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哲学いろいろ

#39

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§5 ローマへ * ――文学と文明と―― (39)

《A》および《B》の二つの方法論が 互いに混在するような社会現実とその社会的な問答過程 この情況の中で 文学論を捉えようとしている。


この二種の平面の交錯する関係とも かんれんするのであるが ここで 文学に移る前に 以上にのべた二つの方法論( A・B )あるいは 二つないし三つの思想形式( α・β‐1・β‐2 )にかんして 特に日本の情況について 触れておきたいと思う。
格別おおきな議論ではないが たとえば 精神分析学者の小此木啓吾によると 日本人は 基本的に 観念主義者だと言う。それは キリスト教( β‐1 )にしろ マルクシスム( α )にしろ フロイディスム( α )にしろ これらの思想形式を われわれ日本人はみな 観念的に受け容れてきているという議論である。
これまでのわれわれの議論においては 《観念》は 《現実》に対してにしろ 《超現実》に対してであるにしろ 両者それぞれの間の往復運動であったのだが 従ってこの意味で われわれの一つの中核(問答過程)であったのだが ここで小此木の言う《観念主義 あるいは 観念的にこれこれの思想を受け容れる》とは どういうことであろうか。
一概に規定できないことのようであるが 先に結論づけてしまえば それは われわれの言う《観念》の概念と たしかに 異ならないのではないかと われわれは考える。それは
 どういうことか。
思想形式として 《α》の有限者どうしの無限追究 あるいは 《β‐1》の有限者と無限者との関係における無限判断を挙げ それらはともに 西洋社会における類関係実現への方法論つまり《B》の方式に属するとして 触れてきたのであるが この意味は 本質的にその思考形式が それぞれ 《対話》にあると見るものであった。《問答》が 人間にとって 一つの普遍的な本質(存在過程)であると見る分には この《対話》法が 《A》つまり東洋社会に ないわけではない。《B》の世界においては 明示的に表現されて これが なされるというべきだろうか。
これを 日本人は 観念的に 受容する傾向が強いという一つの議論が いまの焦点である。《問答》は 実践過程(生活)でもあるのだから この生活過程としての問答と 思想形式としての対話とにかんして 議論しなければならない。そこで 《観念》というものは どのように どこに 位置しているのか。そして これは 《A・B》二種の文明なる平面の交錯関係の問題でもあると思われるのである。
《B》文明における《対話》の方式について もう少し詳しくとらえておきたい。
《β‐1》の例として アウグスティヌスは その《対話》の相手に 三位一体なる神を選んだ。

  • 父なる神と子なる神と 両者の交わりである聖霊なる神との三位格の一体なる したがって 一個の神。
  • 乱暴なる理解としては 精神(精神なる組織秩序・また 精神的に捉えた 世界の組織秩序=法秩序)と知性(生産)と意志(経営)との三行為能力およびその能力行為から成るわれわれ人間の存在を 想起すべきであると思われる。《現実と超現実との相克過程を 〈観念〉をとおして捉えたものをとおして》想起すべきである。つまり 被造物である人間存在におけるこれら三行為能力の一体性――経験現実――と 父なる法と知性なる子と愛(意志)なる聖霊との三位格の一体性――超現実――との関係を 想像をとおして 捉えようとしたものを通して想起すべきである。

