caguirofie

哲学いろいろ

数の一は人ひとりの存在に対応している。それは 全体の一にも対応するとすれば この世界を超えるものは?

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9845597.html

1. 数は 抽象された概念である。だが その単位体があるはずであり それは
人ひとりの存在に発する。

2. 人なる存在とは その煮詰めた中軸は 意志の自由な選択行為である。

3. 判断と認識が 意志自由のもとにある。自由意志が 単位体である。

4. さらに具体的には この自由意志のひとつの表現行為が 数の一を成す。

5. 選択(判断)や知解(認識)がまちがっていたとしたら そのマチガヒを知
ったことが 単位体としての一を裏づける。

6. あやまつなら われあり( Si fallor, sum.)。という存在論




7. 単位である一でこの世界をすべて測ると言えるとすれば――相対的な認識に
過ぎないが――:

 《ひとりのわれ》=《世界》つまり ミクロコスモス=マクロコスモス

である。
8. というのも この《われ ないし 世界》は ひとりの人間たるわれの現実
のすべてであるか? と問えばそれは 分からないからである。

9. 1 や 1+1 や 1+1+1+・・・やで測り得る人と世界とを超えて
いる場ないしチカラがあるかも分からない。ないかも分からないが 決まらない。
《非知》である。

10. 非知が想定されそのナゾが われわれ人間にとって大いなる現実であると
言えるとしたなら (7)の――宇宙の相対的な認識たる――世界観は うべなわ
れ得る。すべては 非知〔なる絶対〕のもとにあることになるのだから。




11. われなる存在における《非知 と われ自身とのカカハリ》は 数の世界
を超えている。自然科学を超えた・人間の現実である。

12. 《非知とわれとのカカハリ》は 超自然また超経験であるが 必ずしも超
現実ではない。大いなる現実は 小さな超現実をふくむ。

13. わが大いなる現実は 《非思考の庭》とよばれる。いわゆる信仰である。

14. AI は 非思考の庭を否定するか? みとめてそれに挑むか?




15. 非思考の庭が 信教・良心の自由と一体である。自己表現の自由

16. 言いかえると 非経験の大いなる現実ゆえに 経験行為としての意志自由
がそなわっているという見方ができる。



17. 宗教は この非思考の庭を自分たちの植民地としている。勝手に開発し略
奪し搾取している。

18. 宗教は 非知ないし非思考を 可知または不可知ないし思考や感覚の問題
としてしまっている。

19. 十字架上のキリストを地上に引きずり降ろして来て――または 天上へ揚
げ過ぎるかたちで―― いいように利用している。支配欲と金銭欲を満たすために。

20. その非と愚とはすでに分かり切ったことだとすれば 或る種の仕方で AI
教が 宗教に取って代わるかも知れない。

☆ どうでしょう。