数の一は人ひとりの存在に対応している。それは 全体の一にも対応するとすれば この世界を超えるものは?
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1. 数は 抽象された概念である。だが その単位体があるはずであり それは
人ひとりの存在に発する。2. 人なる存在とは その煮詰めた中軸は 意志の自由な選択行為である。
3. 判断と認識が 意志自由のもとにある。自由意志が 単位体である。
4. さらに具体的には この自由意志のひとつの表現行為が 数の一を成す。
5. 選択(判断)や知解(認識)がまちがっていたとしたら そのマチガヒを知
ったことが 単位体としての一を裏づける。6. あやまつなら われあり( Si fallor, sum.)。という存在論。
7. 単位である一でこの世界をすべて測ると言えるとすれば――相対的な認識に
過ぎないが――:《ひとりのわれ》=《世界》つまり ミクロコスモス=マクロコスモス
である。
8. というのも この《われ ないし 世界》は ひとりの人間たるわれの現実
のすべてであるか? と問えばそれは 分からないからである。9. 1 や 1+1 や 1+1+1+・・・やで測り得る人と世界とを超えて
いる場ないしチカラがあるかも分からない。ないかも分からないが 決まらない。
《非知》である。10. 非知が想定されそのナゾが われわれ人間にとって大いなる現実であると
言えるとしたなら (7)の――宇宙の相対的な認識たる――世界観は うべなわ
れ得る。すべては 非知〔なる絶対〕のもとにあることになるのだから。
11. われなる存在における《非知 と われ自身とのカカハリ》は 数の世界
を超えている。自然科学を超えた・人間の現実である。12. 《非知とわれとのカカハリ》は 超自然また超経験であるが 必ずしも超
現実ではない。大いなる現実は 小さな超現実をふくむ。13. わが大いなる現実は 《非思考の庭》とよばれる。いわゆる信仰である。
14. AI は 非思考の庭を否定するか? みとめてそれに挑むか?
15. 非思考の庭が 信教・良心の自由と一体である。自己表現の自由。
16. 言いかえると 非経験の大いなる現実ゆえに 経験行為としての意志自由
がそなわっているという見方ができる。
17. 宗教は この非思考の庭を自分たちの植民地としている。勝手に開発し略
奪し搾取している。18. 宗教は 非知ないし非思考を 可知または不可知ないし思考や感覚の問題
としてしまっている。19. 十字架上のキリストを地上に引きずり降ろして来て――または 天上へ揚
げ過ぎるかたちで―― いいように利用している。支配欲と金銭欲を満たすために。20. その非と愚とはすでに分かり切ったことだとすれば 或る種の仕方で AI
教が 宗教に取って代わるかも知れない。☆ どうでしょう。