《α》の例として 大雑把に言って K.マルクスは 社会的な質料関係をめぐっての人間の関係――それは 《観念》を《とおして》いないわけではない――すなわちこの現実世界そのものを やはりこの《対話》の相手に決めたかのようである。言われているように かれの主著は 《資本 Das Kapital 》であって 《資本論》とか《資本について》ではないとき 極端に言えば 上のようになると思われる。もちろん アウグスティヌスも マルクスも どちらも 他者という人間を 読者として その対象にしていないわけではないであろう。
同じく《α》の例として S.フロイトなら 特には質料関係(現実)に対処する人の 《超現実》の世界を 観念的に――ということは 身体的(身体医学的)にをも 含むであろうと思われるが―― 認識していこうという方式である。つまり この場合も 無限追究していこうという方式であり さらに その人・つまりこの場合 特定の《患者》を 対話の相手にえらんだようである。この場合は 一般の日常生活上の《問答》を 医師と患者という関係で 特別に・ということは ふつうの種関係という特殊性を 意図的に治療者・対・被治療者のかたちで特殊に作り出して 対話を過程させようというのである。異常に対して 正常とか健常者とかという類としての概念が はじめに立てられているもののようであるかに見える。そうでもないであろうが そのように見える。
これら《B》方式の三例について さらに見てみよう。
《β‐1》のアウグスティヌスについては その著《アウグスティヌス三位一体論》の冒頭の一文。

聖三位一体にかんするこの私の論述を読もうとする人は 何よりもまず 私の筆が 信仰という原理(はじめ)を軽蔑し したがって理性への未成熟にして 道外れの愛によって欺かれる人びとの詭計に対して 監視しているのを 念頭に置くべきである。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論

ここからは 無限者を相手に われわれ一人ひとりにとっても 十全な無限判断のおこなわれる時間(労働)を展開しようという高き姿勢がうかがわれる。内面的な階層構造が 信仰の原理によって 展開されようという時間化(労働・事業論)であると思われる。これを欲するのは 内的な階層構造たる存在としての人間であり その自由意志をとおしてであり 占いとしての無限判断の奴隷となることではないと考えられる。
次に 《α・その1》。K.マルクスについては 次のような文章において そこからは かれが たとえばF.エンゲルスという一個の存在を相手に 対話をおこなうというのではなく あくまで質料関係そのもの および その全体を 相手に 対話を展開しようとする方向が 読み取れると考えられる。言いかえれば たとえばエンゲルスとかれとの時間という種関係から出発するというよりは はじめに 質料関係というわれわれすべてにとっての――だから 時に 概念=観念的にだが その――類としての関係を立てて それによって かれ自身の存在(これは われわれ一人ひとりのことでもある)の 弁証法的な完成を 目指しているかのようである。

国民経済学は 私有財産という事実から 出発する。だが国民経済学は われわれに この事実を 解明してくれない。

  • われわれの言う《経験現実》 また 無効を容れている《法現実》を解明してくれないと言う――引用者註。

国民経済学は 私有財産

  • つまり むさぼり・盗みという不法の契機から 自由でないと思われる私有財産のことであろう。その意味で《無効》の法現実でもある。ただし われわれも 私的な個人を・家庭論におけるごとくの私的な個を 所有主体と見ている。つまり私有財産を許容しているのだが その私有財産

現実のなかでたどってゆく物質(質料)的過程を 一般的で抽象的な諸公式でとらえる。

  • 内的な階層構造の種差への無関心 indifference は 交換における一物一価の法則 law of indifference であった。これは 等価交換という《抽象的な公式》――その評価基準としての貨幣が 抽象的なものである――に立っている。

その場合 これらの公式は 国民経済学(つまり 資本一元論)にとって 法則として通用するのである。

  • 以上は 種関係についての議論である。ここからは 類関係を はじめに 立てた議論である。

国民経済学は これらの法則を 概念的に把握しない。すなわち それは これらの法則(法現実)が どのようにして私有財産の本質から生まれてくるかを 確証しないのである。

