caguirofie

哲学いろいろ

意志自由

自由意志を無くすのも 自由意志のしわざですよ。



 動物は 食べるものに毒があるかをその身で・その感覚で見究める。
 ヒトは この本能を使わないし そのチカラも乏しい。
 学習経験やその経験知によって判別することになる。

 この知解能力を活かそうとするのも 意志行為であり 認識を得たあとその認識の中身にそのまま従うかどうか これを判断するのも 意志行為です。

 ボタンを押したりクリックしたりすれば その現象が起きるというような因果関係であるとき 自由意志は 出る幕が無いのでしょうか。
 押す押さないも 動物のごとく勘で決めるのでしょうか。
 
 だから アヤマチやマチガイは おのれの自由意志によって選択した行為から出たものだとは捉えないのでしょうか。

 いやはや。


    *

 1. まづ 《決定論》というのは そもそもの話が 成り立ちません。

 2. 仮りに人間の思いや振る舞いが前もって決まっている(もしくは決められている)とした場合 その場合でも そのような決定という事情についてわれわれ人間はいっさい分かりません。

 3. 決定されていたということがもし分かるという場合は あくまでその人の主観の範囲内でのことです。
 
 4. 一般に普遍的な見方としては 《決まっているかどうか》あるいは《決められているかどうか》については それは人間が分かるか分からないかが分からないということになります。

 5. 《分かるか分からないかが分からない》ゆえ 人によってはその主観の内部で《分かる》つまり《あらかじめ決まっていたと分かる》という場合があり得ます。そうして そこまでです。それ以上は 不毛の議論になります。
 
 6. もし自由意志というものを 《自分の思いどおりにことをおこなうことであり そのチカラである》と規定するとしますと――つまり ほんとうはそうではないはずですが―― およそこの世の出来事は ひとりの人間の出来ることと言ってそれは限られていますから たいていが 《自由意志は存在しない》というひとつの結論にたどり着くもののようです。

 7. 一般にその場合言えることは 遠くその昔からまた広くほかの人びとや社会とのあいだで そもそも人がおのおの自由意志のまにまに考え振る舞って来たその結果として いまの状態としては この自由意志が発揮される余地がなくなって来ている。のだと見ます。

 8. 言いかえると そのように自由意志の発揮される機会が少なくなって来たというのは ふたつの側面があります。

 9. ひとつには 近親婚の禁止といったナラワシのように――と言っても いまでも 婚姻とは別に近親姦は自由意志のよく成すところであるのかも知れませんが―― 《自由》の問題をよく考えた結果 それは自由である必要はないと人びとが見なしたから 自由意志の余地を残さなくなったという場合です。クローン人間なんかは どうでしょうね。

 10. そのようなおそらくしかるべき自由意志の発揮という主題をめぐる場合のほかには 要するにありとあらゆるワルイことを考えこれを自由意志のまにまにやりからかした結果 その同じ自由度のことしかもうやらかすこともなくなったという側面 これがあります。

 11. あるいは そのような無法地帯にも自由意志を思う存分発揮するのだというパイオニアたちが開拓し暴れ回った結果 どういう状態になったかと言えば 世の中は けっきょく早いもん勝ちであり声の大きい者がのさばり おまけに社会という家が 国家というかたちの二階建てになってしまっている。

 12. これはどう見ても モノがつまりエネルギーと成りうるモノの自己運動が人の手に負えないというそのことと同じであるかのように 社会としてのチカラ関係がモノとして成り立ち この力学に従って人びとは動いているということになりましょうか。

 13. この側面つまり 社会力学としての世の中の動き これについては たいていの人はお手上げになる。つまり 自由意志の出る幕はないとなる。




 14. 問題は 自由意志については ひとつに 自由意志をなくすのも自由意志のなすところだということ――つまり自死は 自由意志の成すところです――。ひとつに 自由意志が内面においてあたかも良心のごとく命ずることを 同じ自由意志が曲げる・それをひっくり返すというのも そのとおりに自由意志の発揮となります。

 15. そして――さらにひとつに そして―― 一般に 自由意志を発揮する余地などないと捉え その情況と自分の置かれた・相手との位置関係より自由意志を抑えあるいは放棄して その社会力学の命ずるところにしたがうという行為 これも じつは 自由意志の成すところであるのです。

 16. 自由意志は おのれ(つまり意志自由)を発揮しえないと見たとき そのようにする(つまりおのれの自由意志を出さない)のは これも自由意志のしわざです。奴隷が その状態に甘んじるのも 反抗するのも すべてみな 自由意志の成すわざです。ほかに見方はありません。

 17. ほかに見方はありません。言いかえると ひとは この自由意志をそなえた自然本性として生まれて来ています。それよりほかの仕方で ひとの存在が成り立っているという気遣いはありません。あり得ません。これが 人間に生まれたという人間の条件です。

 18. 自由意志をそなえた生物として生まれて来ているという条件 これは 人間にとってそうとすれば《決定論》であるかも分かりません。

 19. でも決定論は 人間にとってあり得ない相談です。そもそも決定論は成り立ちません。

 20. では ひょっとして 神にとっては決定論はあり得るのか? さあ どうでしょう?