caguirofie

哲学いろいろ

turville, buckinghamshire, uk


ご回答をありがとうございます。
 自由につっこみます。

 ★ 1. 我等は、認識する個体である。
 ☆ この命題をわたしが認識します。すると それは《認識する》だけでは足りないという考えが起き そのことを伝えようとする意志がはたらきます。

 《個体》なる存在の中軸は 認識ないし知解によりも意志の行為にある。と考えます。
 なぜなら この《1》の命題を認識し知解したあと それでよいかどうかを判断するからです。判断は 意志の行為です。

 むろん認識の内容だけを自己表現すればよいという判断もあります。ということは 意志が わが存在全体の動態にとっては中軸をにないます。


 ★ 2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。
 ☆ 前項の議論に反して 《生存ないし存在》そのことについては われわれ人間の意志を超えています。

 たとえば 人間は おのれにとって良きことをのぞむ。悪しきことを望むことがあるときでさえ そうすることが―― 一時的な判断としてであろうけれど・破れかぶれであろうけれど――良きことだと思うからでしょう。

 つまり おっしゃるように《幸福の追求》をけっきょく意志する。つまり 意志するのですが このような意志の行為の発現は じつは おのれの意志が 知解行為として考え認識しそれを選択したことでは 究極においては ないのです。生まれつきそなわったチカラであり性質です。

 そのことと同じように 《生存》は明らかに人間の意志を超えてはたらくチカラに拠っている。むろんその上で意志をもはたらかせるのです。

 神秘的なことを言おうとするのでなく たとえば《生命》ということでしょう。生命も 神秘ですが。


 ★ 3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。
 ☆ 《認識(知解)》と《意志》とは 別の能力行為です。

 知解が用意した行為のための選択肢を選択するのは 判断という意志の行為です。
 むろん その選択するときの知解なる作業も起きています。ですが 知解が もっとも良いと認識した選択肢を 意志がえらぶとは限らない。のです。意志に選択の特権があります。

 《幸福》とは そういった一つひとつの・目的をもった行動について 計画と実行との過程やその結果について 《わたし》は判定します。判定しますが その場合にも 成功ゆえに幸福であるとは絶対的には決まらない。

 《その達成の認識により幸福が成る》ということは 《成功〔の度合い〕》のことを言っていますよね。
 そういうふうにして わが幸福が決まるとは考えません。

 そもそも 幸不幸は つねなる状態としてワタシにあります。しかも 幸不幸のどちらも《仕合はせ》として成り立っています。どちらに転ぶかで 決まるのではありません。

 端折りますが よき仕合わせであっても悪しき仕合わせであっても わたしがわたしであること。これが 人間の幸せです。

 かくて:
 ★ 10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性〜進化)の定性化である。
 ☆ 《認識》と言うよりは 存在としての《境地》の問題でしょう。




 ★ 16. 利己と利他、あるいは唯物と唯心
 ☆ あるいはほかに自律と他律 といった二項対立をなぜわざわざ前提として話をしなければならないか 分からない。




 ★ 5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。
 ☆ 意志行為の内容として この《学習 と 生産》がある。というとき それらの拡大――《6. より大いなる》といった捉え方――にはさして重要な意味はない。少なくとも幸福をもとめる境地の問題としては 一定の生活水準に達したら さほど意味を成さない。《勤勉とガリ勉》。




 ★ 完全
 ☆ という規定は 哲学で人間のことにかんする表現としては用いがたい。
 
 いや 《相対的な完全》のことだという理屈は無し。
《真理》も 絶対のそれと〔人間の認識になる主観的ないし主観共同としての〕相対的な真実とを峻別して 自己表現すべし。





 《時空間》は 《わたし》において〔も〕すでにそのように成り立っている。のではないか?




 《愛》とは 価値中立的にも捉えた意志行為のことである。さらには 《境地》が――それは ヱクトルであるので―― 愛と呼ぶにふさわしい。




 ★ 16. 金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。
 ☆ 《金や地位といった外的価値》――価値を内的と外的に分けるのもどうかと思うが 《お金や地位》は それとして互いの《人格全体の境地》の関係において利活用すればよいだけ。

 《主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない》と表現するのではなく ひとつに思想・表現の自由である。
 ひとつに したがって 批判の自由であり 主義・思想を批判する。

 宗教については オシへを信じる(心に受け容れる)という一点をもって精神錯乱であるということを認識し理解するよう徹底させなければならない。




 ★  17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。
 ☆ これは一例に過ぎないが 表現の振り子を一方の極にまで振らし過ぎないこと。青すぎる。