caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その二 シワ゛の歴史的展開としての《スサノヲ(シワ゛)の世紀》
§17

婦女のごとく身を飾り 競走の聯獣〔に似て〕いとも驚くべき勲業(いさおし)に富むルドラの子ら(マルト神群)――マルト神群は実に増大せり―― [これらの]勇士はいさみたち 祭祀の場において陶酔す。
(《マルト神群讃歌・その二》第一句

これは 《讃歌・その二》の第一句として言わば 第二次形態の初発の祈祷をなすものである。そこで この句に現われるように ここでは再び この《祭祀の場(ヰ゛ダタ)》を 中心にして 当面の課題である《スサノオの世紀》を捉えようと思う。また ここでは その過程として ひとつの大胆な仮説を展開しようと考える。
それには まづ 新たな一神インドラを登場させる必要がある。新たな仮説(その一契機)とは このインドラ神に関してということになる。
もっとも ここで この神は すでに引用した讃歌の中に 間接的に いくらかは出ている。そこで 記述の句も含めてこのインドラが これまでの主なる三神である マルト(シワ゛)・ヰ゛シュヌおよびブラフマンとの それぞれの関係において歌われた詩句を まとめて掲げることから始めよう。議論の展開において 重要な 命題を指し示していると思われるからである。

《 Marut - Indra 》連関として

   マルト神群よ インドラと共に 心を一にして 黄金の車に乗り われらが幸福のために来たれ。
 (マルト神群讃歌・その三 第一句)

《 Visnu - Indra 》連関

   汝ら両神(インドラとヰ゛シュヌ)の住居のあるところに われら到らんと欲す 角(つの)多く・弛むことなき牛群(おそらく 星の群)のあるところに 実にそこに 牡牛〔なす〕・濶歩の〔神〕の最高歩は 光ゆたかに下界を照らす。
  (ヰ゛シュヌ讃歌・その一 第六句)

《 Brhaspati ( Brahman ) - Indra 》連関

(1) 汝ら両神(インドラとブリハスパティ)にとり一切は実現す 寛容なる両神よ。水すら汝ら両神の掟を冒さず。インドラとブリハスパティよ われらの供物にむかいて来たれ 軛を共にする二頭の勝ち馬が食物に向かいて来たるがごとく。
 (ブリハスパティ讃歌・その二 第十二句)
(2) ブリハスパティよ インドラよ ともどもにわれらを強壮ならしめよ。汝らのこの好意は われらに実現されてあれ。われらの詩想を支援せよ。豊かな霊感を目覚めしめよ。部外者・羨望者の敵意を衰滅せしめよ。
  (同上 第十一句)

  • なお 今後は 徐々に 図式の中では 原語で表示しようと思う。その方が 記号として 了解に便利だと思われる。

さて このようにして インドラは まづ 《シワ゛ Siva‐ヰ゛シュヌ Visnu / ブラフマン Brahman 》構造の おのおのの社会的契機(つまり神として)に それぞれと共に実存すると言える。が この神インドラとは 何を示すだろうか。これが当面の課題である。
いま このインドラを解明するにあたって そのためにも 一度 これまでに捉えた体系を 簡単に図解しておくのがよい。次のようであるというのが アジア的社会体系の概念的理解である。

Fig.A-1 アジア的社会体系の概念
社会形態 唯一非顕現形態 顕現形態
古事記 (《渾沌》) アマテラス‐スサノヲ
Rg Veda Brahman Visnu‐Siva
社会主体 祈祷・brahman 政治学主体‐政治主体
天則・rta//ウケヒ 経済学主体‐経済主体
歴史主体 祭祀の場 アジア的公民‐アジア的市民および資本家的市民
vidatha citoyen‐homme;bourgeois
形態1 { Brahmanapati〔-Indra〕/ Visnu〔-Indra〕‐ Rudra〔-Indra〕}
(変容) ↓             ↓          ↓    
↓             (Sipivista)  (《自律の神》)
↓             ↓          ↓    
形態2 {《 Brhaspati-Indra 》 /《 Visnu - Indra 》-《 Marut - Indra 》}
(変容)  ↓            ↓          ↓    
形態3   ?            ?          ?    

インドラについて 初めに やはり その神的世界における・または自然形態としての(つまり初源の)概念を捉えるのが 便宜上もっともよい。例によって 辻直四郎によれば

インドラは

  リグ・ヱ゛ーダの神格中 最も鮮明に擬人化された英雄神で 全讃歌の約四分の一を独占している。本源の自然現象は明確でないが リグ・ヱ゛ーダの描写に関するかぎり 雷霆神としての様相が最も顕著である。神酒ソーマを痛飲し ワ゛ジュラ(金剛杵=電撃)を揮って 蛇形のヴリトラ(《障碍》)・ワ゛ラ(《洞窟》)その他の悪魔を退治し 人界に待望の水と光明とをもたらす。詩人はその恩恵と寛仁とを称えて倦むことを知らない。しかしこれらの神格の根底をなすのは 天地創造のそれであると考えられる。インドラは帝王の風格を備えて部下の祭官に讃歌を唱えさせるばかりでなく 自信も司祭の職能を発揮して讃誦に参加することがある。ワ゛ルナ〔神〕が真実・道徳の方面に君臨して畏敬の対象となっているのに対し インドラは武勇の方面を代表し 豪放な戦士の面目を示して親しむべき半面をもっている。ただしイランにおいては ザラトゥシュトラ(ゾロアスター)の宗教改革の結果 悪魔の列に落ちた。
(辻直四郎)

