caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その二 シワ゛の歴史的展開としての《スサノヲ(シワ゛)の世紀》
§18a

以上 インドラの社会的形態を アジア的情況および西欧の系譜のそれぞれにおいて 対比させて捉えるために それらを概念的に仲介すべきとも言い得るようなザラトゥシュトラ宗教体系について 大雑把に見てみたのであるが このことからは われわれは次のことを得たと言ってよいであろう。
まづ アジア的社会形態においては インドラは 悪魔(サタン もしくは アングラ・マイニュ)の列に堕ちる以前の形態にある。あるいは 高天の原を追われイヅモの国に落ち着いたあとのスサノヲと 何らかの関係を有する形態にある。それは すでに図示したように 次のような構造の中にある。いまその中のそれぞれの関係を明かそうとするところである。

Fig.A-1から
段階 形態2(=第二次形態)
内容 {《Brhaspati - Indra》 / 《Visnu - Indra》 - 《Marut - Indra》}
  • Marut は Siva のことである。

これに対して 西欧的社会形成態においては 次のごとく捉えられよう。第一に 中継領域としてのザラトゥシュトラ体系においては

段階 形態2(=第二次形態)
内容 {Ahura Mazdah(=Visnu = Marut)(= rta) ‐ Angra Mainyu(= Indra)}
  • ここでは 《Visnu = Marut》つまり 《Visnu = Siva》ということ つまり 《アマテラス=スサノヲ》という統合構造が 重要である。

この構造においては Ahura Mazdahは 一方で Angra Mainyuとの連関においては 顕現形態としての二元論体系の一元を形成し 他方で むしろ 非顕現(ただし のちに顕現するが)の唯一絶対神としては 《Visnu = Marut (=Siva)》すなわち 《政治学主体=政治主体》なる統合の範式を伴なっている。《Visnu = Marut (=Siva)》が顕現している限りで それらを包摂するAhura Mazdahは 非顕現である。しかも 《 rta =天則》として 摂理をも担う。一つ前の 非統合=分離形態の場合と比べるとよい。《アマテラス‐スサノヲ》の分離連関とその顕現形態の奥には 非顕現の《ブラフマン ないし アメノミナカヌシの神》が 想定されている。
インドラについて言うなら それは ヰ゛シュヌあるいはマルト(=シワ゛)の双方に対して 敵対的だと捉えられる。
そこで 《ヨハネ黙示録》の図式に移るなら まづザラトゥシュトラの Angra Mainyuが 概念上 《龍(サタン)》に対応すると捉えて 差支えないであろう。そうであるなら もはやこの《龍》は 一連の系列を形成していたのであるから 端的に言って インドラが その系列すなわち 《獣‐その頭および角》とそれぞれ連関を持つと言ってよい。ここで しかしながら 《龍‐獣》は 《商品‐貨幣》であり それは当然のことながら 市民マルト(シワ゛)の生産行為とつながるものだと言わなければならない。また《獣の頭および角》は 《地の王たち》であり これが 政治学主体ヰ゛シュヌ(その統治行為)とつながらないわけには行かない。このことを ひとつの図式に描くとすれば 次のようになる。

Fig.A-1a

        →・・・・・・・・・・・・・・・←Visnu:《地の王たち》

Indra:《龍》:商品・・・・――《獣》:貨幣――・・・・↓  ↑

        →・・・・・・・・・・・・・・・←Marut( Siva ):市民・生産行為者

言いかえれば ここで Indraは もはや言うまでもなく Angra Mainyuの化身としての形態を通ったあとのものであり 従ってこのIndraは Angra Mainyuの連関する相手つまりAhura Mazdahの中に 《政治学主体 Visnu = 政治主体 Marut(=Siva)》の範式として存在したその両契機を むしろそれぞれ奪って 自己のもとに包摂するかのようである。そこで 以上の点をアジア的形態におけるIndraの図式 およびザラトゥシュトラ体系におけるそれとを 総合して やはり一つの図式において捉えるなら 次のように考えて そこに無理はないと思われる。

Fig.A-1b
西欧における形態2として
[K:キャピタリスム] {《Brhaspati=Marut》-《Visnu=Indra》}
[L:ソシアリスム] {《Brhaspati=Visnu》-《Marut=Indra》}
  • (註)ここで Brhaspatiは Ahura Mazdah(= rta )あるいは ゆるく解釈した上での God(唯一絶対の顕現神)とそれぞれ言いかえることができる。Visnuは アマテラス そして Marutは Sivaつまりスサノヲである。

このことから いま一度 別の言葉で言いかえて得られる点は 次のことである。つまり アングラ・マイニュの化身としてのインドラは ヰ゛シュヌ(政治学主体)に就くか シワ゛(政治主体)に就くか いづれかであって 全体として インドラはその意味で自己分裂を起こすということである。

  • 先取りして言えば 《商品》の自己分裂・その二重性格にあたるものであろう。使用価値と交換価値(値段)との。

そこで 以上のような概観から これまでの論述を前提として この《インドラ》の内実を 推測して明示することは 必ずしも難しいことではない。すなわち われわれが求めていた《インドラ》の社会的形態とは 基本的に――つまり ザラトゥシュトラ体系に入る以前の アジア的原理から――言って 《生産労働行為(その時間・また価値)》ではないかと仮説できるのではないか。

  • 労働価値説を始めるのではなく 交換価値を担う中身として 労働の成果としての・つまり使用価値としての内実はあるのではないか。

すなわち このインドラは アジア的社会形態の範式においては あくまで 〔Brihaspati / Visnu - Marut 》のすべての契機に 共通に社会的結節点の役割を担っていた。反対に 西欧的社会形成態の範式においては 《 Visnu = Indra 》ないし《 Marut = Indra 》というふうに 両方の契機へ 統合されるかたちで 自己分裂をなす。ここで 《 Visnu = Indra 》つまり インドラがヰ゛シュヌ(地の王たち)と〔のみ〕結節を持つとは どういうことか。その限りで 《ヨハネ黙示録》が生きており それは言うまでもなく 生産行為(経済価値)としてのインドラが 龍(商品)および獣(貨幣)の系列に入る限りにおいてである。ということは どういうことか。それは 言うまでもなく マルクスの指摘するとおり インドラ(生産行為事実)の 《労働価値》ないし《商品形態(交換価値)》への自己分裂を意味しよう。図式的に言えば マルトが インドラの内の《労働価値=おおざっぱに使用価値》を表現し ヰ゛シュヌが インドラに付与された《商品形態=交換価値》を表現する者となるのであろう。
さしあたって このように考えられ 以上の命題をまとめるとする。
[α]系列は アジア [ε]系列は 西欧(ヨーロッパ) そして[β]系列は ペルシャ(ザラトゥシュトラ宗教)をそれぞれ 示す。

(つづく→2008-09-08 - caguirofie