caguirofie

哲学いろいろ

#38

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十三章d ふたたび 国家の問題

素粒子なる物体には スピン(回転の強さ)が 1/2(ないし半整数値)のものと 1(ないし整数値)のものとがあると捉えられている。重力を例にして かんたんに言って その媒体となるものは 1のスピン そうでないもの(つまり運動の基体のほう)は 1/2のスピンである。
わたしはいま 推測を――まったくの推測を――するわけであるが 整数値のスピンを持つ媒体(光・ウィークボソン・糊の粒子ら)は 重力と関係があるのではないか。そして この整数値という回転の強さは 個体・主体としての人間の――そして性としては男の――意志に関係するのではないか。女性が この整数値のスピンを持たないというのではなく 性としては女が 半整数値のスピンの粒子の運動を――自然本性として―― になってのように 弱い・強い・および電磁の相互作用の中に位置(運動)していると言えるのではないか。そのような気がする。もちろん これは 当たっていなくともよいのであり 社会的な力学をそう推測して素描してみようというに過ぎない。
社会的な意味での光やウィークボソンや糊の粒子が その自己の回転の強さとして整数値を持つというとき 自己が独立した社会主体であるということである。この独立は 孤立を意味せず 関係世界における独立であり 運動体としての主体である。独立体という意味での原子は 整数値のスピンを持つ素粒子半整数値のスピンを持つ素粒子とから成り立ち――そこでは 性は存在しない(陽子とか中性子とか言っても 性的な意味は存在しない)―― この原子のあたかも分子化・そして分子相互の反応としての種々の社会的な運動は 人として男と女とによって分担されて行なわれる。同じことをおこなうのであるが だから分野・職種などで差別があるというのではなく その行為の表現の仕方が 男と女とで ちがって 従って協働して 現わされるのではないか。表現の仕方のちがいというのは 女の性のばあいでは 時間的なものの管理に 男より一層ふさわしく あたるような仕方が見られる。性から言えば女は その意味で より個人的な観点からの物言い(表現)が ふさわしいと見られる経験的な情況が存在する。
弱い相互作用接触) 強い相互作用接触の中から結合の選択。結合は 男女のそれに無論 限られない。生産=協働 その組織的な結合などを含む) および 電磁相互作用(結合としての過程。家族・会社・社会ないし国家) これを 男はそれら接触・選択・結合の媒体としてのように 女はそれらの基体=実体としてのように そしてその限りで 男が重力(意志・愛)作用を担ってのように――と言っても 意志・愛は 女がそれを男と同じように判断しまた受けとらなくては 成り立たない そう受け留めてのように――推移していくのではないか。
ところが このような四つの相互作用 四つの自己の力の場は その加工されない段階での基本形態として それぞれ社会主体としての男と女との関係を――夫婦ないし家族を――持っていると考えられる。また そういうひとりの人間として この世に生まれて来る。また この電磁場が 加工されてゆく。重力場と関係しつつ 弱い・ないし強い相互作用を営んで 成長してゆく。国家にあっては〔その国家のための〕電磁力は 政治家・芸能人(俳優=わざ招〔を〕き) 強い力は官僚 弱い力は学者であると言った。ふたたび ところが 政治(この場合 市民的なまつり)の光も 官僚(家政)も学問も みな 労働・生産を土台とする家族〔関係〕〔ないし会社および社会の段階までの関係〕の生活に発している。
そして国家は それらの段階よりさらに高い地点から 自分をあたかもこれら四つの相互作用の当事者主体であると見なしてのように 家族(ないし個体)としての相互作用の起発点・基盤と その結果点・電磁場総体とを 転倒させたのであるにちがいない。
基本の相互作用の場 基盤としての家(ないし会社・社会の段階)では 男と女とがそれぞれの〔表現の仕方としての〕役割を分担してのように 重力場とも 生(なま)のかたちで 関係していた ところへ これら相互作用の綜合的な構造の中で 転倒をはたらかせるのであるから――あるなら―― おそらく重力を 落下の法則に上昇の法則をもって替えてのごとく その方向として転倒させたにちがいない。
人が余剰を生産して豊かさを保証しようというのではなく 余剰が人を豊かにする 余剰の所有を措いて人は主体ではないのだと考える 逆転した或る種の生活様式が登場したのとつれだって。
国家による社会の共同自治においては 重力の法則が 上昇志向となる。もしくは 人を見下ろすような視点へ 自己の重力(意志)を持ち上げていく。おそらくこのような重力場では 国家の為政者が 社会的なまとまりの媒体であると自己を見なして 自分の回転の強さが 独立主体性たる整数値(性としては 男)をとるのだと言ってのように そうでない一般大衆は 半整数値のスピンを持って言わば女の役割を果たすのだと見るのにちがいない。
またこの役割は 既存の分担形式が 具体的な職業などとして 固定していくのであるにちがいない。一般大衆が 総じて連れ立って 女性の役割を担ってのごとく 時間的なものの管理にあたるのだというふうにである。その中での職業の固定あるいは流動は 相対的なものと見なされる。
電磁相互作用は 幻想場であった。重力場の上のような変身は 電磁場が担ったものにちがいない。言ってみれば 性倒錯の幻想場を 人びとは共同〔自治の掟〕とするにちがいない。また 現代の女性解放の動きは この流れの中に位置するのにちがいない。別に同性愛化を言うのではなく 男も女もその個体の中に持つ1のスピンの素粒子と1/2のスピンの素粒子とを ちょうど取り替えてのごとく それらの働きの方向や性格を入れ替えてのごとく 社会力学〔的な役割分担等〕を 国家的な幻想の場の形態に変え この化け学総体の場を運動・生活の場と考えるようになったのにちがいない。


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(つづく→2007-05-24 - caguirofie070524)