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哲学いろいろ

#37

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§5 ローマへ * ――文学と文明と―― (37)

われわれは テオドリック論を この辺で打ち切ろうと思う。かれが ローマへ向けて旅立ち オドアケルの王国を倒してからは その政治の手法など 見るべきものがあると考えられるが それでも あとは これまでの議論の延長線上にあるとも考えられる。
ボエティウスの時代》と銘打っているから テオドリックのゴート帝国におけるローマ人宰相ボエティウスとの テオドリックの関係をも 見てみなければならないのであるが しかしこれも ボエティウスにかんして かれの若き日の一端を――想像裡に――とらえてみることで 終わらせようと思う。後編の《アテナイのナラシンハ〔とボエティウス〕》が それである。
前章までの議論を 追うことにしたい。以下 《ローマへ》という小題のもとに 三つの章を。


ここでは 文学を主題にしたいと思う。
前四章に述べた議論を まずこの一章では 文学論として 総括しておこうと考える。そうして われわれは ここで特に 東西の《文明》の差異に着目して その中から 新しい文学理論への足掛かりを模索しようと試みる。その意味での――バルカン放浪を終えたのちの――《ローマへ》である。
間接的にでも テオドリック論を追うことができたなら さいわいである。つまり 無理にこじつけようとするなら ここでは これまでそうしてきたように 《文明》を どうしても イエス・キリストの出現を骨格として われわれの類としての歴史の中で築かれてきた・また築かれつつある文明を一つの基準として 見た場合 その西洋と東洋との差異に注目するという点では ――同じようにではないけれども――参考になると考えられる。すなわち この時まだ このクリスチア二スムの文明にそのままは入っていなかった異教の世界に属しているテオドリックらの現実世界は 東洋のわれわれにとって 恰好の視点を提供してくれるものと思うからである。テオドリックらが 《この》文明の以前の世界に属していたと言っても その以前と以後との または 第一と第二の両局面の混在する世界というほどの意味であることは これまで捉えようとしてきたとおりであることも それとして 参考になるからである。
前章で ある程度の事業論を考察できたと思うから したがって そうであるならば 現代の企業論への足掛かりを得たと思われるところで ただし 視点を変えて・あるいはテーマを変えて 文学論として これまでの論議を振り返る。必要でないかも知れないし 必要であるかも知れない。始めてみなければわからない。


