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哲学いろいろ

アダム・スミス

(1) 同感(sympathy)という仲間意識(fellow feeling)。または 共同主観(common sense)。
 わたしたちは 他人をも幸福な人間として もしくは 幸福であるべき人間として 愛し 接すると言う意味らしい。(愛するというのは 生きる・共存するというほどの意味である。)

(1−1)同感は 《合意ないし同意》に 発するか もしくは 現われる。

(2) 《われわれが必要としている相互の助力》がある。これは 《必要ないし必然》という点で 特には 経済的なモノ・コトを言っている。

(2−1)この《相互の助力の大部分をたがいに受け取りあう》のは 同感によって成り立つ経済的な行為にほかならない。

(2−2)これは 基本的に 《合意ないし契約》にもとづき 《交易・ 購買》等として 現われる。

(3)この《取引しようという人間の本性上の性向》の発現によって 《分業》が形成されていくという。

(3−1)ある人の卓越した技術が 専門的なものとなっていくことに 人びとが同意した。

(3−2)このとき 分業のもとでの専門化は 自分の利益にもなり 他の人びとのためにも役立つと考えられた。つまり 社会的な分業は すなわち 社会的な協業である。

(3−3)《自分自身の労働の生産物のうち自分の消費を超える余剰部分 の交換》という考え方および事態。

(4)分業の発生したあとの時代をつうじても 《わたし》という同感の主体が存在する。 

(4−1) 同感という仲間意識は 博愛心でもあるが それは 固有に(=適宜性において)《わたし》の博愛心であって 《わたし》を言うときには 幅広いかたちの自愛心が 介在している。

(4−2)分業形態における同感の適宜性ないし有効性は 重心が 博愛心から自愛心に移ったと見られる。と同時に 自愛心――しばしば利己心――のみによって成り立つものではないだろうと考えられている。ちなみに 自愛心=利己心の優勢になった情況に対して 同感の宣揚そのものによって どうにかしようとするというのでもない。それだと それは ある意味で原始心性に戻ってのような宗教的な仲間意識=博愛心 という幻想となるであろう。

(4−3) 自愛心をとおしての同感関係は 価格を用いて社会的に協働関係することへと 帰結して来た。これが 便宜的にでも適当だろうと議論される。

(4−4)《見えざる手に導かれて》というのは ここで 同感行為を超えたことがらである。《わたし》という主体の力を超えている。その限りで 直接には 論議の対象にならない。

(4−5)《社会の利益のために》というのは 同感のなかでも 特に博愛心の具体的なありかたとして 言っているのであろう。そして 《人のため 自己の利益を含めた人の利益のため》のことだとすると しかしそれは むしろ《自愛心》とそれほどちがわない。けれども 有効性は 博愛心という観念(ことば)そのものの思い込みによるのではなかったゆえ 自愛心とそれほど違わないところの博愛心も このゆえ しりぞけられている。

(4−6)ややこしい言い方だが 言いなおそう。もし 《見えざる手によって 社会の利益の増進へ 導かれる》ことを いまの議論の中に入れるとすると――ということは 《見えざる手》を《見える手としての人びとの同感行為》が部分的に実現させているとすると―― 自愛心と博愛心とは 盾の両面であることになる。もしくは 象の鼻と頭とであることになる。

(4−7) となると 《自分自身の利益を追求するほうが 〔総体的な〕利益を増進することがしばしばある》のは 《自愛心の発動に対する同感の主体どうしの過程的な・構造的な了解関係》そのものをやはり言っている。そして 自己の利益の追求が どう有効なのか その何が有効となるのか これは じっさいにはスミスの《当面の研究主題の中には入っていない》。

(4−8)分業発生の以後の時代において 乞食ですら同感の主体たる《わたし》となったこと そしてそのとき自愛心を介在させていること これらのことと 《何がなんでも自己の利益を追求せよ》とは 互いに 実質的にはそれほど 離れていないけれども 別である。そしてスミスの見解では このことが あやふやである。《見えざる手に導かれて》という条件句で 処理している。

(4−9) ところが――というか したがってけっきょく――問題点は つきつめていえば 《自分自身の利益の追求の仕方》に 帰着する。そこで人びとが 同感をどのようにはたらかせるか これは 依然として なぞのごとくに 課題として残っている

(4−10)重複をおそれずに整理すれば 《分業以後の時代》では 《〈わたし〉という個体的な存在が一人ひとり 同感の主体である》のだから やはり 《一般に 自愛心が 同感行為には介在する》そのとき 経済活動として言えば 一方で 《自分自身の利益を追求せよ》 他方で この《自分自身》とか《その利益》とかあるいは《追求の仕方》とかは まさに――《見えざる手に導かれる》かどうかを別としてさえ―― 人びとの同感行為の対象となって つねに過程的に判断され 自由にあらそわれ 推移してゆく。スミスは こう言ったもののようである。社会生活という基軸が打ち出されているように思われる。

▼ (ヰキぺ:無意識) 〜〜〜〜〜
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§ 5 広義の無意識

フロイトユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。

しかし、無限定に無意識を述べることは、個々人の主観的な把握になり、またトランスパーソナル心理学における無意識もそうであるが、あまりに仮説的要素の大きい無意識は、実証性がますます困難であり、疑問となる。サブリミナルも、何を意味する概念なのか、不確定要素が多すぎる。主観的要素や解釈があまりに大きなそのような言葉の用法や概念については、疑問があると言うべきである。
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