  • 愛欲・所有欲・支配欲など 内的な階層構造の中の本質から生まれてくるのかどうかを あまりやかましく言わない。

国民経済学は 労働と資本

  • この場合 狭義の労働と 経営ないし組織の一元的な所有

資本と土地

  • モノとしての質料関係(狭義の資本)と自然的な条件。ともに 経験現実の要因・要素である

とが分離される根拠について なんらの解明もわれわれに与えない。

  • 要するに 個人における表現行為の自由が 大前提であって 私有財産の社会的なあり方に関する社会的な調整は 二の次・事後的となりがちである。

・・・同様にして 競争がいたるところで引きいれられるが 

  • 内的な階層構造たる孤独どうしの 事業論の一環としての競争――表現行為の自由――が いたるところで引きいれられるが

それは 外的な みたところ偶然的な諸事情が どの程度まで必然的発展の表現にほかならないか そのことについて 国民経済学は われわれに なにも おしえない。

  • 労働・事業論が どの程度 有効な時間化・必然化として 表現されているか これについて 文学論として 解明しようとしない。それも 分業になっているようだ。

われわれが見てきたように 国民経済学にとっては 交換でさえも 偶然的な事実として 現われるのである。

  • つまり 社会としては 個人のあいだの互いの内的階層の種差を その行為じたいにおいて 保証しあう種関係の一環としての交換でさえも けっきょく 表現行為の自由という大前提のもとにある。事後的な調整に委ねられる。
  • または だから 資本一元論のもとにおける 幻想的に同一種どうしの 一様に平面的な事実として 経済活動がいとなまれ 必然的に 個人一人ひとりは この平ぺったい同種の模倣人・被模倣人として 生きている。互いに 鏡として その鏡に映った同じような姿として 生活している。

国民経済学を動かしている唯一の車輪は 所有欲であり

  • これは 《発展》以前の第一の局面にある愛欲であり

所有欲にかられている人たちのあいだの戦いであり

  • 無効な法現実が 優勢であるところの戦いであり

競争である。

  • 文明が そのように形成されている。容疑としてかけられる無効のもとに。無効が既成事実として実効性を持ち 有力となった事態のもとに。

マルクス経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

なお ここで《偶然・必然》の議論は 先にも見たとおりである。さらに詳しくは 述べない。このような対話法であり その一方式である。《β-1》のアウグスティヌスの方法と 方式の差異はあるが それほど 異なるとは思えないと思われるだろう。表現に限っては 観念的 というか 観念をとおしているのである。われわれ日本人が 《観念主義》的だと指摘された点と どのように ちがうであろうか。この答えは 述べずに 次に 最後に フロイトに触れる。
《α・その2》。S.フロイトについては 事が 特に無意識というからには 故意にかどうかは知らないが 《超現実》の世界にかかわるだけに それが 《現実(ことに 生産とか労働など)》に対する具体的な関係を持つ点について さらに 論述され明らかにされない限りは この《超現実》の世界を包んだかたちでの全体的な われわれの類としての関係への発展を望むことは まだ その段階では ないように思われる。
患者が――つまり 超現実に悩まされていたところの人が―  患部を癒され健康を回復した
類関係に還帰し かれ/かのじょ自身の事業論へ旅立っていったという《現実》との関係は 報告されているのだけれど。
ということは つまり このようにフロイトを捉えるということは かれを 精神分析学者・治療者として捉えるということであって その意味は 《無意識の領域》とか《深層心理》とか つまりその意味で《超現実》の領域にかんする かれの理論を 自我・超自我・リビドなどと並べても あまり重要視しないということだ。《対話》は――対話は―― フロイトの方式においても ――それは わたしの独断だと言われても構わないと思って言うのだけれど――《現実》と《超現実》との相克過程のため以外には 不必要のように思われる。
言いかえると 《超現実》世界のかれの理論は――それは その後 批判的にも展開されているのだが その理論は―― それだけを取り上げようと思えば 単なるいわゆる哲学の遊戯にひとしいであろう。一言でいうならば われわれの本質としての内的な階層構造は 観念をとおすという意味で 観念的ではあっても――そして それは 現実と超現実との相克過程にほかならないのだが―― 超現実の領域じたいには ない。無意識という意味での超現実のことならば 上に見たマルクスの文章の一片にもあったごとく それを 《所有欲》とか《所有欲にかられた競争心》とか言えば それで すむところだ。
もっとも 精神分析の対象とする患者は もともと誰もが健常者であるはずゆえに この《種差を亡くしたような無関心・無差別の所有欲》とか《愛欲にかられた競争心》を――それらは しばしば 外から入ってきたものなのだが――患っているのだから 超現実が 問題なのではなく 現実を 問題にしている。この意味で 大きな視野を取るとすると――ということは フロイトに対して 好意的に その精神分析学を 解釈すると―― おおきく《B》の文明過程にあって 上の《β‐1》や《α》の方法と 方式のちがいこそあれ やはり変わらないと 言いうるし 言うべきであるだろう。
観念をとおして 超現実に対して 質料関係の場で 無限追究するフロイトの言葉は たとえば 次のようである。