そこで 次にわれわれが 社会的形態としてのインドラを考察するにあたって 上に引用した自然形態としてのインドラの解説は 実は そのすべてが  重要な意義を有すると思われる。初源的には ギリシャ・ローマの神的世界における・〔雷霆神としての〕ゼウス・ユピテルを想起させるが いまさしづめ 社会的形態としては おおきく二つの視点から捉えることができる。一つは アジア的社会形態じたいの中で 一つは 西欧の系譜におけるそれとの対比の上で ということができる。
先に 後者の視点から捉えてみよう。それは 上の解説の中の最後の一文による指摘と関連する。つまり いまわれわれの前には まづアジア的社会体系があり その遠く向こうに西欧的社会体系が望まれる。そしてちょうど その間に 一つには このザラトゥシュトラ(前660〜583)の宗教〔改革〕体系が――社会体系の一つの原型として――存在するという俯瞰が得られるからである。ここからは どういうこが つかみうるか。要約していえば 次のようであろう。
まづ逆に 向こう側の西欧の系譜には 言うまでもなく 唯一顕現神の弁証法過程‐救済体系‐黙示の世界があり 手前のアジア的情況には 唯一非顕現神の顕現形態としての二元論体系‐非弁証法的・非救済的・非《ゆるし》的体系‐《例示》の世界があり そしてちょうどその間に これら二つの体系を それぞれ部分的・類型的に仲介するべきとも言い得る宗教体系としての一社会体系 すなわち ザラトゥシュトラの宗教(マズダヤナ)が存在し それは たとえば ちょうどこの《インドラ神》の存在を介して 興味深い基本的な点を語っていると思われるのである。
インドラ自体については ふたたび後に回し ここで ザラトゥシュトラの宗教(エートス・ならわさいとしての社会体系)を 上記の関連の中で 捉えておきたい。端的に言って それが 一方で 《光と闇》という二元論体系であり 他方で しかも 終局的には 《光の神》による《暗黒の神》に対する勝利という弁証法過程‐救済体系‐黙示の世界をも持つものであることが分かるあからである。(たとえば 足利惇の『ペルシャ宗教思想』[rakuten:book:10207899:title])。
ザラトゥシュトラ宗教の 前者の局面は 始原的に言って 《光の神アフラ・マズダ》が 天照大御神に 《暗黒の神アングラ・マイニュ》が 根の堅州国(黄泉の国)を代表する意味での建速須佐之男命に それぞれ対応すると言ってよいからである。
一般に 社会形態的に言っても アフラ・マズダは 《最上の天則(リタ) Asha Vahista 》 《望ましき統治 Khshathra Vairya 》 《不死(それは 個体および共同体の)Haurvataat 》などを表わし つまりそれらは 端的に アマテラスに共通であり それらに対して アングラ・マイニュは 順次 《インドラ Indra (つまり ここでは インドラが 天則を犯すところの背教の悪霊と見なされる――この点 重要である――)》 《失政・酩酊 Saurva 》 《旱魃 Taurvi 》などを表わす。従って これらは イヅモの国に落ち着く以前の《天つ罪》を犯すスサノヲに共通である。このように考えられるからである。
いま詳しい傍証を俟つというよりは 概念的に言って このように始原的な意味でも社会形態的にも ザラトゥシュトラの《アフラ・マズダ‐アングラ・マイニュ》連立体系(その一局面)は わが《アマテラス‐スサノヲ》連関体系と通底した〔政治〕領域を持つと考えられる。ただし 念のためつけ加えるとするなら いまわれわれが行なっていることは 比較宗教的な考察じたいではなく あくまでそれは 《黙示》 あるいは 《アマテラス‐スサノヲ》神話におけるような《例示》の それぞれの社会体系的な解読のほうを目的とするものである。
次に ザラトゥシュトラ宗教のもう一つの局面は 今度は 西欧的社会体系と酷似するかのように 独自の《黙示》録を持って 次のことを示すのである。まづ基本的には アフラ・マズダ( Ahura Mazdah 《賢明なる神》。なお ahura = asura 阿修羅である。ただし ニュアンスの違いがある)の無限性に対して アングラ・マイニュ( Angura Mainyu 《敵対的活動性》)の有限性が 対峙する。最初の人間ガヨーマルト以来の世界は やがて 最終の救世主サオシュアントの出現によって終末を迎え 同じくこの救世主によって 究極的にはこの終末が完成されるとされる。終末の完成とは ついにアフラ・マズダが絶対的支配者となって 《善の王国 Vohu Khshathra 》が地上に建てられるというものである。
このような《黙示》においては 《イエスマルクス》の系譜としての《ヨハネ黙示録》と比較するなら その互いの救済理論=弁証法過程の具体的な内容の差異を措いても その基調としては 互いに同じく当然のことながら まづ《政治主体=政治学主体》の範式が立てられているのが見られるであろう。救世主がいるということである。またここで この範式に いまわれわれの問題としているインドラという契機を捉えようとするなら それは あくまで 《スサノヲ=アマテラス》なるアフラ・マズダの系統に対峙する アングラ・マイニュの系列に入るものなのである。

(つづく→2008-09-07 - caguirofie