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哲学いろいろ

#45

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§6 ローマへ *** ――事業論―― (45)

――ボエティウスの時代・第二部――
(もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504)
言いかえると ここで人びとは まぼろし市民社会をみている。会社主義が それである。その反対であるマイホーム主義が これも そうである。まぼろしが いたるところで 跋扈している。しかし まぼろしにおいて 底流に帰っている。魚が 扈(竹やな)を跋(ふ)んで 外で踊りはねているのだから これを とりおさえれば よい。むしろ 何か新しいものを(たとえば 別種の類関係論=理想像を) 自己に付け加えるなかれ。自己に外から入ってついてきたよそよそしいもの(まぼろしの類関係論である)を 取り除きたまえ。自己到来が 道であったから。
だから 海は逃げつつある。ヨルダン(公民政府)は うしろへ退いている。山は羊のように踊り出した。小山は子羊のように。なぜ逃げるのか。なぜ 退くのか。なぜ 踊るのか。
こうなれば 今度はさらにひるがえって 差位の第一次性を 主張してよいように思われる。これによって われわれの時間観=史観が 保守停滞的だと思うなかれ。われわれの等位形式交通という時間化は差位の十全なる差位化のことにほかならなかったから。
これによって いまの企業主関係論が 新しい事業種関係へ 移行していくものと思われる。まぼろしの差位は もぼろしとすること。存在する差位は 差位とし 等位交通関係が 相互のあいだの第三角価値( interest )を生み出すようにしていくこと。この等位形式交通は その一定の情況における社会全体の《交通体系=秩序》を たとい破ってでも おのれを十全に動態的に確立していくであろうから。利潤たる第三角価値は――あるいは 家族内における断層・差別構造は―― 有効に この等位交通の時間的な展開にともなって 第三角つまり余りとしての時間となって(損得の乖離感が これとなって) さらに言いかえると 等位種関係の流れの中で 流れから言わばこぼれ落ちた新しい第三角として 動態しているところの市民社会現実が われわれの目の前に 展開しているであろう。もう一度繰り返すと 差位は 等位交通の有効な展開のなかに《余りとしての時間》となっているであろう。いまの企業種関係は この余りとしての時間を 類関係論(近代経済学)の優位のもとに 厚かましくも 先行させた。その意味で 市民も もっぱらの公民となっている。つまり まぼろしの市民となっている。
次に 理論としての本論である。


