caguirofie

哲学いろいろ

#13

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第四歌 女性を歴史の共同相続人から排除しない

第一章第三節の構図では やしろ資本推進力なるセヂの《お通し神》は 火の神だとしてかかげた。
この火の神は そのまま 火 Fï / Fö (特に かまどの火)であり 日 Fi ではないと思われるが それによって 太陽=てだ(照ら)が連想されなかったわけではなく この点 セヂの力の構造的な成り立ちといったようなものの中に これらがどのように位置づけられるか 注目しておいてよいと考える。
だが ここでは 太陽神(あがる辺の大主;神てだ;おぼつ(天・空)せぢ;かぐら(神座)せぢ;てるかは;てるしの etc.)を 憑依的な呪術心性の中で捉えることからは すでに遠ざかってよいであろう。つまり 上のような表現例は すでに この太陽を見て 見た太陽をとおして 現実のセヂ関係の共同主観が思われたのだと――すでに視座を転換させて――読み替えておく。だから 太陽が セヂ関係の中に 日の神として表象されるような信仰が 復位することはありえない。まず こうはっきりと捉えておくことができる。
同じくまた セヂ関係の中で 上の太陽(てだ)ないし天(おぼつ・かぐら)が 空間的に言って 垂直の座標において 表象されたとするなら その平面的な横の座標において 海のかなたの地という意味で 《にるや・かなや(ニライ・カナイ)》も オモロの世界では おもわれている。現在にも 受け継がれている。だが これについても 同じだとしたい。
《毎年 にるや・かなやから神が渡来して 幸福をもたらすという伝承および信仰》のオモイは 《神々の住む海のかなたの楽土・理想郷》という観念には すでに焦点はないとはっきりさせておこう。つまり 現実の聞こえ大君の観念の資本制の中で その同じセヂ関係が 表象としては そのような天ないし海のかなたへと 空間的にオモイが逃げて行ったのだと考えられる。昔からあったそのオモロが その意味で・その時点で 復位したと考えられる。やしろ資本推進力(これが セヂである)は むしろ逃げるのなら その避け所は やはり自己であり その共同主観であり つまり セヂ関係そのものであるだろう。逃げる必要がないとも言える。
ここで 火の神(つまり セヂ諸連関が かまどの火〔つまり 生活〕とともに 思われるというときの火の神)と 日の神との結びつきについて注目しておこうというのは 次の要領においてである。 


ところで セヂの仮象的な象徴アマテラシテとして立つ聞こえ大君のオアラオリ(即位式)のとき 一つに ウビナデという儀式がおこなわれる。

聖水を司祭者が聞得大君の額につける。浴びることと同義であろう。聖水の生命力による再生がウビナデであり ここで聞得大君は俗人から他界の存在へと新しい身分に転換したことになるのだろう。
(3・2)

巫女の文化 (平凡社ライブラリー)

巫女の文化 (平凡社ライブラリー)

と言われる。そうして 倉塚は この著書で この《聖水》が 沖縄での天人女房(《天の羽衣》の天女)の伝説・信仰に由来するのであろうと説いている。われわれは 結論を先に言ってしまえば――つねに そうするのだが―― この聖水(水の神の信仰とも言える)が セヂ信仰の成り立ちの中で 火の神が日の神と結びつく一つの契機ではないかと考える。日の神(天・天女)が 水の神(天女が水浴びする・ウビナデ)とつながって 火の神(生活;天女が或る男の女房になる地上の生活)をとおして セヂ関係(やしろ資本連関)の中に位置づけられるのではないかと言おうとしている。
《アマクダリした天女が 水浴の間に羽衣を盗まれて天に帰れず しばらく人妻となって暮らすうち 羽衣を探し出してアマアガリする》というのが 羽衣伝説また沖縄の天人女房神話であるが いま くわしい話の内容を端折るなら 中で 《井泉で水浴する天女の飛衣を男が見つけて隠す》というときの《天女の水浴》という要素に注目しなければならない。
倉塚によれば いま火の神を措いて考えるのだが このとき

南島の生活に清水がいかに貴重であったかはいうまでもない。村建ての第一歩は適当な湧水を探し当てたり掘ったりすることから始まった。村の共同井泉またそこに祀られた水の神は 厚い信仰の対象であった。天女にゆかりがあろうとなかろうと変わりはない。琉球では子が生まれると 自家の井戸ではなく これら村の井泉の一つをその子のために産井(うぶがー)(また親井=うやがー)として選定する風習が奄美から八重山までひろく行なわれてきた。
琉球では井泉をカワ カーとよぶ。一旦 産水がきまると正月の若水汲み 川御願(かーうがん)ほか水に関する年中行事には必ずその泉の水が使用された。五月穂祭あるいは収穫後の農耕暦の折り目の頃に聖泉を拝み一族の健康あるいは村の繁栄や豊饒を祈願するのが川御願である。一族を代表する女性が聖泉の水を浴びた上で水神を祀るところもある。奄美のシロミズ浴み 八重山与那国島の新水(あらんみでい)の行事などである。前者ではこの女性を迎えて一族がサカ迎えをする。これは再生した者を迎える儀礼である。また後者では 生(ま)れ替わりともよばれる。
(倉塚曄子:巫女の文化 (平凡社ライブラリー)1・2)

