caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その一 《シワ゛》の歴史的展開
§16

さて 次に アジア的社会形態をその未来社会への移行に焦点を当てて あらためて捉えることとしたい。それは いま一度 振り返るなら 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の第三次的展開とも言うべき形態であり それは この節の冒頭に 《マルト神群(=シワ゛)讃歌・その三》を掲げて その神的世界としての出発をいくらか見たのであるが ここでは 特に できるかぎりその社会形態的側面を中心として考察していきたいと考える。
ただしまづ第一に 上に見た西欧的社会形成態に比して ここでは やはり《祈祷》という社会的契機の存在 その重要性 に触れておかねばならないであろう。

  ルドラ神群(マルト神群)よ インドラと共に 心を一にして 黄金の車に乗り われらが幸福のために来たれ。われらより発するこのわれらの詩想は 汝らにより快く迎えらる 天界の泉が渇きて水を求むる者におけるごとく。

これが 《マルト神群への祈祷・その三》の第一句であった。
いま このような祈祷の契機は おそらく アジアにおいてその地理にかかわる風土とも関係するのかも知れない。自然形態としての破壊的(暴風雨という)シワ゛に対すると同じく 社会形態としての自律の神シワ゛に対しても 初めに 祈祷をもってわれわれ人間は 〔政治主体として〕実存するものと思われる。西欧において まづそのような祈祷ないし宗教の契機があったとしても それが 既存のその宗教の形態にまづプロテストして そこではたとえば 経済主体としては 《召命 vocation; calling; Beruf 》といった心理的連関の中に 生産労働行為にいそしみ その結果 その人間的な改革を唱え 資本〔なる神〕を 個体的にかつ私的に 政治主体としてにしろあるいは徐々にその中からやがて現われる社会性としての政治学主体としてにしろ 獲得・蓄積・領有していくといった出発の形式は この初発において 微妙に異なると言ってよい。
この点を いま別の言葉で 片や 《地の王たちが 心を一つにして 商品‐貨幣の蓄積に向かう》と捉えられるのに対して 片や こちらでは 《商品‐貨幣が 心を一にして 黄金の車に乗り われらが幸福のために来たれ》というように 社会的に共同なる祈祷の中で捉えられている。
次に このいアジア的形態における初発の契機は ただし このままでは むろん 無主体的主体の世界であり そのような神的世界は 時に ただ統治者(=変容アマテラス)の権力をのみ増大させる停滞的無常的な共同なる幻想にしか過ぎない。逆に言いかえれば 商品‐貨幣なる自律の神といった無主体に 祈祷を捧げ その神の社会的仕組みに 身をゆだねてばかりいるわけにも行かず この無主体を 自己の実存の内に摂り入れて生産行為をなす者が 停滞的なアジア的社会の中にも 出現するのも むしろ 当然であろう。
そのことは すでに《マルト神群讃歌・その二》で 《マルト神群よ 汝らが援護もて支援せる人間は 今や力によって他の人々を凌駕す。かれは競走馬によって勝利の賞を獲得す。勇士によって財宝を。かれは熱望に値する思慮を保有して繁栄す》(その第十三句)と 第二次形態でうたわれていたとおりである。それは このマルト神群の支援に与かる経済主体・政治主体なるアジア的市民形態(シワ゛かつスサノヲ)であり あるいは アジア的市民資本家形態(変容ヰ゛シュヌを内に摂り込んだシワ゛)にほかならない。この資本家的市民として 《自律の神》の支援を受けるシワ゛=スサノヲは 統治者としてのヰ゛シュヌ=アマテラス(もしくは 政治学主体)の《秘義を悟る方途を知》ったあとのシワ゛=スサノヲである。そこで このようなシワ゛=スサノヲの世紀とも言うべき 第二次から第三次形態へかけての段階を いまあらためて 第三節の(2)として 次にながめておきたい。
(つづく→2008-09-06 - caguirofie