分析治療では 分析を受ける者と医師とのあいだには ことばの交換がおこなわれるのみです。

  • あたかも ここで 二種の平面の交錯する関係が 過程されると言うかのごとくである――引用者註。

患者は 語るのです。過去の体験と現在の印象について物語り 嘆き その願望や感情の動きをうちあけます。医師はこれを傾聴し 患者の思考の歩みをみちびき あることをよびさまし 注意を特定の方向に向かわせます。そして患者に解明をあたえ そのときに患者が了解するか あるいは 拒否するかという反応を 観察します。・・・
フロイト精神分析学入門〈1〉 (中公クラシックス)

この精神分析という無限追究(α・その2)は 第一に あくまで有限である現実の質料関係の中でおこなわれるものであり 第二に 治療を最終の目的とするものであるから 追究のための追及でないことは 明白である。もし 図式的に言うことがゆるされるなら 一般に日本人は はじめの類関係(治療目的)の想定を そんなことはないはずだが ちょうど あいまいにして 取り外して この実際の問答過程の成果としてのいくらかの理論を 《観念主義的に》受容し しばしば吹聴するということになる。
これは 事業論としての・事業論における《観念》――現実と超現実との相克のための《ことば》――が いわゆる観念論に陥らない(つまり 治療を必要としていない)という意味で 文明的であり また 類関係をあいまにするという意味で 非文明的である。非文明的であろうというのは 労働・時間化のない 経験現実としての 文明だということである。わかりやすく言えば ――時間がないのだから 種差を見ようとしないのだから―― 眠っているということだ。
《B》の方法論すなわち 西洋社会に見られるような《はじめに類としての個が掲げられて そこから出発するような種関係》の場合における 三つの方式の例を 簡単に見たことになる。それは この特徴は ある対象を相手に据えて問答を展開するといった《対話法》にあるということが できるであろう。したがって これを 具体的にはこれを 日本人は 観念的に 受け容れてきたということになる。
そして このことは おそらく 東洋的な《A》の方法論とかんれんするものと考えられる。《おしなべて種としての関係に重きが置かれ それら種関係の総合的な統一体としては その時・その場で 類関係の成立が 観念的に 省みられることで 足りる》というような一方式を はらんでいると言わざるを得ない。このことは 裏返すなら 日本人にとっては 《類としての個》という《はじめの像》を相手にしての あるいは それをめぐっての 《対話》などというのは 必ずしも得手ではなく あるいは単純に言って このような対話法は つねに平面的な種関係のかなた もしくは 内奥に 追いやられているということのように思われるのである。
それでよいとも言えるし それでは 少なくとも危険がともなうとも 言わなければならない。
《B》の方法論において 《対話》の方式とは 言いかえれば弁証法であり それは あくまで それぞれが選んだはじめの像との・あるいは それをめぐっての 《問答》であったのに対して この《A》の場合においては 種関係の中に 対話がなされても それは あくまで平面的な二角関係としての《問問》であろうと考えられる。したがって 《問問》のあいだに生じるはずの《答》は つまり類的な三角関係を形成すべき第三角は いづれかかなた または内奥に ずうっと 秘されたまま 推移するのが 一般であることになる。
このとき 問答によって第三角を産出しようという対話法が われわれにとって 《観念的》にしか 映らないのは その意味で とうぜんのことのように思われる。《問答》は むろん実践されている しかも 《眠ったまま》おこなわれている。これは 経験現実に沿って 言っているのである。