     ****

《事業種関係》の理論。

われわれの踏み出すべき第一歩としての理論は 単純である。それを実現するための社会科学的な作業体系には 既存の手法・装置があれば 十分であろう。
まずわれわれの企業種関係論は これを議論の便宜としては 《純粋概念》を用いて理解するところから 出発する。
純粋概念とは むしろ文明論において採った議論の手口と同じように すべて経験現実に沿って ものごとを把握していくことを 意味する。純粋というのは 経験現実を 抽象化した認識というほどの意である。
そうすると 等位交通とか 差位の時間化(差位ないし矛盾を 時間過程的に 展開すること)とかいうことは 等位も差位も 交通も時間化もみな 通俗的に そのような言葉で把握されるような経験現実を 言っていることになる。等位形式とか差位内容とかいう場合 それぞれを概念的に把握するときの視点の次元をなんら問わないことによって 通俗的な意味内容のままとなる。形式と内容とは 本来おなじはずであるのに――したがって 差位内容というときの内容とは 小内容のことであるはずだが―― それらは 互いに無造作にそう表現されてありうる。同じく 等位と差位とは 互いに異なる次元のものであるはずなのに――つまり 等位ゆえに差位がありうるという関係であるはずだが―― それらは ごく不用意にそう表現されてありうる。
そうすると 等位と言っても 種と種とのあいだに――実際には 個と個とのあいだに―― 現実に 等しい位格が成立していることを 意味しない。等しい人格の関係が 成立していないかも知れない。具体的な一過性の場面においてその位格は 互いに等しい関係が 成立しているかも知れない。人格・位格とも 等しい関係は 成立していないかも。あるいは 超現実に 等位が成立しているという可能性。
けれども 等価交換というとき 貨幣的な評価によるものの等価は 成立しており これは その背後で等位であるかも知れないし 差位があるかも知れない。一般に 等価交換が成立すると 現実的にしろ超現実的にしろ 等位交通(市民社会的な有効な種関係現実)が成ったと 考えられている。これが 近代市民の常識(共通な判断)であった。等価交換は 広い意味にとると ゴーイング・コンサーン(その継続性)過程にあるから 実際のところ あとで そこには 差位が潜在していたことが発覚するということは ありうることだ。
あるいは 当事者双方にとって 等価であっても 第三者から見れば 差位の潜在性(かんたんに言えば もうけすぎ)が 指摘され 大いに吟味されうる。このゆえに 等価交換の評価基準である貨幣価値 つまりこの交換を媒介するところの貨幣は 超現実の等位交通をも 仲介しうるから 容易に 人びとから嫌われたり 時に逆に信じられたりして 貨幣物神であるとみなされることが ありうるわけである。貨幣は 魔物だというわけである。
交通の等位にしろ 差位内容の相互時間化(協働してこれを 第三角価値の発展的な創出へもたらす行為)にしろ 現実の時間(有効)でもあれば 超現実の時間つまり非時間でもありうる。現行の法律にのっとって 有効とされるものでも 将来において あるいは 現在においてすでに理論的に 無効な非時間だと 主張されうるし これが 勝利することは 大いにありうる。しかも 事業論で有効な種関係(交通)は 貨幣を媒介としたモノの等価交換を一般に いわば必然的な関門として これを通過し 現実的に類関係移行の過程をになわなければならない。そういう歴史でなければならない。言いかえると なんとも厄介なことに われわれは 通俗的に表現するところの等位形式とか差位内容とか その当の等価交換であるとかまでも これを つねに有効かどうか吟味しつつ おこなっていく嵌めにある。ところが 情況の諸条件がどうであれ 実際には 差位の時間化こそが われわれの《事業》の中核を占めるということも 真実である。
ここから導くべき帰結は なになにか。純粋概念の放棄である。その出発点のどうでもよさである。言いかえると われわれは 感覚的なもの(損得感などの差位) 経験的なもの(貨幣価値的な等価交換など)を超えて 事業を自由に動態的なものとするために 人間の言葉すなわち 理性的動物たる市民のことばに 到達しなければならない。ゆえに ひるがえって 損得感の差位 交換の等価 果ては 交換当事者間の等位など これらを 自由に吟味し 過程的に 自己の事業の立ち場を 提示していかなければならない。損を減らし 得を増やすためにか?
ちがう。これらの差位の時間化 その過程的な認識――だからこれにもとづく過程的な解決――のためにである。相互に等位の市民であるため この市民として形成していく社会を 実現しているためである。これ以外に 事業種関係の理論として説くべき事柄を われわれは 持たない。
等位種関係の過程的な実現 これは われわれ一人ひとりが その責任において おこなっていくことがらである。等価交換 そこにおける差位の時間過程的な展開(それらの吟味) これは 市民社会が その意味で 政治=経営的に(共同自治として) おこなう事柄である。社会科学は この後者のために あると言おうと思う。これは むしろ宣言である。
このような社会科学は いわば監視役のような立ち場をになうことになるであろうか。そうではない。事後的には たしかに もろもろの事業関係の経済活動に生じた第三角価値 これを 事業種関係の連合体の社会形態的な一つのまとまり( United going concerns of X )の中で 再分配する機能を果たすことでしかなく 事前的には 質料(資源)や資本(金融)の計画的な配分の機能でしかないからである。これらが 家庭論的な事業論のための社会科学の新しい役割である。
一定の主に地理的なまとまりとしての社会形態( United going concerns of X )は 市民社会の実現とともに――その世界史的な実現とともに――いまの国家の枠組を 超え出てしまうかも知れない。A国 B国 X国などという単位は あまり有効なものでなくなるかも知れない。社会科学機関も 世界史的に本質的に ひとつのものとなり 必要に応じて 各地に置かれ 総合的に 機能するというぐあいである。逆に 事業種関係の連合体は 各都市ないしもう少し広い一定の地域を その単位として それら相互のさらに連関が 形成されていくということになるかも知れない。


これらの新しい事業の自由論は――ちなみに われわれの述べるべき理論は 以上の議論で一区切りを打つはずであるが―― 《労働(時間化)の自由》の観点からマルクスが主張し 《理性的動物たる市民のことば》という観点を《同感 sympathy 》の理論としてアダム・スミスが主張したそのような歴史的な系譜に つらなると見ている。
J.S.ミル《経済学原理》についてのマルクスの研究ノートの中の 次の一節。

われわれが人間(市民)として生産(事業)したと仮定しよう。そうすれば われわれは それぞれ 自分の生産において自分自身と他人とを 二重に肯定したことになろう(=事業種関係の平面を それによって時間化すべきところの類関係移行論として 読んだ=肯定した ことになろう)。
(1)私は 私の生産活動において私の個性とその独自性(両者で 種差)とを対象化し したがって活動のあいだに個人的な生命発現を楽しむとともに 対象物を観照することによって個人的な喜びを味わう。すなわち 対象的な力 感覚的に観ることができる力 あらゆる疑惑を超えでた力として自分の人格(等位交通の)を知るという個人的な喜びを味わうであろう(=市民社会における事業の自由を享受しているであろう)。
(2)私の生産物を《等価交換をとおして》きみが享受あるいは使用することのうちに 私は直接につぎのような喜びを味わうであろう。すなわち 私の労働によって ある人間的な欲求を満足させるとともに人間的な本質を対象化したと したがって他の人間的な存在の欲求にその適当な対象を供給したと 意識する喜びであり
(3)きみにとって私は きみと類との媒介者であったのであり したがってきみ自身が私をきみの固有の本質の補足物 きみ自身の不可欠の部分であると知り感じており したがってきみの思惟においても きみの愛においてもきみが私を確証していると知る喜びであり
(4)私は 私の個人的生命発現によって直接にきみの生命発現をつくりだした(=つまり 類関係へ移行するような等位交通=現在の種関係現実をもつことができたというほどの意)のであり したがって私の個人的活動(事業)のうちに直接に私の真の本質 私の人間的な本質(内的な階層構造 の動態) 私の共同的本質(断層・差別構造をともない これを時間化=問題解決していく家族関係 及び この家庭論に立った市民社会における共同性=協働性)を確証し実現したのだという(あるいは 過程的に実現しているのだという)喜びである。

