親鸞:はからひにあらず
▲ (親鸞聖人御消息集) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
他力と申すは 仏智不思議にて候ふなる ときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば 仏と仏とのみ御はからひなり。
さらに行者のはからひにあらず候ふ。
しかれば 義なきを義とすと候ふなり。
(慶西御坊御返事)――(伊藤博之校注:『歎異抄 三帖和讃』1981 p.201頭註一〇)
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▲ (親鸞:末燈抄 22) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『宝号経』にのたまはく、
弥陀の本願は行(ぎょう)にあらず、善にあらず【万行を修めること
を求めているのでもなければ 諸善を積むことを条件としているわけで
もなく】、ただ仏名をたもつなり。
名号はこれ善なり 行なり。行といふは 善をすることについていふことばなり。
本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには【心得た上は】、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。
本願の因は能生(のうしょう)する因【直接の原因】なり。
能生する因といふはすなはちこれ父なり。
大悲の光明はこれ所生(しょしょう)の縁【間接の要因】なり。
所生の縁といふはすなはちこれ母なり。
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◆(親鸞:有念無念の事) 〜〜〜〜〜〜
1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。
2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。
3. また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。
4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。
5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。
6. 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。
(末燈抄・一 伊藤博之校註)
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1. 臨終のときに阿弥陀仏が極楽へと引き取るためにやってくるという来迎は 修行や善行を積むことによって往生する場合のことである。自力をたのむ行者であるゆえ。
2. 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。
3. あるいはまた重い罪を犯した人が 臨終の折りに導師に会って念仏をすすめられるときに言うことである。
4. 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。
5. このゆえに臨終正念というような往生のかたちを俟つ必要がない。来迎をたのむこともない。
6. 信心の定まるとき 往生が同じく定まるのだ。来迎の儀式を俟たない。
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☆ 空海の即身成仏に応じているかとは思います。
永遠の現在 これが往生のすがたです。