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哲学いろいろ

《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教批判です――


0.
宗教の批判は終わっているとも聞きますが あらためて問います。つまり 批判
します。
 
個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないしろものであるというの
が 趣旨です。信教・良心および自己表現の自由は 宗教組織としての結社の自
由を保証するものではないのではないか?

1.
宗教の発生をその過程においてどう捉えるかという視点に立って考えて行きます。
 
2.
まづ アニミズムとは なにか?

人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人
と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられま
す。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。
   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
     の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。
おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
神体山(かむなび)であるとか神木(ひもろき)であるとか これらに人が身
心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その
山の石(いはくら)や木が神との交流の依り代になっているということのよう
です。

人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があっ
たのだと思います。アニミズム

3.
アニミズムからのへそ曲がり。としてのシャーマニズム
 
ところがこれをいいことに そこからは 自分でこのアニミズム交感なる現象
を〔勝手に〕操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 
何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があった
り衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法
ではなく そうではなく このシャーマンの出番となったという場合です。

何が何でも 自己の努力によって・しかも自己の意識を突き抜けて 何ものかの
世界――つまり言わゆるかみがみなのでしょうか――に身を置き さらにそこか
ら 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニズムであるようです。
占いのようなものです。これは もう端折ります。

4.
さらに時を飛んで 《時間的存在》としての人間の誕生。

やがて あたかも初源のアニミズムの自然性を取り戻してのように しかも新た
な心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるもので
しょう。死を知り 生を知った。

農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして・つまりその種蒔
きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であること
を知ります。
 
要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく眠るのでもなくそうでは
なく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在である
ことは われわれの心性を高めて 精神および身体において 《歴史知性》を獲
得したと考えられます。世界の内へ その時間的存在なる自覚において 入った。

5.
ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 −1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。世界内存在。
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て
来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によって
は 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。
6.
歴史知性を獲得したひとの抱く信仰。
 
言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミス
ムの要素を備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょ
うから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持ち得ます。単純に 超
自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 
これが ふつうの知性のあり方だと考えられます。経験世界を超える場については 
個人として・あくまで個人の主観内面において その神とよぶむしろ非対象をいだ
いた。という信仰。

7.
さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

単純に言えば ヨリ・アニミズムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神
との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 
神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわ
けです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。どんちゃん騒ぎをも伴なっ
て。

ヨセは このマツリを 一段高いところから〔ふつうのイリ歴史知性を超えた(と
自称する)ところの精神において〕 《まつりごと》として制度化したというもの
です。マツリゴトとは 個人やムラを寄せ集め人びと〔の信仰〕を束ねる宗教であ
り政治です。

8.
古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新
羅を討つというくだりに出て来ます。

これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは す
でに人びとは一般に イリ歴史知性なる相対的で移ろい行く存在であることの自覚
を持ったあとだということです。かくて 《ヨリ・シャーマニズム+イリ歴史知性》
で 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


9.
《ヨセ》なるスーパー知性とはいったい何か?

《一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところに《ひかり》を見て
そのまぼろしなる精神のもとに) 村々のマツリを寄せ束ねた》というのは その
ように《神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った知性であり人間精
神である》と考えられます。

つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ人びと(アニミスト)と同じ地平に立
っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌った
ようです。
 
嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづからアマアガリして行ったのか。
それとも人びとが その新型チョー弩級シャーマンに辟易してこれを《敬遠》し人
びとの合意で 言わば社会の神棚に据えてまつることでもしてやろうと考えたか。
いづれとも推し測られます。
(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。

10.
要するに ここに 神の代理が 出現しました。紛れもなく宗教です。
(オシヘはなくても。あるいはつまり ムラのまつりにおけるイリ知性なる人びと
の仲の良さをパクって《和を以て貴しと為せ》と のたまい いや実は《逆らうこと
無きを旨とせよ》と――ただし普段は言挙げせず クウキなる《徳化》手段によっ
て――しめつける・・・これが 神聖なる教義でしょう)。
 
村における人びとの見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 村々をたば
ねた統一集団として一段高いところからおこなう・見える神との共食(貢税を伴な
うまつりごと)になったという話です。

これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。

11.
《神の代理》を名乗るという要素は シュウキョウ一般に共通です。
 
要するに 一人ひとりがそれぞれその心の内に おのれの神を抱き きよらかなお
それを持ってこれをとうとび人生を生き切ればよいものを いちいちわざわざこの
個人の信仰をおれがおしえてやろう おれの言うことを聞けと言って オシヘを垂
れる。一般には このオシヘという要素があります。

そのオシヘ〔を説く神の代理人〕に対する従順さの度合いに応じて人に権限を分け
与え その集団をヒエラルキアなる組織につくり上げる。こうしてあたかも一個の
国家のごとく人びとに対して君臨する。何の理論的保証や根拠もなく。結社の自由
は 基本的人権なる自由をむやみに拡張しただけではないのか。

11. 
《神の代理》との共食なるマツリゴトとしての共同自治の制度 これは一般に 国
家という形態です。ヒエラルキアないし教会・教団なる組織も 国家のようなもの
です。

信教・良心の自由なる公理をいいことに その宗教組織には政治権力は手を出すな
とさえ言おうとしています。

マツリゴトが 政治と宗教というふたつの国家に分かれただけです。このような結
社の自由とは いかなる意義があるか?
 
国家あるいはヒエラルキア国家は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくこ
とでしょう。捨てられて行きます。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたとい
うわけです。いまはすでに慣性の法則で存続しているのみです。つまり 死んでい
ます。
 
イリ歴史知性の復権 万葉集いや億葉集のルネサンスを迎える未来しか来ないでし
ょう。

いかに?