    ***

一般に 日本論――日本人・日本語論――ないし文明の比較論などが 展開されるばあい そこには 数多くの視点・テーマが 見出されているであろうと思われるが ここでわれわれは 《豹変》および《バルカン放浪》の論述を受け継いで 東西の両文明の差異を言うとき 次のような視点を 提出することができると思うし この点から始めよう。
すなわち 《文明》とは 本質(人間の存在)の基本的には 人と人との平面的な二角の関係・そのような種としての本質が すでに歴史をつらぬく垂直的な三角の関係・そのような類としての本質を潜在させていると見ることに まず 立っている。
これを前提として 次には 人類としての類の関係(たとえば広く 愛や信頼といった務めのごとき《法》の側面)を 個別的な民族や国民としての種の関係において部分的に現われる《不法》(たとえば 愛欲のむさぼりのために信頼関係を築くであるとか 信頼の盗み・つまり 商売=交換そのもののために同じく信頼関係をつくるであるとか)によって 獲得するという行き方が あったと捉える。これは――法における もしくは 不法から法への移行としての過程における―― 第一局面である。
だが 次に――もしこの不法から われわれが 理論的には・もしくは たとえば民主主義といった理念において 大方の社会関係においては 解放されていると考えるならば――不法に対するに 不法をもって応える必要の必ずしもなく 自由に 法をもって 対応していくことができると理解されているとすれば この自由な行き方は すなわち 第二の局面である。
こうして 文明という事態は このときの第一から第二への局面へ われわれが 移行したということ なおも移行しうるということ このことにかかわっている。むろん 第二局面も すべては 歴史過程的に展開しているというものである。
ただし この自由な第二の局面でも さらになお あらたな問題が起きる。《法》が無効か有効であるかが 争われる。これは 結局はむしろ 現実経験的には 有効と無効との混在を 指摘しうると思われるゆえ 《文明 civilisation 》は もちろん上に述べたように 基本的には この法の有効と無効とが混在する大きな場を言うことになる。しかも さらに現実問題としては 特殊な定義も現われる。すなわち 時に 狭義には 無効の法現実が 無効つまり一般に不法であるのに 実効性をもって支配的になったその側面についても 言わなければならないし その側面をはっきりと含まなければならないということであった。
このような側面においては 不法から法への移行の過程にはたらく種差というもの すなわち人間と人間とのあいだにあって その二角関係を 剰余の価値をも伴なって あらたな局面へとみちびくと考えられる差異の関係 これは――無効が実効性をもって有力となった社会の側面にあっては―― いわば同一種の一様な平面関係をつくっているのだから きわめて停滞的であると捉えた。平面的な二角の関係が 子ないし余剰としての第三角を生むという垂直的な歴史過程をあゆむ力に乏しいと見た。法外 outlaw の領域 地下 underground の世界も 問題であるが 不法が 無効なのに 既成事実であることを根拠として 実効性をもち 社会的に有力である側面 これを 問題視した。
ここで このような内実をもった文明に対して 一般に人間の内面・その他者との種差関係を宿した内的な階層構造の中に 有効な法を《耕す cultiver 》というのは 《文化 culture 》であるだろう。愛あるいは信頼関係を考え これを実行に移す。そして あるいは この人間にとって基本的な人間関係に直接かかわる文化のほかに その社会関係を一般に道具として円滑に進めるために発見発明される科学的な知識と技術 これらも 文化だと ここでは定義する。
かんたんには 関係において捉えたのが 文明で 個人個人の人間存在やその知解力およびその行使について捉えるのが 文化である。


狭義の文明においては 一般に 洋の東西にあっては 互いに差異が存する――人間の集団の間にも 種差がある――と認識されている。これは 同じことが 或る意味で 狭義の 法の有効性の基準じたいにかんしても かかわっているかも知れない。あるいは その有効性の内的な《耕し方》 という意味での文化 においても 種差があると言わなければならないようでもある。何が善で何が悪か 世界の地域社会ごとに 変わっているかも知れない。――このような点にかんして むろん科学的に議論するわけだが しかしまだ 社会科学の作業には入らずに 文学論として 考察しようというものである。
それは 大雑把な区分としては 個別性を重視する種関係論としての文学が 総括概念を駆使する類関係論としての社会科学に対して 素朴に第一次性を有している その意味で優位に立っていると見るゆえということであった。
一般に 自然科学は これら全体の 前提領域である。自然科学は すでに述べた《現実》の制約条件への――つまりたとえば 人間および環界の 自然的な条件が そのまま制約条件でもあるこれらへの――客観的な認識を 提供している。または 文学および社会科学による この自然的な現実の条件への対応にかんする一般に 手段のさまざまな形態を 提供している。
そこで 議論を それから始めようといった最初の視点は 文学論としての小方法には 次の二つがおおきく 存在すると考えられることである。

《A》:単純に 種としての個から出発して 類としての個(つまり 普遍性)へ移行しようとする場合。
《B》:はじめに類としての個を立てて そこから出発し 類としての関係を 完成させ実現しようと努める場合。

基本的な概念の文明としては 両者とも 同じことであるだろうが 経験現実としての文明(その基体は 内面的な文化)として 上のA/B二つの行き方が 見られるとしたい。つまり 文学の小方法として そのように仮設して 出発してみようと思う。
以下 経験現実に沿って 議論する。つまり そこには 大きな問題点として 法の無効の実効性なる有力という社会事態が入る。原則論の応用といえば そうなる。
一般に 《A》の場合――この《場合》ということばを ここでは 小方法ないし行き方という意味で 用いることになると思われる――は キリスト出現とその後の文明を見たあとの局面にあって それ以前の世界を見ようとするものであり 東洋世界が 非キリスト教圏であったという意味では 東洋的社会の経験現実である。

