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哲学いろいろ

#38

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§5 ローマへ * ――文学と文明と―― (38)

《β‐2》の思想――ブッディスム類型――は これを方法としてはわれわれは採らない。他の思想と対比させる意味で 取り上げていくこととした。
《β》の思想において それが 宗教となってしまうからと言って 《α》の無限追究的な質料論における言ってみれば《対話法》が ないわけではない。ちなみに ヘーゲル弁証法は――《法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)》や《精神現象学上 (平凡社ライブラリー)》など―― 哲学に終わると見られやすいときには 《β》群に入れてみたとしても あまり有効でないかも知れない。また それは ヘーゲルは 別の意味内容としてだが 《無限判断》を明らかに退けているのだから この点から言って 言えるとしたら むしろ《α》群に入るものかも知れない。
《β》群の思想のなかで 対話法――つまりわれわれの言う問答過程――が 顕著に見られるのは アウグスティヌスだと思う。《β‐2》の思想つまりブッディスムとしても 大乗仏典などの哲学には それがあると考えられる。大きく――つまり詳しい議論をしないのだけれども―― 《β》の思想では 一般に 無限者と有限者とのあいだの 対話ないし信条告白(=無限者の力の讃美)が 一つの形式である。これも 平面上の種関係と言って言えなくはないのである。なぜなら 有限者つまり人間が これをおこなっているから。
むろん《α》形式の無限追究の対話は あくまで 質料論としてである。つまり 質料論をめぐって 人間と人間との対話である。
そこで 《α》および《β‐1》ないし《β‐2》のそれぞれ思想形式を明らかにしたなら ここでの問題は 徐々に明確になってきたようで 一般的に言って まず《α》および《β‐1》の場合が 西洋社会に属するものである。つまりこれら二類型は 実際問題として それほど互いにかけ離れているとも思われない。けれども 《β‐2》が 東洋社会の有力な一思想形式だと考えられるかも知れない。というのは 日本社会の情況から単純に言って 西洋のキリスト教思想による文明 ないし 第二の局面を すでに充分に摂取したその場で(または 摂取した恰好になっているその情況の中で) 一例として《β‐2》のブッディスムのような場合(小方法)が それとして 有力だと思われるからである。
こう見てくると 最初に提示した東西の両文明の二つの行き方 すなわち 《A》および《B》のそれぞれ類関係移行論のその小方法とからみ合っていると言うことができるであろう。
これを見ておいて ただし まだ このような《α / β‐1 / β‐2》といった思想形式の分別を言っただけでは 議論が粗すぎる。ここでは 三つの思想形式それぞれ あるいは その他の思想形式を もはやさらに詳細に論じようとは思わないが――文学論の大枠の中で取り上げるのみだが―― ただこのような類型的な分類を 基本的な議論としてなすことについての さらに傍証となるような観点を もうひとつ掲げて その後で はじめの目的へ進むことにしたい。


もうひとつ別の観点とは 次のことである。


それは 社会ないし情況が 外的な階層・構造として いかに構成されているかを かんたんに 東と西との差異の側面について 見ようとするのであるが これを いま たとえば《志》あるいは《徳》という概念によって 類別してみよう。あるいは図式的なものとなるのを恐れずに述べれば 次のようである。
東洋での情況は 第一に 《志》の有無によって その社会階層が かなり歴然と分化するもののようである。これは 一方で《β‐2》の仏教思想が 言ってみれば 普遍的な倫理を説いているとするなら(つまり 種関係の類関係への移行論として 普遍的な議論だとするならば) 他方で一つに 儒教思想は より世俗的な社会制度における種と類との関係を形成する原則のようなものとして はたらいたと言うことができると思われ そのとき 社会階層を大きく二つに分ければ それは 有志階層と無志階層とから成ると見ることができる。
ここで 有志階層とは ごく一部のいわゆる士大夫の世界であり 一般には すべての人びとが 無志階層に属する。

  • いまは 内的な階層構造を むろん原則的に大前提としているのだが 外の経験現実に沿って 言っている。つまり 事業論を通俗的に 類型分類して 有志と見られた形式・また これに対して無志と見られてしまうような形式 それぞれの事業論形式であり その社会的な階層である。

