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哲学いろいろ

#28

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (28)

この意味での《種の相違》にかぎって論じれば・いくらか概念づけようと思えば 次のようになるであろう。
《愛欲関係》においては 複岸性と一元性という平面構造とともに 別の一つの《層(階層)》があると思われる。この種関係の《階層》というのは 上の《構造》が 過程であったことより 一つに単純に《文明》としては すでに述べた第一から第二の局面転換に関係しており もう一つに 上に(1)ないし(4)のさまざまな形式を取り上げてみたように これを一般化させれば 
( a ) 種としての牽引→発展 の階梯
( b ) 種としての反撥→発展 の階梯
の二つである。二つの階梯が 愛欲関係の《階層》である。階梯――発展への階梯――というときには 対立・敵対・均衡そして局面転換(つまり発展)を さらに細かくは 含むものと思われる。
愛欲ないし性関係(あるいは また 事業論における資本関係)には ここで 前まえからの 複岸性と一元性 現実と超現実のほかに それらを 内的に〔だから時に 外的にも〕《階層》として捉えるところの――そして それは 平面二角関係において互いに相違する《種》の存在にもとづくところの――《牽引》と《反撥》とが見られると考える。牽引と反撥とが 大きくは両者とも 発展へみちびかれるというのは この階層が 現実と超現実との相克する構造的な孤独関係に――ひとりの人間にあっては―― 重なっていることに由来するものと思われる。
牽引と反撥との両契機を 殊更いうのは 互いに相違する種どうしの平面二角関係を 主張したいがためである。これによって 平面的な種関係は あらたな第三角を誕生させるところの垂直的な(歴史過程的な――つまり 時間・労働を介した――)類関係へ みちびかれる。または 潜在的に言って この種関係は 類関係を すでに宿している。これには 孤独の《階層》を 指摘しておけば よいだろう。愛欲の複岸性・一元性の理論のみで――それが 動態であったなら―― すでに このような種関係・類関係について 折り込み済みであると言って言えなくはないが 階層を言うことによって 家族論は よりゆたかなものと なるであろう。
これは 単なる経験律にすぎないし また 経験法則のほぼ 一般理論であることを 裏書きできるように思われる。
たとえば 《民族》すなわち《言語》――としての或る種関係(そこには 種の相違がある)――から来る《反撥》を 反撥として受け取って その孤独・二角関係において そのまま退くものと 逆に 反撥をむしろ 同じものとして・つまり《牽引》と受け取って そこへ向かうものとがあると考えられるとき 特にこの後者のように そこに橋を架けようとすることのほうも 言ってみれば 一つの種関係であり そのように 牽引および反撥に発する二つのまずは対立・均衡の関係から成る構造を 一元性・複岸性との相克としてだけではなく 局面転換へみちびく発展を宿す《階層》として とらえる。これは 愛欲関係が 家族論ないし三角関係へ 推進されていく問題であると とらえておくことにする。
このことによって 時に われわれの超現実の 現実に対する相対的な 主体性をも主張することができるように思われる。もちろん 現実が 基本であるから 現実と超現実との 階層的な構造というほどの意味である。このように おさえておくことができる。
現実と超現実との相克を 牽引もしくは反撥から発して 対立し均衡しつつ 発展へと導かれる過程と捉えることに ひとしい。これは 愛欲論の現実的な――そしてここでの焦点は まだ 内的な世界にあるけれども の――展開としての 家族論であると位置づけておくことができる。家族は すでに 一個の独立主体の 言わば外に出かけている場であるのだけれど この独立主体が 平面二角の種関係および 垂直三角の類関係を 形成するというとき この孤独の三角関係(少なくとも 二角の対の関係)は 或る種の仕方で 一つの人格である。と言っていい。
このことが言えるのは 現実と超現実との相克をみることによってであるが これを 種関係における牽引と反撥との両契機を言うことによって 問題を展開したというほどの意である。牽引ないし反撥が 発展へみちびかれるのは 場の主体の同一性の問題である。
きわめて まわりくどい理論である。が これによって あの地下水は 過程的に 人間的に 取り押さえられてのように よく 流れうる。大いなる孤独において 河床の上へと顕在化して 大きな河の流れを 形成するであろう。愛欲は 第一のものから 第二の自由な運動へと 回転して 流れ行くであろう。そこで あの複岸性をも すでに ただの契機(一接点 ないし 認識上の接点)たる牽引ないし反撥としてのように 現実に時間化つまり労働の場のだから契機化され 愛欲は 家族論を回転軸(ないし基地)とし 事業へ躍り出ていくであろう。テオドリックは まだ 彷徨していた。ないし そのような空位期間を さまよわざるを得なかった。