  • くどいように言うと この章では すべて議論を 経験的に言っている。

したがって これに対するかたちでは 《B》の場合が ――なぜなら 単純な一例として 西洋社会では あの第一の局面に 依然として あると考えられてしまった魔女を 意図的に・社会的に 葬り去ろうとした歴史があった―― 西洋社会の 第二の局面以後の経験現実である。
このような類型的な分類にしたがうなら 一般に《A》の文明では 基本的に言って 第二局面への移行ののちも 種関係が 大切にされ 《B》の文明では 類を見立てた上で 個と個の関係が 重要視されるようになっている として議論をすすめてみたい。個(一個の孤独)の関係も とうぜん 種関係であるから 概念上 正確な認識ではないかも知れない。いま それに対しては 類関係をはじめに立てている《B》の文明では 文学的に言って 種関係も 個の視点から つねに捉えることが 優勢であって 《A》の文明では 同じく 種関係の成立を俟って 互いの個が 生きると見られていることが 優勢であるというふうに分類しておこう。
ここで じつは すでに われわれの結論の一つを 言ったことになる。はじめに提示しようとした《類関係に対する種関係の優位》という文学的な観点が 一方の《A》の場合では 経験現実的な文明として 有効ないし実効的であり それは とりもなおさず これが有効であるためには 他方の《B》の場合における《個の独立(おのおのの内的な階層としての個性・その独立)》による文明の形成ということによらなければならないであろう といった内容になるから。
この一結論が 安易な東西の両文明の折衷主義だと見られないように 以下 議論をつづける必要がある。この議論は うえの結論の過程的な展開にほかならないから。いささか 酔ったような論旨の展開であると思われるかも知れないが 有効性は 内的に保証されるものであるから それと無効との混在ということは 無効をあたためるために 覚めるべきだということには ならないであろう。


ただし 上の《A / B 》両概念による大雑把な分類が 有効であるかどうかは 実は はなはだ 心許無い。たとえば 東洋社会の《A》の文明においても ブッダの思想の影響のもとに 《思いやり》という類としての個が はじめに(原理的に) 立てられている場合も 大いに ありうる。他方で 西洋文明の《B》の場合においても 当然のごとくと言うべきか たとえば《キリストの愛》などという観念的な類としての個は 排して はじめから ただ偶然的な――そして そこに必然をも作っているのであるが――《種としての個(わかりやすく言えば 社会階級という種関係)》から 出発していることが ないわけではない。大きく《A》文明の中における《B》の行き方 そして 大きく《B》文明の中における《A》の行き方 とである。
これらは 同じく経験的に言って われわれが踏まえるべき現実であると思われる。文学は この場(ないし場合)を 離れて 生きるものではない。
そこで このような《A・B》という大きな分別では そこに さまざまな欠陥があると思われるので さらにいくらか それらに触れて 場を具体的に 展開させなければならない。(以下 この点がつづく)。
それには まず いささか突拍子のないことのようであるが たとえば 観点を変えて 《われわれ人間の生誕は 偶然か それとも 必然か》という問いに対する 文明的な回答の仕方の差異について 考えることから出発しよう。この問いに対するこたえが 大きく次の三つに分かれるのは 理の当然および事の必然であるように 思われる。

