caguirofie

哲学いろいろ

#20

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その二 シワ゛の歴史的展開としての《スサノヲ(シワ゛)の世紀》
§19b

そこで この《対話》の中から《その二》の全五句を いまここに引用することにしよう。それは 体制の第二次的形態の危機とも言うべき情況を示している。

インドラとマルト神群とアガスティア仙との対話・その二
一(アガスティア) 今もなし 明日もなし。誰か稀有なることを知る。他人の意図に従うの余儀なき〔場合あり〕。しかして予想は毀(こぼ)たる(裏切られる)。
二(マルト神群) 何ゆえに インドラよ 汝はわれらを殺さんとする。マルトらは汝の兄弟(はらから)なり。かれらと正(まさ)しく和解せよ。われらを闘争において殺すなかれ。
三(同上) 何ゆえに 兄弟なるアガスティアよ 友たる汝はわれらを軽蔑するや。われらは実に知る 汝の意(こころ)のいかなるかと。汝はわれらに何ものをも与えんと欲せず。
四(アガスティア) 祭壇をただしく設(しつら)うべし。祭火を前方(東方)に点ずべし。そこにわれら(アガスティアとその伴侶)両人は 不死なる汝(インドラ)のため 異彩を放つ祭式を執行せん。
五(同上) 汝は財宝を支配す 財宝の主よ。汝は契約の最も勝れたる締結者なり 契約の主よ。インドラよ 汝はマルト神群と和解せよ。しかして時を違(たが)えず最初に供物をきこし召せ。

以上が 《 Marut - 〔 Visnu(アガスティア仙人)-〕Indra 》の鼎立関係の破綻ともいうべき両者の一時的不和をうたった箇所である。それに対しては 西欧の系譜の中での特にA.スミス以来現われたような経済学による社会体系の解剖――インドラの社会的形態としての資本の内在的分析――が欠けると ただちに指摘することはできる。ただ今は 出来る限り アジア的社会形態の神的世界(祈祷じたいの世界)に即してこの点に考察を加えることも意義なしとは しない。そこで 以上の《その二》にうたわれた情況を 社会形態的に捉え 命題のかたちで述べていくとするならば 次のように考えられる。

[α]5. 《 Brahman / Visnu - Siva 》体系のそれぞれの構造的契機の 総合的な社会的結節点としてのインドラは 〔シワ゛=〕マルト神群との結節に関して その決裂を孕むものである。
6. ただし この《 Indra - Marut 》関係の決裂は 西欧の系譜におけるような インドラの自己分裂(つまり 商品形態における 労働行為価値と 貨幣価格とへの分裂)を介するものとは 必ずしも 見られていない。
7. 〔すなわち前項の点は 一面で〕アジア的社会形態においては むしろ インドラはインドラのままで 政治学主体ヰ゛シュヌ《たとえばアガスティア仙)をあいだにはさんで もっとも基本的な・おのれ(インドラ)の生みの親であるマルト神群と対立しながら 進む。

  • インドラとマルト神群とは 《讃歌》では 《兄弟》と呼び合う友としての関係である。

もし そこで この[α‐6&7]をさらに進めて解釈するなら むしろ これらの命題の前提として 次のような点が あらたに得られるであろう。

[α]8. アジア的社会形態においては インドラが インドラ(その総体)として そのまま 初源の生産行為〔者〕=経済価値〔形態〕から 初めにおいて 外化されるし 外化されている。
9. 〔言いかえれば〕 マルト神群は 社会総体的に 《〔あたかも集合的な〕経済主体(つまり その関係総体)》として および インドラは かれらとは別個に やはり社会総体的に 《〔集合的な〕社会経済価値》として それぞれ ある。むしろそのような形式が 《 Marut - Indra 》関係としても 実存的であると考えられている。

  • その限りで アジア的なインドラは おのれの自己分裂=《労働行為かつその価値の 二重性》に なじまない領域を持つ。あるいは 分析的に――分析的に――見れば 総体的な奴隷制だと捉えられるほどであった。

これらとの対比の上で 従って 西欧の系譜においても あらたな命題を得る。

[ε]6. 西欧的社会形成態においては 《政治主体=政治学主体》という広義の生産行為形式を取るかぎりで 《政治学主体=経済学主体》は つねに 独占的・排他的に インドラ〔を領有する〕側にあると見なされる。

  • これは 意識=意識としての現実=所有権の体系としての生活関係 においてである。

7. 〔従って〕
{〔《 Christ 唯一顕現神》 / 《 Indra = Visnu = Marut K 》-《〔 Indra =〕 Marut L 》}
という経済的社会構成の一段階は その社会体系じたいが 歴史的な自己形成過程において 両者の社会的分裂を統一させるようにして展開すると主張される。その終局的なかたちとしては 《 Marut L = Visnu = Indra 》〔= Christ 〕なる基本的形態の像を描くことへと進む。


ここでの(つまり 純粋政治学での)主張は 命題[α]の《6〜9》が アジア的共同観念の幻想慮生きを担うとするならば 命題[ε]の《7》も 同じようなかたちにおいて 西欧的共同主観のその神的世界を形成すると見る点にある。結論として言うならば 前者は 社会形態的に優れており そのように《共同体関係》を担うであろうと思われる。および 後者は 個体的に見て優れており そのように《市民ないし二角関係かつ対(つい)関係》を促すであろうと考えられる。これら両者のすぐれたところが 現代においては 総合的に統合される方向へ発進しうるかが問われる。一般的に言って その模索の段階にあるだろうと考えられる。価値自由性のむしろ無限性 および 価値論のむしろ有限性は それぞれ 《共同体関係‐二角関係》のおのおのの次元を 互いに交差させて そのように互いを総合すると見るのが 妥当であるだろう。

(つづく→2008-09-11 - caguirofie