次に 反撥 / 牽引→〔対立・均衡そして〕発展の関係=過程を 見わたしたところで ふたたび複岸性――その顕在事業化 卑近な言葉で たとえば 複数の愛人関係――について さらに 触れておこう。
すなわち 複岸性・一元性の構造のみではなく 現実と超現実との相克過程において 牽引 / 反撥〔→発展〕を容れた階層を 絡ませて見てみると 種関係というものについて どういう像(認識)が浮かび上がるであろうか。
複岸性が 複数の種関係(つまり 種関係関係)を 露呈するが このことは 言いかえれば さしあたって 一つの角(おのれ)を基点として 一平面上に 放射線をなして あるいは八方美人的に 発せられるいくつもの二角関係のことである。そこで――これから述べようと思う重要な点は―― これらの種的二角関係は それら自体は それがいくつの放射線を発していようとも まったくただ一つの平面の上において 形成される(――時に 無効のうちに 形成される――)それにすぎないということである。
これは ちょうど――これも 重要な点であるが―― 一元性を基調とする二角種関係においても それが 反撥からではなく 単に互いの牽引から発するような場合は やはり一平面をしか形成しないと思われること。もう少し正確に言うと 現実と超現実との相克という階層関係を 抜きにして ただ現実的な反撥ないし牽引 これらから発するような種関係は いづれも ただ一つの平面をしか形成しない。つまり すでに形成されてある一平面(一地域ないし一民族の 同一的な種関係形式)の上で あの歴史の生起をみようとする三角類関係を 幻想(超現実)するにすぎない。
すなわち 上の両パラグラフをまとめてみると 複岸性にしろ一元性にしろ 一つの平面をしか形成しない種関係は 発展(類関係)にみちびかれないところの単なる 牽引の・あるいは反撥の 二角関係であるように思われる。
ここで 階層を言うことの現実性が 問われなければならない。すなわち 平面二角関係における互いの種の相違 したがって 相い異なる二種の平面の交錯する関係(家族にしろ 事業にしろ の社会現実)のことである。
ここで 階層(内的な)を 外的な事業論において 資本一元論(皇帝論)として 外的に過程させ これによって 実際には《むさぼる‐むさぼられる》の種関係を現出する社会的なクラス(階級)とする場合が 見落とされると思うのだが これについては まだ 問うべき場所ではない。

  • 結局 このテオドリック論では 階級的な種関係については 最後まで 詳しくは議論しないことになったが ちなみに 一言ふれておくとするならば こうである。
  • 端的に理論づけようと思えば 社会階級とは 階層(内的な)の複岸性が ただし事業の一元性にみちびかれ むしろ資本一元論となったところで 種関係の複岸性として 形成されたものである。したがって これにわれわれが 対処する基本の考え方は ちょうど第一章で国家の視点は 世界自治の形式の局面転換と展開に 基本的に かかわりないと見たのと同じように 種関係の基本形式には やはりかかわらないということである。
  • 言うことの意味は 種関係の――事業論における――複岸性たる階級関係は ちょうど国家と同じように 無効に(少なくとも 三角類関係を成立させないようにして) 形成されたものであるということだ。ここから導かれるやはりわれわれの基本的な態度は またまた国家と同じように この階級関係に対しても それは 経験現実ではあるが 無効のうちに形成されているものなのであるから むしろ 大いにわれわれは これらを(これの視点を) よく用いていくことができる。なぜなら はじめの 孤独における矛盾 としての人種の相違――これが 平面的に 牽引したり反撥したりして 交錯しつつ 局面発展して 垂直類関係をとりむすぶ――は 単純に 《馬が合う / 合わない》を 基本としており 階級関係という平面二種の交錯関係とみえるところの社会現実は 《むさぼる‐むさぼられる》の確かに不法行為の上に成り立っているのであるなら 実際には ほんとうには 有効な種関係を むすんでいない。そして われわれは 無効な不法行為(その関係)をもよく用いなければならない。
  • これが 孤独つまりわれわれの 基本的な 事業論である。
  • テオドリックは 不法行為を 自分の武器とした。ただし かれも すでに 基本的に あの第二の局面に立っていた。階級関係や国家――資本一元論や皇帝論――は それらが 無効の経験現実であるとみるゆえに われわれは これに対して 問題解決の過程を 展開させる。それは 孤独(非孤独)たちの――類関係を成就するところの――種関係が まず井戸端会議していくことが 基本であるだろう。まず というのは 歴史的に 常にということである。あとは 社会科学 による政策の実践 が残されるというか 俟たれる。これで 基本的な議論は 済ませうると思われる。

階層(内的な)の視点によって・・・
(つづく→2006-06-03 - caguirofie060603)