《α》 偶然
《β》 必然
《γ》 偶然・必然のどちらとも決めかねる。どうでもよい。

そして われわれ人間が神でない限り 事の必然としては 《γ》の意見に傾くのは 当然であって 従って 逆に 《γ》は その限りで 今は 措く。いわゆる哲学の概念の遊戯に堕するかも知れないが 《α・β》について 考えてみる。
つまり実際には むしろ《γ》の意見とともに――これとともに―― 理の必然としては 《α》および《β》のそれぞれの意見を 別個に(同じかたちで 別個に) 持つことも 否定することができないように思われるのである。
《人間の生誕は 偶然である》という《α》の見解についてであるが これは 経験現実的に言って 一般に唯物論(または ただもの論)と軌を一にするものである。この唯物論は この《α》に固執する。一般の人びとは 《γ》の意見の中に 《α》の見解を しばしば 容れている。すなわち それは 人間の誕生や死などは そのまま 物質の存在ないし運動 そしてそのような時間 であるとされるものである。この見解にも 注意を払わねばならないと思われることには この唯物論が しかるのちに 人間の存在・過程じたいは 必然性を排しないとすることにあるように思われる。
存在を 今度は 善と見てのように この善という言葉を用いるなら 互いにこの善を必然化させることによって 対立物の闘争と統一という弁証法過程を(この過程じたいは われわれの問答過程であるが) 歴史的におこなっていくと言う。単純に言いかえてみると 生と死との中間は すべて必然であるというふうである。
これに対して 他方 《β》の《人間の生誕は 必然である》という見解であるが これは ごく大雑把な一般論としては 宗教を奉ずる者の立ち場である。同じく 《γ》の意見をもった人びとも 時として しばしば この《β》の見解にも 傾くことがある。
この《β》の理論は さらに大きく 二つの異なる見方に 分けることができるであろう。すなわち 《β》の中の第一の見方は 一般に 神による創造として 生死という現実は 必然であると説くものである。つまり 類関係として はじめに立てるべき概念として 説く見方である。《β》の中の第二の見方は 一般に 生死という現実は たとえば輪廻たる一事象として 偶然であるが この偶然の事象も 免れるものではないとする ゆえに やはりそれは 必然であると説くものと思われる。
第一の見方について さらに付け加えるべき点は 神の愛(つまり ここでは 人間の生)とその裁き(ここでは 死)は 必然であるが ただし そのような人生という一定の時間帯の中にある被造物としてのわれわれも おのれの自由意志によって その神にも背きうるのだと説く点である。
われわれは まずここで 人間の生誕が偶然であるか必然であるかの問いに対して

《α》 偶然
《β》 必然
   《β‐1》 必然と自由意志
   《β‐2》 必然の中の偶然 または 偶然にも 必然的な意義がある
《γ》 どちらとも言えない・言わない・どうでもよい

のそれぞれ異なった意見を 挙げることができた。これらは 理のうえの問題としてである。
われわれは これら三つないし四つの見方を さらに一般論としてひろげれば そこから それぞれの思想的な立ち場をみちびいて 検討しようとすることは たやすいはずである。そのような思想論の分類に移る前に考えておかなければならないことは 次の点である。
われわれのこの世の中には それを逆さに振ってどう見たところでも 物質ないし質量があるのみであるということの確認であり――これを確認する主体は 内的な階層構造(なんなら こころ)をもった存在として ある―― 従ってそこには この質料を意識して思考するわれわれの 或る意味で多種の質料論が あるということ――言いかえておけば 質料論が 過程的に あるのみだということ―― これを確認することである。このことは もし 哲学が 灰色の遊戯に落ちる以外にないのだとするなら この哲学の終焉をみとめあうことに ひとしいと思われる。哲学の終焉を 哲学するということではなく 哲学をあの問答過程に活かすということに ひとしい。
すなわち われわれは 自身 もちろん観念というものの世界を排斥するわけではなかったけれども――むしろ 現実と超現実との やはり観念をとおした往復運動というものを 取り除くのではなく 現実的に過程させるということであったけれども―― これと同時に いわゆる観念の美的世界への没入などということは 当然 基本動態的には いっさい排するものである。
これは 無効であって 時間的ではない。いや 観念をとおして 質料(もの)の美を愛することは 時間的ではなく 無思慮にされることであり そうであって これは 個別性の世界に属している。これがあるとすれば固有に対内的な意味での家族論ではないかと思われる。文学は これを排除していないが 現実の具体的な種関係として――つまり繰り返せば 固有に対内的な種関係として―― 排斥しないと言うことだと思う。文学論としては これを排する もしくは 扱わないでいることが 可能であり 有効である。(この問題は おおきいと思うが そういうことになろうかと考える)。
言いかえると 俗に言って われわれの現実および超現実における もろもろの苦難に対して この苦難をいわば ただ補完するものとしての 観念の陶酔の世界を――当然のこととして 思想は―― 排するということである。(のちの文学論に この点 ひきつがれるものと思う)。
さて この世の中に 質料およびこれを捉える主体としてのわれわれのみがあって そのわれわれのおそらく多種の質料論しかないと確認しあった点から考えれば ここで思想というものは 大きく次のように分類できるものと思われる。すなわち 先ほどの《人間の生誕は 必然とみるか偶然とみるか》の議論の分別と同じかたちで