このとき 《徳》とは 一般に たとえば無私ということである。この無私の精神は 有志・無志の両階層に関係なく 流れるものとされていると言ってよい。そしてそれは 《β‐2》の思想形式が 風俗習慣としても 色濃いところから来ると 概括的に述べておくかたちではある。もちろん現実に 有私の情況が つねに隣り合わせているのであり 大まかに言うならば この有志・無志の階層分化および 徳の精神によって ここでは おしなべて種関係が 基本的に優位であるが それだけではなく その上にさらに 意識的に優位である。
これが つねに平面的に形成され そのとき 類関係は 時間的に――労働(広義のそれは 事業であって 労働・経営・組織の三行為を含む)をとおして―― 個別的に と言うよりは 社会全体として 一つの類としての関係和が 有志階層によって運営されていると言うものであると思われる。これは小概念としての文明の《B》の小方法であると思われる。
これに対して 西洋の情況は まず ある意味で そこに住むすべての人びとが 《志》を持つと言うことができる。そうだとされていると言うことができる。全てが 有志であるということは すでに見た《α》の対話法による無限追究(ギリシャ・ローマの哲学ないし法制など)によっても あるいは《β‐1》のキリスト教思想による無限判断(たとえば その淵源としては ユダヤ教の選民としての有志 ないし 一般に 神の子として志を持つなど)によっても それぞれ或る意味で 同じようなかたちで・ないし 微妙に両者がからみ合ったかたちで 結果として現われるもののようである(ヘブライ=ヘレニスム)。それでも このすべての人びとが有志であるという土壌においても 社会は 階層的に分化すると思われ それは たとえば一般に 《徳》の有無によるのであろうと見ることができる。

  • これらの事情について 階級関係論が 明快によく その基本的な要因を 解釈しているようであることについては すでに議論した。ここでは 文学論として言っているのであるが もし 階級関係史観も 文学論を持つという場合には その今度は 逆に 基本要因として 《α》の思想形式(生活態度)を挙げたのである。

徳( ΄αρετη ; virtu )とは たとえば 武勇であるとか 祈りもしくは思想であるとか あるいは具体的な労働そのものなどなどであり また そのうち 主要なものが何であるかは それぞれの時代の推移に応じて むしろ変わっていくものと考えられる。が さしづめ この徳の有無 ないし その個別性における優劣によって 階層が分化するものと思われる。

  • 徳が むしろ無効で実効性のあるものの代表例としては 経済=政治=社会組織的なむさぼりによる支配階級(それによる階層)の形成が それであると見る。文学論としては これを言うことによって 階級関係論も 《α》形式として成り立つと思われる。ただし 社会科学による政策は 第二次的に 別様に と言うほどに 要請されるのだと 見ている。
  • 無効の法現実の責任を 各個人に帰そうというわけではないが 社会科学によって明らかにされる歴史的社会の 個人からは独立した運動法則を言うときには それは 独立した独自の歴史の流れであるから 個人はこれに従属するわけであるけれども そうだとしても おのおの個人的な事業論・文学論が なくなるわけでもない。もし なくなると言い切ったとしたなら 少なくとも この無効の法現実の一様な支配の情況にある限り 人は あの《γ》思想群の判断停止に 基本本質的に 追い込まれていると説いていることになる。
  • 自由な内的な階層構造が 亡くなったわけではなかった(前章)から また あるいは この《γ》形式に人が追い込まれていると見る視点は 内的な階層構造の自由な発現なのであるから 文明としては 成り立たない。わづかに文明批判として 成り立っている。

有徳者による貴族制・身分制が 固定されていくならば これによって同時に たしかに社会階層は 社会階級として 制度化するものと思われる。やがて将来するという無階級社会を説く分には 徳の有無にもとづく社会階層への分化も すべて階級関係論が 解き明かしていると言うことになる。わたしは この真実を――もしそれが真実であるなら―― 類関係概念としての無階級社会という規範ないし展望によってではなく 法の有効と無効との混在(ゆえに 外的な階層・階級が生じる)として そしてこれらの問題解決の展開過程として――それは 現在の種関係をつうじてであるから この展開過程として―― 概念づけるほうが よいと思う。そしてこれは 文学論である。
問題は 微妙であるが いまは 洋の東西の文明比較が 焦点である。


