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哲学いろいろ

騎馬民族と農耕民

★ 遊牧民族と農耕民族の関係は確かに根底ではつながっていると思いますが、それぞれの違いを認識することも必要だと思います。
 ☆ 平屋建ての市民社会――ムラムラのマツリを中心にして共生していた頃――から二階建ての構造を持つようになるそのいきさつについて 遊牧民と農耕民との思考形式のちがいをつぎのように推理します。

 まづ遊牧民族ですが これは――江上波夫によりますが――早い話が他人のモノをかっさらうというかたちです。ですから すでに他人たちがその国づくりとして いわゆる王を立てて二階建ての構造に作り上げていたなら そのモノをかっさらうというかたちです。
 ただし説かれるように 民主主義で実力主義ですから 取締執行役員(CEOですか)や各分野の専門家をどこからでもいいから(よその国の人間でもいいから)連れて来てどしどし起用する。そういうかたちで国という二階建ての家を経営すると言います。また自分たちは その土地の人びとと同化してしまうと言います。
 農耕民たちが 国をわざわざ二階建ての家にする場合というのは 考えたのですが つぎのような場合ではないでしょうか?
 上に触れた《王を立てる》というのは けっきょくムラのおさ(長)を立てるという発想ですから 平屋建てとの違いが 必ずしも明確ではありません。
 そこには 人びとを寄せて束ねるという発想が加わる必要があると考えました。(ヨリ・イリ・ヨセという心性ないし歴史知性のあり方の問題だと思います)。

 マツリの神(神々)が いわば観念となるかたちを持つ。ここに始まりがあるのではないか。いちいち神の概念を問わないで非思考において信仰していた人びとの間に これを観念において我が物とする動きがあった。
 この観念をもとにして その神々を――あくまでも新しい動きにおいては 観念として――共同化することによって国づくりを一段と行きわたらせる。いわば神々の代理 つまりその代理としての人間の登場ということではないかと考えます。
 この志向性のもとに現われたのはもともとは 《王の徳をあまねく行きわたらせるという感化政策》というかたちではないでしょうか。ただしすでにそれは 二階からのはたらきかけというかたちを採らざるを得なかった。一階つまり平屋建ての社会にあっては 徳性はおのづと人びとに伝わります。観念化をせず観念化を拒むようなかたちで。

 つまりは こうです。
 或る日或る時どうしても我れは 神のごとくに如何なるものの下にも立つまいと決意した人間がいたわけで かれはそれはそれは人間的になるよう努力します。もうこれ以上は人間的になれないと思って周りを見渡すと 誰もそのような人間性というものに関心がない。
 そこでかれは最初の誓いを保持したまま 人間や社会に《イリ(入り)》するのを方向転換して 人びとを《ヨセ(寄せ)》することに専念しようとする。その手段が 《王化の徳・王の徳の感化》であり そのような《観念のあまねわり》(あまねく行きわたらせる)だと見ます。武力は第二の手段だと見ます。


 あとは おまけです。
 この観念の繭という核の傘政策は 人間論からすれば 忌まわしき事態です。人間の自由の違反です。――ただし 社会という視点をとれば 《ヨセ》つまり通俗的に言って《依らしむべし 知らしむべからず》の政策は 自然やひとに《ヨリ》つく傾向を持った人びとを導くための短兵急なやり方であって ふつうの歴史知性である《イリ》としても その導き方を時間をかけておこなうはずだと考えれば 五十歩百歩だとも言えます。
 特に 外国が攻めてくるといった非常時には 《ヨセ》の行き方が用いられる場合があります。それでも人殺しはしないという非戦論を採る《イリ》思想の一系譜というのは どうでしょう あるでしょうか? ありえないでしょうか?

 ということで 社会という視点に立てば 人間の自由論からして忌まわしきことでも これをただちに元に戻すということが どうも出来なかったようですということを添えておこうとしました。
 国家は存続しました。観念の共同は 一般にアマテラシテ(象徴であり 権威のことです)のもとに 一定の期間において 確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。
 そこで忘れてならない基本的な歴史事例は のちにアマテラス二階族を形成する人びとに対して かれらが《おれたちに任せてくれ。このくにの人びとを寄せさせてくれ》と拝みに拝んで ふつうのイリ知性たちに話を持ち込んだとき 後者の人間たちは前者の人たちに《くにゆづり》をしたということです。根負けしました。一方では《もううるさいからということで神だなに据えた》のでしょうが 他方では《思う存分好きなように経営能力を発揮したまえ》と言ったかたちで任せることになりました。
 その後月日は経って いえいえ千五百年経ったのでしょうか 《くにゆづり》した側は――つまり一般スサノヲ市民らは―― 総じておとなしくして来ました。《ゆづった》のですから そうそうは《返せ》とも言えません。そういういきさつで 現在に到っていると見ます。

 締めのひとこととしては この農耕民の国づくり方式に遊牧民の統治形式が混ざり合っていると思える。これです。どうでしょうか?