《α》 偶然の上に立って 必然を持つと見る

  • 質料論の無限追究

《β》 必然をはじめに掲げて 偶然の中から それを見ようとする

  • 質料論の無限判断(超越的な判断)

《γ》 偶然とも必然とも どちらとも言えない・言わない・どうでもよいとする

  • 質料論の判断停止

これら三つの思想群である。
それぞれについて 少しづつ説明を添えなければならない。《α》の無限追究論とは われわれ人間も 質料から成り立っているから この人間に 代表させていえばこの人間は 有限であるが この有限性と有限性とのあいだで 弁証法的なそして発展的な 無限追究 これが可能であり有効な方法だということ。ソクラテスに代表されると見るとするならば 有限と有限とが 無限に対話を積み重ねていって 質料の関係 に立った世界を 明らかにしていくことができる われわれは この過程で 判断し行動しているのだというものである。
《β》の無限判断というのは このような対話あるいは追究は われわれ人間において結局 有限であると見る。そして この限界を超える領域においては われわれの存在とは別個に 或る無限追究の主体を想定する。この超越的な主体を しかも われわれ自らの判断・行動の 究極的な作用とするものである。
なお 《γ》の判断停止論は 言うまでもなく 《α》および《β》の いづれにも属さないものであって それは 判断ということの 或る意味でどうでもよさを説く。ないし 追究ということの有限性のみを主張する立ち場である。ここまで来ると この最後の思想形態は じつは 思想でないようになる。追究の限界を超えたところでは あとは われわれ一人ひとりの個としての 恣意のみが 付随して存在するであろうと言うだけである から その限りで われわれの行動を明らかにし 文明を形成しようとする思想を成すとは 思われない。それでも かまわないと言う主張は 経験現実であるが いまは 措くことができると思う。
そこで 《α》および《β》が われわれの問題となるということは 不合理ではないであろう。
そして もう一点 先に《生誕――偶然か必然か――》について見たように 《β》の無限判断説にかんしても 同じくさらに小区分して その二つの類型を見ておく必要がある。
《β》の立ち場というのは 質料論に際して その追究の有限性を直観して さらにその限界を超えたところには われわれの存在とは別の 無限追究の主体を想定するものであったが それは ここで一般に この無限追究の主体の想定と それの信仰としては 特に 宗教としての思想に伸びることを われわれは 知っている。すなわち その二大類型として それぞれ 次のようである。

《β‐1》 無限追究の主体として 無限性・無限者・唯一絶対者を想定する無限判断

これは 言うまでもなく キリスト教思想に代表されるもので そこでは 無限しての創造者・神格と 有限性としての被造物・人格とが 世界・質料関係の上に――そして 人格は 質料から成るものとして――存在しているという考え方。たとえば われわれの存在は ただ人格としての存在のみでは 質料関係において 有限であり また同時に この有限性の受容こそ たとえば謙虚すなわち愛であるとされる。この例は 実は おそらく 《α》の無限追究派も 排斥するわけではないと思われ その点で 一つの分類として 掲げることができる。