現在の種関係(それは 時間的なであるから 労働・事業論としてである)をつうじて 文学論として 見る分には 階層分化は 西洋社会で 徳( この virtu は 《男》ないしその《力》の意である)の有無によっていると見られるようである。無階級社会でも 中性化するわけではないであろうから 現在の無効と有効との混在する種関係にすでにおいて 階級闘争というならこれを容れて 問題解決の展開過程は むしろ十全な類関係への移行をはらんで おこなわれていくと見たほうが よいと思われる。この場を問うていこうということと すべては階級闘争の問題だとしていくこととは ちがうような気がする。もし階級闘争が 真実であるなら これを言わないことによって 問答(つまり 具体的な実践を含めるべきである)によって この階級闘争を進展させていくことが できていると考えられる。
言いかえると あの人間の内的な階層構造には 局面転換という発展ないしその力はあっても 人間のクラスとしての階級は なかったのだから。しかるがゆえに 社会階層が 階級となった情況に対して 階級闘争が 一つの真実となるものだと考えてみる。おそらく誤解を生じるはずであるが これを恐れつつ なお言うとすれば 階級的な法現実は 無効なのであるから 言うとすれば 無階級社会(人間としてのクラスの無)は すでに この現在の種関係において そのような類関係への現実的な移行をはらんで 成り立っていると思われる。こう言うことによって 闘争の矛先をにぶらせるといったことがあるのだろうか。矛先を鋭くしようと考えているわけではないけれど。


さて このような《志》と《徳》とによる東西の情況の差異の分析について言えることは たとえば次のようであろう。東洋の社会においては 個別的な徳(武勇ないし生産の力)の差異によって その種関係において 必ずしも差別化されないが 他方 その差別化されない種関係(一般に 無志で無私 無私なのだが無志)は 時間的に きわめて あいまいである。必ずしも 類としての関係への移行も 明確であるとは 言い難い。
これに対して 西洋の社会においては その種関係が 互いに有志である者どうしから成る〔とされる〕ことによって 基本的に互いに差別化されるのを嫌うものの しかもまた その関係は より明確で 明確に差異的である。しかし このことによって 他方では 徳の形成の有無による或る意味で差別化は 同じく明確なものとなって現われる。そこでは 特に階級という固定的な階層分化をともなっており そのとき このような基本的に平等で しかも互いに徳ないし力の差を 明確に認識するところの 差別的な種関係が 全体として 類の関係への移行を欲するとなれば どのような経過をたどると 想像されるであろうか。
一点だけ取り上げれば そこでは 概念(理念)としての類関係(愛でもよい あるいは無階級社会つまり自由の王国でもよい)が はじめに 先頭に かかげられているものと思われる。
ところが 今では事業論としての資本一元論が 優勢であることより――世界史的に そうであって それは 大きなきっかけとしては 西洋文明からもたらされた―― 《A・B》二つの小方法は 東洋なら東洋という一個の文明の中で 両者が 交錯しつつ 並存(共存・混在)しているのである。《A》は 《種としての個から出発して 類としての個へ到る》場合であり 《B》は 《はじめに類としての個が 眼前(脳裡)にあって その類としての個の実現へ向けて努める》場合である。そして 現在では 文明として二種の平面の交錯する関係情況のなかにある。
東洋社会の文明形成が 西洋社会に 浸透しているかどうか これを 滲透していると見ない前にも 《A》形式は 西洋社会にも 全然ないとは言えないであろうから こう 問題を設定してみることは 有効であると思われる。
両者の交錯する種関係(つまり 現在という時間過程)の中で すでに これに対する一つの結論は 述べたのであるが それは 両者の折衷様式ではないかと見られかねないものでも あった。この問答をつづけるのである。
実践がともなわなければ だめだと 言うなかれ。どう実践するかの議論も 実践である。しかるのちに この文学論は もはや必要ない等々と言うべきである。この場を展開していくのだという確認(だから 内的な階層構造への帰還)は 人をそのように 内へ向き変えらせて 家庭論を基地として 事業論へ旅立ちさせると思われる。ゆえに 問題は 《A》および《B》の二つの小方法を――それらは 地理的・歴史的に異なったそれぞれの文明社会で 経験現実だと思われた―― 今度は はじめの方法(大方法)に立って 用いていくやり方が 発見され(つまり 人が そこに到来し) 議論される と同時に 実践されていく。この過程が われわれの一つの帰結(つまり出発点でもある)ではないかと言ったのだった。
そして むしろ現在では 資本一元論の世界史的な優勢のうちに この歴史の一段階としての 一つの出発点は 人びとに 暗黙の内に もたれているように思われる。これの内容を――そして明確にしたその内容を―― 吟味し 有効か無効かを 井戸端会議していかなければならない。書物の上で 考察するには これが 課題である。ただし 人間も かれじたいが 一個の生きた書物なのではないだろうか。
内的な階層構造は 種差をもって 平面的に 錯綜するが だから 多様性としてあるが その本質(存在)は 人間にとって 一つであると思われる。この人間の一つの本質が 至上命題ではないのだから(なぜなら それは 有限である) 過程であって いまの問答が これじたい それである。このいまの議論が 内的な階層構造の 時間的な 展開である。つまり 口憚らずに これも 労働だと言おうと思う。これが 文学論であり 一個の中間的な結論であるように思われる。

