアの地で 不甲斐なくなっていたのを
テオドリックが 見捨てていたのかも知れない。
ともかく 問い求めていたかれらの事業に
就くことになる。
以来――いや その以前から――
皇帝論は 事業論の有力な一方式であり
資本一元論は
一元的な無限判断論および無限追究論の二つのもとに
文明を支配する方式となった。
われわれは この歴史を受け継いで
一つの場のうえに 立っている。
きみは
この企業論(無効)とも 会社論(有効)とも
言うべき一元的な資本関係論・質料関係論
に対して 新たな事業論を
構築しなければならない。
それは 密林に道をひらくようなものである。
しかし すでにわれわれの文学論は ととのった。
《すべての道は ローマへ通ずる》のなら
ローマへ われわれは
旅立たなければならぬ。
家庭論にもとづく事業論は 会社社会論であって
それは いまの優勢な企業種関係論を
一つの類関係移行論として 説くことである。
きみは すでに ルビコンをわたった
と思われる。


愛欲論・家庭論そして事業論が 種関係の
平面的な交錯関係として 営まれる場は
市民社会》とよばれる。
これは その同じ種関係において 類関係移行論を すでに捉えて
有効である。ここから 会社論へ。
類関係論の優位を説く思想形式が
一つに 一元的な無限判断説のもとに 既成の社会科学現実を 神とし
一つに 一元的な無限追究説のもとに 新しい批判社会科学を 神とし
資本一元論の企業種関係を 展開しているのだ。
これは 無効である。企業種の無関係現実。
有効な会社論と 無効な企業の非種関係の混在する場が
あたらしい事業論の母斑である。
市民社会は 底流である。
底流の新たな有効な展開は
多元的な資本関係論でなければならない。
内的な階層構造たる本質の一元が
多種の家庭を生み
多元的な家庭論に立つなら
事業論は 多種多様である。
この資本関係の多元性は
市民社会を 有効な種差(労働)関係とする。
多元的な協働の種関係は
新たな類関係への移行論を 用意する。
この時間論たる質料論を 阻むものは
無効の法現実である。
愛欲の複岸性を基にした資本の一元論。
これが 昔からの皇帝論と軌を一にして
じつに 国家という無効の法現実を よびこんでいる。
家庭が 市民社会をつくり 市民社会
国家という社会形態をもったのであるのに
国家があって 市民社会が成り立ち
これを 資本一元的な企業行動が 支えていると言う。
家庭は こののっぺらぼうの企業種関係の現実にあって
はじめて成り立つのだと言う。
無効な企業種関係は――それは一元論に立つ限り 狂気の類関係論だ――
有効な会社種関係の現実が
わづかに 歴史的に 保証しているのだ。
かれらは われわれの事業論は
のっぺらぼうの企業種関係の中へ
超現実的に つまり その奴隷となって
入りすすむとき 成り立つのだと
うそぶく。
これが 狂気でなくて なんであろう。
内的な階層構造の自由な種差には
すべて 目をつむれ
眠ったままで いよ
超現実の和をもって貴しとなせと。
和(類関係)とは 種差関係の動態であることは
火を見るより 明らかである。
時間差のないところに 和が 現実であるだろうか。
狂気の眠りから醒めて
密林のなかに われわれが一本の道を
切り拓かなければ ならない。
これは
きみたちの 身体の運動である。
現実の質料論でなくて なんであろう。
二種の平面の交錯する種関係よ 永遠なれ。
無差別・無関心の企業種関係よ さようなら。
きみは ひとこと ノンと言いたまえ。
ノンと 言わなければならない。
無関心の資本一元論に対するあたらしい時間は
このノンから 始まる。
種差関係( difference )の永遠( going concern )に対して
無関心( indifference / ungoing concern )であってはならないから。
無関心が 死だ。
無関心の誘導は 狂気だ。
無差別( indifference )は
外の資本関係へではなくして
内の本質に対するのでなくてはならない。
内的な階層構造に 性格など ないのだ。
これに対して ノンと言うのは
外的な展開たる事業論の 無性格を言うことに ひとしい。
本質の有性格論者は 人間の差別主義者だ。
人間の無差別主義者は
無性格で 一様な 死んだ 事業(労働)者を好む。
これは 無効だが 人間のもちえた狂気なのだ。
資本一元論と国家は このように言う者を ムラハチブとする。
おまえたちこそ 狂気だと。
狂気の 幻想的な種関係現実に
正気の者がいてもらっては 困るというのだ。
あるいは かれらは われわれの中に
自分たちを映して
そこに 自分たちの狂気を みるのだ。
自分たちに仕える奴隷でないなら
この世に住むべからずというのである。
気(文体)が ちがっているのだ。
このちがう気の誤謬は
ウィルスのように
人びとに 伝染する。
市民社会が 蝕まれる。
きみたちは この無効の法現実に対する
免疫性(内なる有効性の基準)を
失ってしまったのか。
Acquired Immune Defficiency Syndrome ?
これが 現在の現実である。
つまり 無効の現実。
つまり 超現実。
免疫性は 会社社会の中にある。
ただし それは 有効性の基準を
家庭論から 類推して
事業論関係としての会社へ 移してしまっている。
伝染病を うつしたのだ。

