caguirofie

哲学いろいろ

#21

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その二 シワ゛の歴史的展開としての《スサノヲ(シワ゛)の世紀》
§20a

さてここで 前段までの[α]系列の命題を さらに立証すべき社会体系的事実(現実)は さらに《リグ・ヱ゛ーダ》の中の次に述べる讃歌において 顕著であることを なおつけ加えるべきであろう。すなわちそれは インドラに関して 特に [α‐8および9]の命題を裏付けるようなかたちで 《インドラの出生》と題する歌がうたわれ そこにおいて その《異常な出生と幼時の艱難》の情況が 黙示されるからである。まづ歌は 全体として 次のように要約される。

  インドラ(――つねに 《生産行為または その行為事実=価値》と読め――)の母は非常に長くかれを胎内に宿し 生まれたのちかれを棄てた。ただしこれはむしろインドラを神々の嫉妬から守るためであったという。インドラの父もまたかれに敵意をもったにちがいなく インドラはおそらく自衛のためにこれを殺した。かくしてインドラは神々の同情を失い 困苦の中に放浪するが 水はかれの恩恵を讃え ヰ゛シュヌ神はかれに友情を示し 鷲がソーマ(神酒)をもたらすに至って ついに幸運時代の幕は開かれる。・・・
(辻直四郎註)

すなわちインドラがインドラとして 相対的にその社会的実存を独立させるということであろうが それは 当然のように または むしろ 生産物を単なる《経済価値》としてではなく とにかく個々の《商品形態》として 初源の生産行為者が それを 外化することを(――従って この経済主体と そして その経済価値 とは 互いに疎外関係に入ることを――) 内包しているというべきである。しかしながら また そこでインドラは 必ずしも自己分裂を起こすというのでもなく その商品形態としての存在は 逆に やはり 社会的実存としての《社会経済価値》のその一側面としてインドラ自身が有するというのであろう。逆に言えば インドラは 生産行為者=経済主体(つまり マルト神群=シワ゛=スサノヲ)から まづ 離れ そのように互いに分離した関係にあるのだが それはむしろ 初めにおいて そうなのであり 別の言葉にすれば インドラは 《 Brahman / Visnu - Siva 》体系(その共同体関係)自体に ただちに 回帰して実存すると捉えられる。([α‐8および9])。
また このことは 従って 言うまでもなく すでにわれわれが
{《 Brhaspati - Indra 》 / 《 Visnu - Indra 》 - 《 Marut - Indra 》}構成
として図式的に捉えていた社会経済的構造じたいである。
これに対しては ただちに 西欧の系譜が提示した価値体系に拠って 共同体関係としてではなく たとえば 企業内の生産(所有)関係 もしくは 企業と企業とのそのゆな関係 一言で《市民の二角かつ対の関係》の次元では そのような構造は 矛盾をきたすという反論が起きるものと思われる。ただし いまは 社会体系の枠組み body としての共同観念が 個体・市民に対して どのような関係を要請するかを捉える場所ではある。従って ケインズにならって 《既得権益(つまり 市民的二角関係の)ではなく 理念が・つまりここでは 共同なる観念体系としての理念が 市民的二角関係としての企業関係を侵略しうる》とするならば その限りで 《リグヱ゛ーダ》の示唆し得るものを ともかく捉えておくべきであろう。このように考えられる。
生産行為の初源的生成(つまり インドラの出生)に関して それを 原詩句の中に求めれば 次のごとくなろう。まづ すでに §18において 命題[β‐1]の註として引用した句は 次のものである。

     インドラの出生讃歌
二(インドラの言葉) われはここより生まるることを欲せず。こは難渋なる道なり。われは斜めに脇腹よりいでんと欲す。多くのいまだなされざることを われなさざるべからず。ある者とは戦わんと欲す ある者とは和解せんと欲す。

すなわち この句は 基本的なかたちで その後半では すでに見たように ペルシャでのザラトゥシュトラ宗教改革を介して 西欧の系譜へのインドラの変容(分裂)を孕みながら 前半では まづ アジア的社会形態の特殊性(その共同観念性)への嫌悪・躊躇の言葉が もらされる。そこで さらに 一・二句を引用しよう。まづ 次のように観察し 要約している。

    インドラ出生讃歌
十 若き牝牛(インドラの母)は 強力にして・牡牛を興奮せしめ・冒すべからざる牡牛 猛烈なるインドラを生めり 母は 舐めらるることなかりし(愛されなかった)仔牛(インドラ)を〔放置せり〕 みづから自己の道を求めて進ましめんがために。

インドラ(個体的な労働生産行為→社会的な経済価値)は すべて初めに 社会体系じたいに 放擲され疎外されるというのである。それに対しては おそらく 西欧の系譜においては  初めに インドラ(ここでは より抽象的・普遍的な 労働行為価値)への《愛》が ひとつの主要な契機を占めていると言える。その限りで 言うまでもなく インドラは 個体的であり しかも 個体=社会 的である。ただし 次の点は 同時に 付言しておかねばなるまい。つまり キリスト・イエスは 《ぶどう作りの喩え》を述べるにおいて 《〔労働行為〕時間の先後・多少》(→つまり 《剰余の経済価値》の帰属)について その愛着の揚棄の一形態が 次には 逆に 《 Indra K = Marut K 》階級を生む景気となったのだとも すでにわれわれはこれまでの論述から 帰結して述べることができる。(マタイによる福音 20)(《純粋社会学序説》3・3)
さて この出生讃歌は ふたたびインドラ自身の言葉によって 次のように締めくくられる。
(つづく→2008-09-12 - caguirofie