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哲学いろいろ

神の《二性性相》とは いったい何のことか?

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▲ (統一原理を学ぶ会) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
http://www.7roid.com/ucgenri/sozogenri_001

第一章 創造原理
第一節 神の二性性相と被造世界

(一) 神の二性性相

▲ 1. 無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。
☆ 《無形》だという規定についても 説明せねばならない。

▲ 2. それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。
☆ 次にパウロの見解が引かれているが いづれにも論証はない。

▲ 3. そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神
性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるか
らである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録してい
る。
☆ 旧約の時代にあって 預言(予言でもある)が成就したことは 失敗したこと
もあるのだから 必ずしも理論としてみとめられるわけではない。

主観の内にあって われ神を見たりという言い分は それなりに――つまり その
人の主観内部のこととして――みとめられる。反証のしようもないのだから。それ
だけにとどまるものだ。

▲ 4. あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開である
ように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実
体対象として展開されたものなのである。
☆ この例証は しばらくあとになっているようだ。

▲ 5. それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この
被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
☆ きわめてえげつない反論をするなら 被造物の世界をみれば 神の神性と同時
に悪魔性もが見えるという声もある。




▲ 6. 今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通
の事実を探ってみることにしよう。
☆ これから 論証するらしい。
▲ 7. 存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内において
ばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶこ
とによって、初めて存在するようになるのである。
☆ だまって次に移ろう。

▲ 8. これについて実例を挙げてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要
素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中
性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成
するのである。
☆ だから?

・・・(中略)・・・

▲ 9. このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相対的関係によ
って植物または動物に吸収されて、それらの栄養となるのである。
☆ まづ モノから生物(生命)が出来てきたところを明らかにして欲しい。

▲ 10. さらに、・・・人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造
されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二・18)と言われ、その対象
として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一
・31)と言われたのである。
☆ 創世記の一章の記事と二章のとを同じこととして扱っている。

▲ 11. さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電
子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌も
また、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことに
よって、初めて存在することができるのである。
☆ 生命体には 単性生殖もあるとか。

▲ 12. したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性
性相が各々潜在しているのである。そればかりでなく、森羅万象の存在様相が、
表裏、内外、前後、左右、・・・などのように、すべて相対的であるのも、あら
ゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造され
ているからである。
☆ 単に移ろいゆかざるを得ない有限性や相対性 あるいはつまり 経験的(時
間的)存在性を言っているに過ぎないと思われる。

それに性差は ことに人間性にかんしてみれば 両性ともに人類の共同相続人で
あって 何か特別の意味を持つとも思えない。神の神性がそこにのぞかれるとい
う問題になっているとは思えない。

▲ 13. 以上の記述によって、我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性
性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。
☆ 相対的関係は 限りある可変的な存在にとっては その自然本性として当た
り前である。同性どうしのあいだにも 相対的関係が成ること 当たり前の話で
ある。

▲ 14. さらに、我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま
一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。
☆ ひょっとして神の見えない神性は この二性性相にあらわれていると言うん
ぢゃないだろうね? 何のこっちゃ。


▲ 15. 存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、
その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたも
のである。・・・そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、
性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、・・
・これらを総合して、二性性相と称するのである。
☆ だから?

▲ 16. これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人
間は体という外形と心という内性とからできている。そして、見える体は見えな
いその心に似ているのである。・・・観相や手相など、外貌から、見えないその
心や運命を判断することができるという根拠もここにある。・・・
☆ ここで打ち切りたいのですが 趣旨のまとまるところまでは 進まねばなら
ないかも知れない。

▲ 17. それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。・・・あ
らゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているとい
う事実を、我々は知るようになった。・・・

▲ 18. ・・・更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているその
エネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となる
ところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。

▲ 19. この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらす
べてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。
☆ とは限らない。忖度に過ぎないから。

▲ 20. 存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相
と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。
☆ 神の神性に《性相と形状》がなくても もし第一原因ならば それを被造物
において作ることができるはずだ。

▲ 21. 我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見
られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主
体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。
☆ 聖書によれば:
△ (ルカ福音 20章:神に性はない) ~~~~~~~~~
20:34 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりす
るが、 35 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、
めとったり、とついだりすることはない。 36 彼らは天使に等しいものであり、
また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないか
らである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《二性性相の中和》ということは 両性が存在していてそれらを中和すると
言っている。そうではなく 中和する必要がなく 性を持つ存在なのである。も
しくは 《天使にひとしく》性から自由なのである。

▲ 22. 創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、
神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記録されているみ言を見ても、
神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明ら
かに分かるのである。
☆  これは そうではなく 神による人の創造は 男女両性なら成るヒトとし
て・しかもその差を超えた存在だと言うのである。《人》→その内訳《男と女》。


▲ 23. 神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であ
エバを創造されたと記録してある・・・(創二・22)。我々はここにおいて、
神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
☆ つまり ヒトの創造は ふたつの記事があり このニ章は たしかに先の一
章の記事とは違って 男女両性には互いに現象として差があること――その良し
悪しは いま別として――を語っている。

だからと言って 天使にひとしい存在に実質的な性差がないとはっきりしている
だけではなく 神の子らのあいだに いちいち中和しなければならない問題をは
らんだ性差があるとは 考えられません。ましてや 神の神性においておや。

創世記《 一:27 》とそして《 ニ:18-24 》の両方の記事で 人間の存在のあり
方が語られている。性差のある現象と性差を超えた共通の人間性とが両立すると
いうことだ。

もし言いたいのならば 神の神性は 《性差を超えた共通の人間性》というとこ
ろに見えるのかも知れない。