   ****

《コミュニスム(有効な会社社会を さらに揚棄した
家庭論にもとづく事業関係を基盤とする市民社会)は
経験的には ただ〈一挙に〉または同時に なされる
支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが
このことは
生産力の普遍的な発展 および
これにつながる世界交通を 前提している。》
だが 《〈一挙に〉または同時になされる》あたらしい方式の事業論は
無性格で ただ 一個の本質への到来を抜きにして
どうして 可能であろうか。
なぜなら
《生産力(質料関係)の普遍的な発展》とは
内的な階層構造(本質)の あの自由な
第二の局面への転換という
普遍的な発展を 抜きにして
どうして 可能になるだろうか。
いまの あらゆる種差関係の展開という
《世界〔史的な孤独の〕交通》が
そのまま すでに
類関係移行論を 宿していることでなければならない。
この来たるべき 類関係的な市民社会
《コミュニスム》と言ってもよいし
家庭論を基盤とした事業関係社会 つまり
多元的な資本論の社会現実だと言ってもよい。
《経験的には――時間過程的には――
支配的な諸民族の
(《A》アジア文明か 《B》ヨーロッパ文明かを問わない)
行為としてのみ 可能だ》と
考えられた。
コミュニスムという概念の
一個の類関係論が 先行するのではない。
いまの種関係が あたらしい事業論の過程をとおして
その類関係社会への移行を 勝ち取っていくのだ。
《そうでなければ
どうして たとえば所有が そもそも歴史を持ち
いろいろな形態をとっただろうか。
そして
今日 実際に見られるように どうして
土地所有などが それぞれ現存のちがった前提に応じて
イギリスでは少数者の手における集中から細分化へ
すすみえただろう。
あるいは また 商業(これも 事業である)は
いろいろな個人や国々の生産物の交換にすぎないのに
どうして 需要供給の関係(質料関係である)をつうじて
全世界を 支配するようになるだろう。
――この需要供給の関係(交換をつうじて種差関係がある)こそ
イギリスの一経済学者に言わせれば
あたかも古代の運命の神のように地上にただよい
目に見えぬ手で幸福と不幸とを人間にふりわけ
国々をおこし国々をほろぼし
諸民族を生まれさせ消え去らせるものなのである。――》
われわれは
この問答過程を
その場の同一を 保持しつつ
転換するのだ。
密林を切り開き
まったくあたらしい道を
過程させる。
あたらしい所有欲・愛欲をもち
あたらしい家庭論をもち
あたらしい事業論をもちつつあるから。
《需要供給》の種関係過程そのものが
類関係移行論であるような。
《しかるに 土台すなわち私有(むさぼりなる無効の愛欲)が廃止され
(外に 有効と無効とが混在する私有が
内的に 現実と超現実とが葛藤する個人の所有となり これを
有効に 過程させ)
生産が コミュニスム(資本多元論)的に調整され
それとともに また
自分自身の生産物に対する人間の関係のよそよそしさが絶滅されるとともに
(第三角価値の誕生を
自分たちの二角協働種関係の現在過程のうちに とりおさめるとともに)
需要供給の関係の(類関係論先行的な)力は無に帰してしまい
そして人間は
交換や生産やかれら相互の関係しあう様式(文明)を
ふたたびかれらの手中におさめることになる。》
ゆえに
《コミュニスムは われわれにとっては
つくりだされるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。
(なぜなら 有効性の基準は 内にある。
また あたらしい事業関係論は 一つの方式である。
資本多元論の市民社会は 一つの底流である。
《理想》ということばを使いたければ
そこへ移行すべき類関係の経験現実の像として これが見られる。
しかし これが 先行するのではなかった。)
われわれがコミュニスムとよぶのは
いまの状態を廃棄(転換)するところの
現実的な運動である。(あたらしい事業論の問答である。)
この運動の諸条件は
いま現在する前提から(現在の種関係から――
無効を容れた現実から――)生まれてくる。
ところで ただの労働者たちの大衆は
(種差=時間的に生きる市民である)
――大量的に資本(一元論的)からきりはなされ または
どんなつつましい満足からもきりはなされている労働者勢力は――
したがって また
一つの保証された生活源泉(本質の時間化の源泉)としての
この労働そのもののもはや一時的ではない喪失は
〔内的な階層構造の種差への無関心・無差別を うえつけられ
外的に有差別的で 無性格・無個性の〕競争をつうじて
〔理論的に 無差別的・一様な〕世界市場を前提する。
(かれらが 一元的な類関係論を説くから―― 一元的に
富裕であることの幸福という議論を述べるから――
われらが 類関係移行論を宿す種関係現実は
資本一元論的な市場の形成をつうじて
全体的な種差関係としてあらわれることを
前提しなければならなかった。経験的には。)
だから
プロレタリアートは(支配的な幻想によって
差別されるふつうの市民は)
ただ世界史的にのみ存在することができ
(なぜなら 皇帝論が そして 資本一元論が
そこまで 行き着かなければならなかった)
おなじく かれらの行動であるコミュニスムも
一般にただ〈世界史的〉存在としてのみ
現存することが できる。
諸個人(孤独)の世界史的存在とは
直接に世界史〔という類関係の場〕とむすびついているところの
諸個人の存在のことである。》(ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)
《直接に世界史という類関係の場と
ただいまの事業論的な運動過程において
現在の種関係として
むすびついている》のだ。