別の角度から見れば 《B》の方法におけるいくつかの方式は いづれも それぞれの質料論(質料観という意味からの世界観)の主体として 《わたし》がいる。この《わたし》は ほかならぬ《類としての個》であり またそのはじめの視像として そうである。この《わたし》の質料論の《問答》の相手は ごく普通に言えば 三つの方式に共通して やはり 《わたし》または《他のわたし》・人びと・市民であるだろう。この《問答》の一つの《観念を通した対話》の相手は まず共通しては 有限者である人間が 無限に(連続して)追究していくというとき 
《α》:人間の自由意志によって 
   《α・その1》質料関係ないし世界を相手にする 
   《α・その2》超現実をめぐって人間(患者)を相手にする 
《β》人間の自由意志と同時に 無限者の判断をみとめて 
   《β‐1》この神(三位一体)を相手にえらぶ 
というふうに考えられる。つまりそのような違いのみであるとも 言うことができるだろう。
これらに対して 無限判断の《β》思想群に入ると見たところの 《β‐2》の仏教思想は 無限者が 人間に内在的で 人格模範として 捉えられて 対話ないし問答が展開されるとき ただしこの思想は むしろこの問答の主体である《わたし》を 《無(無我・無私)》と見るゆえ 《対話》は 《問問》となるか それとも 《問答》が 《眠ったまま》おこなわれるか であると捉えざるを得なかった。たとえば われわれの存在は 《無(無我)》であって こう言うとき 《小さな芥子粒にも 大宇宙が存在する》などという所謂《観念論》に いきつく。ここでは 《現在の》ともかく種関係が きわめて 類関係としての《わたし》・その像に対して 優位であり また そのことが 社会一般的に 優勢であるだろう。
《B》方法の三つの方式も 《観念論》の傾向から 自由であるとは 言い切れない。観念をとおして 対話したその成果(理論・教義)が 至上命題となるなら つねにその弊害は つきまとう。
《A》の場合において わたしは 各民族社会それぞれに固有の・普通名詞としての《シントウ(神道)》――たとえば 神道道教・ヒンドゥイスム さらには 《B》の場合におけるものとしても ヘレニスム・ラテニスム(ギリシャローマ神話)・ゲルマニスム(北欧神話)などがそれだと考える――は 《β‐1》のキリスト教思想に近い 無限判断の思考形式を持っていると思っている。
さらに言うとすれば 無限者をみとめないと標榜する《α》の思考形式も その質料論において いわゆる自然史過程をみとめているという意味で 無限者の判断を じっさいには摂り入れていると 考えられると思う。
これら全体に対して 言うべきことは 《問答》が 《観念をとおす(その質料論・世界観)》であるはずではあっても この質料論が われわれをすべて覆い尽くす鏡のようなものとして 至上命題となって 観念論に陥ったり 観念主義となったりすることではないという点だ。これは 文学論の常識であると思う。こう見てくれば 《A》および《B》の二つの文明種の交錯する平面関係は――つまり 現代の世界史的な情況は―― そこに 共通の類関係(概念)が ないわけではない。《観念》という概念が そこでは 積極的にも 消極的にも 見直されなければならないと帰結することができるであろう。
しかれば たとえば《A》の文明種において 問答が 現象的に 問問となるという点についても これを 頭から排除・批判すべきであるとかとは 思われない。ここに 文学論の生きる道が 存在すると思われるのである。したがって 問題は 積極的に 《A》《B》二つの経験現実的な文明 としての小方法論 これらが混在するような現実として われわれの現代の《場》を 問い求め(たとえば 経済摩擦・文化摩擦というような情況) 文学論は ここから あらたに旅立つと言うことができる。文学論とは 異なる視点に立つ社会科学が この場から離れて 別種に 考察されていくとは 思えないからである。この青臭い一結論をもって この章を閉じることになる。
(次章につづく→2006-06-18 - caguirofie060618)