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そこで 歴史すなわち類関係が 非連続(種)の連続(類)であるならば 《B》の方法論においては たとえば 《α》の無限追究にしても 《β‐1》のキリスト教による無限判断にしても 前者は 弁証法的な発展の上に立ったそれぞれの段階における《類としての個》が 後者は つねにキリスト・イエスという言わば絶対的な《類としての個》が ともに それぞれ われわれの生誕の初めに――だから おのれの人生の目的に なんらかの形で 目覚め 文学論として おのれが生誕するその初めに―― われわれの眼前(脳裡)にかかげられているのを 見るであろう。このとき 類としての 関係の完成とは この眼前に掲げられた視像の現実化(その過程)のことにほかならない。文学論としてはである。
それに対して 《A》の方法論においては 歴史が 非連続の連続であることにおいて その非連続性の一面が強調されるか もしくは どちらも 言うには言うが あいまいであるか いづれかによって 一方で たしかに 歴史ないし社会(《社》とは その土地の神のことである)全体の 連続としての類関係の和が貴いものとされるにしても 現実には 他方の むしろ平面的な種関係が その基調をなすものと言いうるように思われる。
つまり 連続性たる類関係の社会的な総体が 大切にされるということの内容が とりもなおさず 非連続的なそのただ今の種関係が 無言のうちに 人びとのあいだに 王者となっているということであるように思われる。この限りでは 《種としての個(または 種があっての個)》から このように 出発しているのだと考えつつ ある意味で むしろ時間過程は そのままなのであって そこでは 《類としての個》を つねに望み見るというのが 《A》世界のわれわれの地点であるように思われる。望み見るだけと言ってもよいし そのときには 種関係の優位によって 種差関係の有力な情況のこととなりがちである。
このことは 《β‐2》の思考形式において 潜在的な無限者(たしかに 信仰とは言わず 非宗教的だとは言っても 一つの神道なのだ)を想定するところの無限判断(そしてまた 仏教思想)から 帰結する結果として そしてまた文明としての結果として 当然のことであるかも知れない。経験現実的に こういうことが 言えると思うのである。
両者を あらためて言いかえれば 《B》の場合では 初めに掲げられた《類としての個(個は個だ それは 類として存在すると言う)》の像の完成が 至上命題であるならば それは取りも直さず 一般に すべての人びとが そのように《有志》でなければならないことを意味しており 逆に 《A》の場合では 《種としての個》が 《類としての個》へ移行する過程において つねに――つねに―― その《類としての個(そして この場合むしろ 概念としての《和》とか《慈悲》とか《思いやり》)》を望むのだという地点にあるのだが 実際には その地点にあるのみで足りるというものである。ことばで和を尊ぶと言っていれば 立派な人間であるとなる。(いわゆるミソギの過程があるという意味である)。
後者の場合 さらに この素朴な種関係を形成する地点ないし民族的な一平面が むしろ ずるずると 引きずられていくことが 歴史であるとすら 考えられている。ゆえに この限りで 類関係(その概念)を望み見ているところの希みを棄てはしないが しかし 《無志》ないし《無私》であることが その一つの基調をなすと 言わなければならない。《有志》とは この文明では 一般の《無志》の人びとを 指導して行く気概とか政治力とかを持つことだと 考えられている。それには 《無私》でなければならないというのが――今では 過去のことになりつつあるかも知れないが―― 同じく一般の考え方である。
この《無私》は 《徳》であると考えられて来た。つまり 《B》の場合では これに対して 《有志》たち――同等者・同市民的な種関係の中にあるすべての人びと――の中の《有徳者》が 指導者となるのだと。この《B》の文明における《徳》の内容は 時代に応じて いくらか変わると思われる。もちろん 《A》の《無私》の徳にしろ 《B》の《徳としての徳》にしろ 知識・知恵・指導力をもった人格であることがその条件であるのは 共通して 或る意味で不変であるであろうが ここでは そのような原則論じたいを議論するのではなかった。
そして――そして――さらに 現代の 事業論における 資本一元論が きわめて あまねく 優勢である世界史的な情況では 資本再生産のための社会的な実効性こそが それの有効・無効の判定とは 或る意味で 関係なく 有効な基準であると 《A・B》両文明社会をつうじて考えられている。
これは 簡単なスケッチであり まずは ここから出発するものと思われる。ここでは 事業論・企業論へ進まずに 一般的に文学論として 考察するということであった。
ここで 一つの問題点を指摘するとするならば それは 仮りに たとえばテオドリックらの世界が 現代においても 尾を引いていると見る場合にほかならないと思われる。つまり 時代情況の差異を超えて これまで論じてきた限りで やはりキリスト教という文明の洗礼を――文明の洗礼をである――受ける以前と以後との両世界が 混在するような社会情況の中において という意味である。
《A/B》両世界において 《β‐1》のキリスト教思想の無限判断的な 思考形式ないしその全体的な様式としての文明 これが 人びとの社会的な生誕(第二の生誕)にとっての《洗礼》として およそ共通に その基礎となっている。