《β‐2》 無限追究の主体として われわれ有限者の中に 可能性(潜在性)としての無限者を 想定する無限判断

先の《β‐1》も その無限追究の主体を とうぜん われわれ有限者の中に内在すると見るのであるが それは 後者による前者の分有関係であって その意味は 前者・無限追究主体が 後者・われわれ人間の中に はたらくと考えるものである。これに対して 《β‐2》の場合は 類型的に ブッダの思想に代表されるものであって この時の無限性は 覚者ブッダに見られたとされるごとく これを悟るものでもあり 図式的に対比させるなら 人格が 無限性をも 全体的に所有することができると考えられている。少なくとも 人びとの種関係が このブッダフッドを 総有できると考えられている。
言いかえると 無限性とは言え 有限者がこれを所有していると見ることによって あくまで 人格の模範形式であり このブッダという人格形式にのっとって 世界=質料関係を 観察し判断し行動することを期するというもの。
《β‐1》のほうでも 無限者(神)は 有限者(人)となったというのであるから 人格の模範であるわけである。この無限者が 有限者に内在していると見ることに まちがいはない。違いは 無限追究の主体が あくまで 超越的であることである。微妙だけれども 両者に ちがいはある。したがって たとえば《β‐2》の場合 この判断にもとづく行動とは われわれが 互いの有限性(たとえば 他者への加害性)を許容しあえるのは やはりこの無限者としてのブッダ(観念としては 慈悲など)をも 同じく相互の中にみとめあうことによるといったようなそれである。
はじめに思想群に分類してしまったことが まちがいであったかも知れないが この《β‐2》の思想 による労働論・時間論は これをわれわれは とらない。類型的に 《α》ないし《β‐1》と 対比させて 問題にとりあげていこうと考える。なぜなら この《β‐2》のブッダの思想形式は もしこれが すでに言ったように宗教となってしまった場合 それは 端的に言って 《時間論をもったというそのことによって 時間・労働を 一様な平面上に無化させるように はたらく》と思われるからである。同じく端的に言うと ブッダを出そうと出すまいと およそ人格論は 結局 われわれが議論してきた 人の内的な階層構造 これの存在を ただ 指摘しているにすぎない。そのような 場に対する前提的な議論と 変わらないと言わなければならない。この前提的な われわれの問い求めの場じたいが さらに 信仰の対象となって 宗教化されるなら われわれが 場の中にあって場としてその場を 展開していくのではなく この場が われわれを 観念的に展開させていくことのほかの世界には ならないはずだからだ。

  • われわれの孤独のこころを あたかもそれを包み込む繭を紡ぐようにして あたため やわらげるための観念共同の装置だと思われる。この種の虚構の仕組みが好みだという人びとも いるわけである。

ブッダは われわれのテオドリックと同じように つまりわれわれと同じように この場の一個の主体であるが まずそのことを言ったうえで やはり模範を言うからには 今度は 無限者としてのブッダを言い 類関係としての慈悲を言い これらを 結局 哲学的な規矩とするなら 問答の展開は ここで停止してしまうであろう。仏教思想が それを 皆が社会共同のうちに持つならば あたかも その心理共同じたいが 問題解決の展開過程であると受け取るような装置だと考えられる。そうではなく われわれが ブッダとかれに続く人びとの文化のほう・つまりいわゆる仏教思想としての営みのほうを用いて おのおのが自らである場を展開していくのなら まだしもであるのだが そうはなっていない。もはや ならないかに見える。もしそうであるなら まず 《β‐2》の思想は われわれは これを主義(方法)としては 採らない。これは 断定的に言ってよいと思う。対比させる意味で とりあげていこう。

  • 今後将来において ブッディスムが どのように展開していくのか それについては わからない。わたしは 期待していない。

(つづく→2006-06-16 - caguirofie060616)