この生硬な文章表現は 括弧内のわれわれの註釈とともに われわれ自身のものである。
この事業の自由における種関係現実を 具体的に個々の場面で かつ段階的に 認識し事に処するのは 《人間の言葉》にほかならない。この《理性的動物たる市民のことば》にかんする理論が スミスの《同感》の方式である。
歴史の順序としては 逆であるが マルクスの理論が具体的に個々の場面でぶつかる事業の自由の問題として このスミスの理論をここで吟味し 現代において 両者の事業種関係論を 新しい方式へ 総合的に みちびけたならとわれわれは思う。なお 《感覚的なもの・経験的なものを越えて人間のことばに到達するのだ》という一般的( general =起源的)な議論は アウグスティヌス(《アウグスティヌス三位一体論》)のものである。
スミスは 《道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)( Theory of Moral Sentiments =社会的な〔第一および第二の〕愛欲論)》の 《第一部 行為の適宜性 propriety について(=等位交通について)》の 《第一章 同感 sympathy について(=類関係移行論を宿した種関係現実 つまりその有効性の基準について すなわち 〈人間のことば〉について)》で こう始めている。

人間が どんなに利己的なもの(愛欲の複岸性)と想定されうるとしても あきらかに かれの本性(本質=内的な階層構造)のなかには いくつかの原理(前史から後史=第二の局面へ発展すべき内的階層の)があって。
それらは かれに他の人びとの運不運(事業関係におけるなど)に関心をもたせ( going concern の過程である) かれらの幸福を それを見る喜びのほかには なにも かれはそれから ひきださないのに かれにとって必要なものたらしめるのである。

《この種族に属するのは――とスミスは つづけて論じていることには―― 哀れみまたは同情 compassion であって それはわれわれが 他の人びとの悲惨を見るか たいへんいきいきしたやり方でそれを考えさせられるかするときに それにたいして感じる情動 emotion である。うんぬん》というのである。言うところは われわれの言う《有効性の基準 たる人間のことば》としての《同感》は この続けて論じられた箇所のなかの《同情》ではない。《同感》は このごく簡単な引用の範囲から言えば この《同情》などの《情動》ないし愛欲(所有欲・事業欲などを含めて)の経験現実を とらえるところの言ってみれば 理性である。
《理性》といわずに――なぜなら 精神とか理性とかも いわば動態であって 問答過程における有効性の基準ということを言おうとするのであるから よりふさわしくは――《理性的動物たる市民のことば》と言ったほうが 適切であろう。

憐れみと同情は 他の人びとの悲哀にたいするわれわれの同胞感情 fellow feeling をあらわすのに あてられたことばである。同感は おそらく本源的には意味がおなじであっただろうが しかしいまでは どんな情念にたいする同胞感情であっても われわれの同胞感情を示すのに 大きな不適宜性なしに用いることができる。



人間の心がうけいれるどんな情念においても 傍観者の情動はつねに かれがその事情をはっきりと感じることによって 受難者の諸感情はこうであるはずだと想像するところに 対応する。
したがって 同感は その情念(愛欲)を見ることからよりも それをかきたてる境遇(場・場合)を見ることから おこるのである。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 1・1)

これによって われわれは 同感とも言うべき理性的動物のことばは 《愛欲》とは別様に持たれると必ずしも言わないで 第二の愛欲ないし新しい地下水を――そしてそれらが むろん家庭論や事業論へ展開するであろう―― 離れてではないと帰結したいのである。これは 種関係の優位の 類関係移行論 ( fellow feeling )につながった問題だとみることができるであろう。


われわれは まだ なにも言わなかった。助走だと言いたくはないが 基礎的な議論 もしくは 基礎的な議論のための基礎を 提示することができたかと思う。理論を構築することが 目的ではないゆえ 世界の場の問い求めを このように基礎づけたのだと考えたい。青くさい結論をもって 出発していてよいと考えられるときには このような取りとめのない議論も いくらかは役に立つかも知れない。繰り返してまとめるなら 新しい主張を展開するというよりは これまでの歴史に著わされた主張を 吟味し それらに通底するわれわれの世界の一つの場 これを 確認することが主眼であった。こう考えて この第二部を すべて終えることにしよう。
なおつづく第三部は アジア《A》の文明という社会的な土壌を 考慮に入れたいという意図から なすものである。
(第二部・完)