  • キリスト教世界の《A》圏では 基礎となるべきものとしてのキリスト教思想が 受容されるべきように あるいは 対決されるべきように 迫っているという意味で 基礎となりつつある。

これ以前の いわゆる伝統として 図式的には 《B》の世界では 《α》の思考形式つまり質料論の無限追究(教養主義としての あるいは 唯物論ないしマルクス主義としての)が そして 《A》の世界では 《β‐2》の思考形式つまり質料関係(≒既成事実の関係)をとおした人間関係に対する仏教思想的な無限判断が それぞれ 社会的な土壌といえば土壌を かたちづくっている。《α》の有力な一派としてのマルクス主義は ただ伝統的な土壌であるだけではなく 《β‐1》のキリスト教文明を 脱け出すためのさらなる推進力となろうとするかのようであるが それに対して しかしながら 《A》の世界における民族=国家としての《β‐2》の無限判断の土壌 これが――各民族たる種=類関係における普通名詞としての《神道》としてのように―― やはり 《β‐1》のキリスト教文明を さらに主導しようとするかのようでもある。

  • ちなみに 現在(2006年)では マルクシスムは 過去のこととなった。その現代では あたかも クリスチア二スムの勢力もしくは逆にその形骸のなかに 埋葬されているかに思われる。マルクシスムの形骸が クリスチア二スムの 一方の 形骸の中に 埋め込まれているかに思われる。クリスチア二スムの力が 衰えたわけではない。

文学論は ここから――このような全体の場から―― 出発しなければならないはずだ。そしてそれは われわれのテオドリックのおかれた位置に 通俗的に言う分には 似かよっている。ちがいは もはやテオドリックのように 皇帝論をとるすべも ないということだ。ただし おのれをみちびく自分自身の文学論が その内的に 一個の《皇帝(=司令者の意で)》でないわけではない。自分自身が 自己の司令者だという意味ではなく 《β‐1》のキリスト教思想の場合 この《自己が司令者だ》という意味での自由意志をみとめ 同時に 超越的な無限追究主体の無限判断をも みとめている。そのような一思考形式としてである。《α》派ないし《β‐2》派は つまり《B》および《A》の両伝統世界に ともに おいて 上の情況に対して おのれの文学論を 提示しなければならない。
このような世界史の 全体的な文学論の情況においては 一方で 必ずしも 人は《徳》によって 徳を基準として 自己ないし人びとを みちびくわけでは ないようになっており 他方で したがって 《有志‐無志》の内的な階層のかたちをもった連関体 あるいは 《有志》どうしのただし階層差別的な階級関係体 これらそれぞれの外的な社会階層的世界も この中でやはり人が 自己ないし人びとを みちびくわけでは ないようになっている。
一言でいえば 世界の自治形式は 変わりつつあると思われる。《場》が変わったわけではなく この場の展開過程に際しての 各文明社会におけるところのそれぞれの《場合(小方法)》が つれ立って 変わりつつあるのだというふうに考えられる。
単純に言いかえれば さらに どの文明社会にあっても すでに そこで 《A・B》の二つの場合が 同時に存在するような情況にあるとすすんで考えても よいように思われる。
もちろん このことは キリスト・イエスの出現を歴史の転回点と見る限りでの議論だという点も 考え合わせてみなければならないが 一方での 内面的な階層構造の 第一から第二の局面への 転換と 第二の局面における場の展開 といった原則論とともに 他方で具体的に それの応用といった経験現実の側面での 歴史的な流れを このように提示してみるというにことになる。もっとも 残念ながら この後者も そうであるにすぎないとも言うことができるはずである。つまり 文学論としてである。
ある一定の社会現実において 互いに同じような力関係をもって 《A》および《B》の方法論が 混在するとなれば 基本原則的な 二種の異なる平面の交錯する過程が 成立する可能性と さらにその必要性とが 説かれなければならないように思われる。それは 現実にたとえば 良心・信教・思想の自由が 実現されればされるほど 重要な課題となってくると言わなければならないであろう。
(つづく→2006-06-17 - caguirofie060617)