キリスト教思想ないし文明が
《世界史的》にみづからを普遍化する過程で
各民族社会 その歴史伝統的な文明種が
事業論として それぞれ対応していったとき
一元的な無限判断派が 〔キリスト教的に〕資本多元論をとろうとし これを
皇帝論ないし国家の視点のもとに 展開した。
どちらも 同じように パターンとして
《類としての個》というはじめの像を
既成の社会現実において もしくは 社会科学的に
先行させた。
既成の社会現実にのっとった資本一元論も
あらたな社会科学をもった国家的な資本多元論も
皇帝論ないし〔皇帝による〕私有という不法(むさぼり・盗み)にもとづき
その《類としての個》の像をえがき
この社会科学的な類関係論を
家庭論からすべてを 類推し
あの皇帝の次元で 先行させた。
この無効な法現実が いま 世界を席巻している。
皇帝と皇帝 王者と王者
王者的な市場と皇帝的な市場とが
対立し にらみあっている。
これが われわれの事業論・家庭論だと言ってのように。
コンピューターが 走り回っている。
勘ピューターは これに 追随している。
事業論が 狂ってしまった。
家庭論が 絶滅しかけている。
自然が 征服されようと。
われわれは 世界史を場として
二つの世界市場を 場合として
これらの種関係を 交錯させ
これらの資本論を 前提として
その密林を切り開かねばならない。
場が 方式であるゆえ
道は すでに 底流であるから。


