巫女と共同幻想
巫女と女性と共同幻想――フロイトと吉本隆明
つぎの吉本の議論について (α)から(ε)までの命題をめぐって その内容をおしえてください。
◆ (吉本隆明:巫女論) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
わたしのかんがえでは《巫女》は共同幻想を自己の対(つい)なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が巫女にとっては《性》的な対象なのだ。巫女における《性》行為の対象は 共同幻想の凝集された象徴物である。《神》であっても《ひと》であっても 《狐》とか《犬》のような動物であっても また《仏像》であっても ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは 巫女にとって《性》的な対象でありうるのだ。
フロイトは晩年の円熟した時期の講話(『続精神分析入門』)のなかで《女性》を簡潔な言葉で規定してみせた。かれによれば
(α) 《女性》というのは
乳幼児期における最初の《性》的な拘束が《同性》(母親)であったもの
をさしている。そのほかの特質は男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない。身体的にはもちろん 心性としても男女の差別はすべて相対的だが ただ生誕の最初の拘束対象が《同性》であったことだけが《女性》にとって本質的な意味をもつ というのがフロイトの見解であった。
この見解は興味ぶかく また暗示的である。フロイトにならっていえば
(β) 最初の《性》的な拘束が同性であった心性が その拘束から逃がれ
ようとする
とき ゆきつくのは異性としての男性か 男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも《性》的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしても 男性はけっしてじぶんの《男性》を逃れるために女性に向かうことはありえないだろう。
女性が最初の《性》的な拘束から逃れようとするとき もし男性以外のものを対象として措定するとすれば その志向対象はどのような水準と位相になければならないだろうか?
(γ) このばあい《他者》はまづ対象から排除される。
《他者》というのは《性》的な対象としては男性である他の個体か 女性である他の個体のほかにありえない。するとこのような排除のあとでなお残される対象は 自己幻想か 共同幻想であるほかないはずである。
ここまできてわたしなりに《女性》を定義すればつぎのようになる。
(δ) あらゆる排除をほどこしたあとで《性》的対象を自己幻想にえらぶか
共同幻想にえらぶものをさして《女性》の本質とよぶ
と。そしてほんとうは《性》的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば このふたつは女性にとってじぶんの《生誕》そのものをえらぶか《生誕》の根拠としての母なるじぶん(母胎)をえらぶことにほかならないからである。
たんに男《巫》にたいして女《巫》というとき この巫女には共同性の権威は存在していない。
(ε) しかし自己幻想と共同幻想がべつのものになっていない本質的な
巫女には共同性にとって宗教的な権威をもっている。
そして人間〔史〕のある段階ではその権威が普遍的な時代があったとかんがえることができる。
(『共同幻想論』 全著作集11 pp.102−104)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ これらの命題がよく飲み込めません。
次のように うたがっています。
(α):
1. ほんとうに《拘束》なのか?
2. なぜ拘束と感じるのだろう?
3. 同性どうしの斥力のようなものか?
(β):
4. ほんとうに《逃れようとする》のか?
5. ただ一部の動きではないのか?
6. それは《拘束》というよりも斥力だとしたら 同性に対する部分的な反発のような動きに過ぎないのではないか?
(γ):
7. 他者がえらばれないというのは どうも反発のためには 友や恋人の具体的な存在よりも何らかの《観念》が必要だというのだろうか?
(δ):
8. その《観念》が必要だとしてそれを《幻想》と呼ぶとしたらそれはよいとして それが何故《性》的対象であるのか?
9. 観念を何らかの心の支えとするのは 男も――そうだとしたら――同じではないのか?
10. また 性だけに逃れるとも思えません。つねに《性》的対象なのか?
(ε):
11. 《宗教的な権威》かどうかを別として どうも社会一般にわたる共同幻想をあたかも自己の一身に体現しているかのような人に出遭うことはありますね。要するにナショナリズムの権化というような考えや振る舞いをすると感じる場合です。
12. あるいはそれとも別の意味のことを言っていますか?