そこで問題は いま述べきたった話を綜合するとき まず セヂの源として――観念的にしろ 或いは 原始心性においてにしろ――表象されるオボツ・カグラ(天)また 二ライ・カナイ(海のかなた)が ここで 《天女(もちろん 想像上だ)》というように 人格(精確には 神格であるかも知れない)の動きの中に捉えられていることであろう。いま そのような関連を 想定することにする。つまり 天女の水浴にひっかけて 水神・聖水つまりウビナデが思われているということだ。(あるいは その逆かも知れぬ。)
じっさい ウビナデをおこなうのは 上に見たように 聞こえ大君のオアラオリ(つまり 降りは 天女のアマクダリが連想されているとして差し支えないであろう。そうでなくとも もともと セヂの降臨が 天からということが問題なのだが)の際にだけではなく 火の神(かまど)に仕えるコデ(主婦)が また赤児の誕生時にもそうするというように 日常的に(もちろん 節目において)だと報告されている。
その象徴(このばあい お通し神)が火の神=かまどであるところの現実のセヂ関係が 日の神(アマクダリ)・水の神(ウビナデ)をとおして とりあえず一つの構造を形成しうるであろうということ。このように 回りくどい関連の仕方を想定しなくともよいかも知れないが そのような現実のやしろ資本連関における拡がりを考えることができる。
問題は一つに このような火の神あるいは日の神・水の神などが表象されるオモロ構造の中で これらが原始心性の世界にとどまらないとするのは その動機が 《再生した者を迎える儀礼。生まれ替わりともよばれる》という動態――風俗としては その観念的な表象であるが――にあることのように思われる。
このような神々のひろがりとつながりを捉えようとしたのは 《火の神‐日の神》連関が 《スサノヲ(こで・かまど)‐アマテラス(聞こえ大君・按司添い)》連関と対応するであろうことを言うためであるのだが もう少し上の一つの主題に沿って ここでは論議しておきたい。

これらの儀礼にかかわるのが女である点 この水が母から娘へと継承されている点(――新水を汲む香炉およびその泉あるいは水神の祭祀がそのように継承されるなど――)は 琉球の天人女房の意味を考える際に特に重要である。
天女が水浴をきっかけとして人間の妻となり女子を生むことと 女が聖泉の水をあびて生まれ替わる習俗とはまさしく重なり合うからである。
なお川御願(つまり 水と天――引用者)が地方によっては穂祭り(つまり 稲穂は 火の神=かまどとつながっていなければならない。自治態勢における祭り)と結びついていることも見過ごせない。
(倉塚曄子:巫女の文化 (平凡社ライブラリー)1・2)

わたしたちは このように 女を歴史の共同相続人から排除しないということは このセヂ関係が 動態であり 動態でしかなく それは 《ゑけ あがる辺のみづかわ / ゑけ 咲い渡るの桜 / しけしけと 降り差ちへ / 今日よりあいいてるむ》(巻十・531)と言うように 生まれ替わる 変化する 再形成( reformation )される 回転( revolution )する あたかも前史(母斑の世界)から後史(母斑の世界へ寄留しつつ それを主導するやしろ資本主体) へ移行すると宣言しようとしている。それ(後史の共同主観セヂ関係)は いまここで ただちに天女(天使)となろうとすることではなく また 前史母斑の世界に絶望することでもない。自己のセヂに避け所を求め 生まれ変わるということだ。もちろん そのとき 女性が差別され ときに犠牲になってきたように 自己のセヂにおいて あの弱い者のためいきをついてもよいが 日の神や水の神に憑依して オボツ・カグラや二ライカナイの世界へあくがれ(つまり 自己を離れるようにして) 聞こえ大君のオモロを アヘンのように飲んで酔いつぶれてしまってはならない。
スサノヲ・キャピタリストとしての現代の聞こえ大君(つまり 政権政党)は 義理・人情なるセヂの力また関係に厚い愛し金殿であるというのが 価値自由の認識であり ここに 動態があることでなければならないであろう。もっとはっきり言うと もっぱらのアマテラスであると考えられる自由民主党は 性倒錯したヒミコなる聞こえ大君つまり 観念の資本としては女性であるから この女性を 歴史の共同相続人から排除してはならないということだ。
《これら(日の神・天女・水神――そしてそれらは 火の神が基調となっている――)の儀礼にかかわるのが 〔沖縄では つねに〕女である点 この水が母から娘へと継承されている点》が 日本のマツリゴトの世界では 男がこれをおこなってきたように思われる。また 男がやってはいけない法はないのであるが さか立ちして 倒錯しておこなってきたように思われる。むろん女の責任でもある。
またあのマルクスが かれは充分にこれを知っていて その知恵によって観念の世界を頭からアヘンだと言ったとしたなら またそう言ったと思われたとしたなら かれにも責任がある。かれは 母斑の世界が少なくとも一般的に ただちに乗り超えられたとは言っていないのだから これは 不当な批判であるかも知れないし また 不当でないかも知れない。ただ 動態は ほんとうには 前史から後史へ――ウビナデによって 生まれ変わるというように――であるのに かれは 前史から本史へ つまり あたかも生まれ変わると天女や天使そのものになると取られかねない表現をした。このオモロは アヘンである。
政権政党の人びとは このことを充分に知っている。知っていて 実はその呪術心性を免れている。頭では充分 承知していて まぬかれている・そして自由である・すぐれて義理人情なるセヂの力に厚いと思っているが 実際には その身体を空気のようなものとなし 性倒錯をおこない ただ是が非でも選挙なるウビナデ・ミソギを通過したなら 母斑の原始心性から生まれ変わったと信じつつも 実は性倒錯をおこないすでに聞こえ大君なる天女になってしまっているのではないだろうか。このオモロ構造は 危険である。それと知らず もしくはそれとしてはっきりした形の表現(認識)を取らずに 一個の観念の資本の円環のようなものの中で ぐるぐる回って 《降れて 遊びよわり 天が下 平らげて ちよわる》やしろ資本主体のありようであるからだ。
性倒錯の問題 そして 《火の神(S)‐日の神(A)》連関について 次の歌で考え続ける。
(つづく→2006-10-01 - caguirofie061001)