   ***


市民社会という種関係の動態が
場であり 方式であり 道であり 底流である。
のでは ないだろうか。
《いままでのすべての歴史的段階に存在する生産諸力によって制約されていながら また これらを制約もしているところの
交通形態は
市民社会である。これは
単純家族と複合家族 いわゆる種族制を
その前提および基礎としてお・・・る。
すでにここでも
この市民社会が すべての歴史の真のかまどであり 舞台であるということ
そして
現実的な諸関係をおろそかにして 国家のものものしい重大行為だけをとりあげる従来の歴史観が どんなに不条理であるかということが
よく わかる。
市民社会
生産力の一定の発展段階の内部における諸個人の物質的交通全体を つつんでいる。
それは 一つの段階の商業および産業的生活全体をつつんでおり
そのかぎりでは 国家や国民をこえる。
ただし 他方では それは
ふたたび外部へむかっては 民族としてたちあらわれ
内部にむかっては 国家として編成されなければならないけれども。
市民社会という語がでてきたのは 十八世紀であって
所有関係が すでに古代的および中世的な共同体からぬけだしたときだった。
(あの《場》としては 歴史のはじめから
存在していると言いたいところだが。つまり次項。)
市民社会そのものは ブルジョワジとともにはじめて発展する。
しかしながら 直接に生産と交通とから発展する社会組織(この問答過程の場)は
すべての時代に
国家およびその他の観念論的な上部構造(素朴なおよび精緻な皇帝論とその圏)の
土台(基礎)をかたちづくっていて
やはりいつでも このおなじ名称で しめされてきた。》(ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)


もちろん 市民社会信仰ではなく
――つまり 場はあくまで場であり――
孤独たる内なる階層構造(本質)の現実存在であるわれわれ市民が
愛欲論・家庭論および事業論を 全体として
現実の質料関係たる世界に
有効に 展開するとき
その場を――だから 具体的な方式としても――
市民社会》の語で呼んでよいと思われる。
この場は 一つであり
個別性は 多様性であり
具体的な協働二角関係たる資本は
多元的な種関係である。
種関係の 質料関係を介した 全体は
社会であり また 資本であるから
この社会資本は
場の基本概念として
多元的な資本論市民社会である。
これは 有効性の基準でもある。
理想というよりは
あたらしい地下水の底流であるから
現在の平面的な種関係が
すでに 理想というなら理想をはらんで
類関係移行の過程である。
社会科学による 観念をとおして 一つの普遍的な類関係論は
第一に 種関係現実としての市民社会に先行することができず
第二に したがって (1)いまの主観平面を客観的な質料論の展開として 視野をひろげるか
それとも (2)社会科学的な政策を実行して 種関係の交通を 整理し 促進するか
である。


事業論は あたらしく
さらに ここから具体的に
議論し 実践していかなければならない。
時に いまの国家という社会形態の再編成をふくむだろう。
時に 基本的に 家庭論の復権を 展開するであろう。
時に 資本一元的な あるいは 国家による資本多元的な 事業関係を
人間が変わることをつうじて
大きく 転回させるであろう。
これは 世界史的でなければならないと考えられた。
事業関係の世界史的な交通を すでに 前提的に 成就しつつあるとするなら
あたらしい一個の具体的な事業論で
すでに もっとも新しい歴史への第一歩を
――それが とりもなおさず 密林に道を切り開いてのように――
踏み出していることになるであろう。
人間が変わっているからである。
ノンと言ったときにである。
競争というなら競争が ここから
あたらしく始められていく。
一つの類関係論(たとえば国民総生産の成長)が
先行しないなら
この競争は あたらしく 自由であり
種関係現実の優位に立っている。
内的な階層構造 つまり 人間に
あたらしい愛欲(生産・協働・事業への意志)が
底流の現実=時間化として 刻み込まれ
これが あたらしいビルトインスタビライザーとなっていることだろう。


市民社会》の解放――底流の現実化――は
第一段階として 政治的な解放であると考えられた。
愛欲の解放 つまり
第一の自然的な愛欲(その複岸性)によって 制約されず
さりとて 哲学的な規矩・宗教的な規範によって
――その一岸性の 道徳および法律によって――
規制されることにも 制約されず
あたらしい第二の愛欲の解放を
宗教批判(信教・良心・思想の自由)の実現のために
および
市民的な事業の自由を
経済的にも 実現させるために
政治的な解放が
第一段階であると考えられた。
これは すでに 成っているのである。

(つづく→2006-06-21 - caguirofie060621)