caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その二 シワ゛の歴史的展開としての《スサノヲ(シワ゛)の世紀》
§19a

さて 次には アジア的社会形態じたいにとってのインドラをめぐる社会的展開に目を向けよう。
まづそれは 全体的な観点から言えることだが §17の最初に掲げた図式つまり
{《Brhaspati-Indra》/《Visnu-Indra》-《Marut-Indra》}体系
としては その中の特に《Marut-Indra》関係を中心として 把握することができる。および それを仲介するかのように存在する政治行為者《Visnu》との鼎立関係としても 注意することができる。このことは もちろん この社会体系全体についての仮説的命題を――つまり 前段§18の[α](その1から4まで)を――前提としていることは言うまでもない。
さて 《Marut-Indra》関係と言えば 《スサノヲ‐その生産行為》関係とも言うべき領域のことにほかならない。ある意味で《市民的存在‐実存》の構造領域と言うことにもなろう。その意味でも いま一度 確認しておくべきことは そのような関係が 統一的な社会形態としては 《祭祀の場》(つまり《Brhaspati-Indra》関係)を中心として 広く《政治行為》(つまり《Visnu-Indra》関係)を通して繰り広げられるといった類型が大前提であるという点である。つまり逆に言って この類型こそが アジア的社会形態が 価値自由的であったことの根拠であり 従ってそこでは 価値自由的であるがゆえに 社会形成態としては すこぶる停滞的であるという側面につながっていたその点である。
別の言葉で それは その内面で固有に社会形成態としてある西欧の系譜を アジア的情況が このインドラを社会的接点として 同じく受容したその歴史的段階以降の問題としての議論となる。そこでは 言うまでもなく 《唯一顕現神》構造という価値体系の洗礼を 間接的に(社会体系の交錯する限りでそのなかで) 受けたことのゆえにである。
ただし ひるがえって アジア的社会形態じたいにおいても この価値自由的停滞性に対抗的な何らかのまとまった社会的契機が そこに全く欠けていたとも思われない。すなわち ここで 《 Marut-Indra》関係に移るならば それは 《Ahura Mazdah - Angra Mainyu〔としてのIndra〕》もしくは より西欧の系譜に即して言えば 《 God〔Jesus Christ の父なる〕- Zeus( Jupiter )〔これは gods の主宰神としての。つまり 《雷霆神》としては Indra に通底している〕》といった連関の中での 一方の《善》の契機が担うというのではなく そうではなく アジア的情況においても 《 Visnu - Indra - Marut》といった三角関係的な相互敵対・対立の関係の総体が そのような価値理論として 見落とされたいたわけではない。
たとえばそれを われわれはこの同じく《リグ・ヱ゛ーダ》の中に 容易に 見出すことができるからである。すなわちそれは 《 Marut - Indra 》連関(=これは 日常生活である)の一つの破綻を示すかのように インドラとマルト神群との一時的不和)ないし疎外)を主題とした歌が 同様に 明示的にうたわれているのを見出すからである。ここでは その讃歌を中心に述べよう。
さて このうたは 《インドラとマルト神群とアガスティア仙〔=これは ヰ゛シュヌに相当する一人格であろう〕との対話》と題するものであり それは 三編から成る。《その一》が十五句 《その二》が五句 そして《その三》が六句である。断片的ながら 《生産労働行為= Indra と市民的実存= Marut( Siva )》とのアジア的なかたちにおける分解(疎外)を示唆すると思われてならないからである。これを リグ・ヱ゛ーダ自体の中に捉え得ることは 重要である。それは もとより 西欧的社会形成態に固有の社会的な敵対・対立の関係とちがった意味での《実存‐経済‐政治》行為形式を示唆するものだからである。ここでは その一端を捉えて考察する。
さて この物語の原型は 以下のように要約される。例によって辻直四郎に拠る。

   アガスティア仙が本来マルト神群のために用意した祭式に インドラが先着し 空中に姿を現わしたマルト神群とのあいだに 言葉の応報が起こる。かつて〔両者つまり Marutと Indraが和解していたとき〕 悪魔退治に際し 神群が〔結果的には〕インドラを置き去りにしたことの指摘されるに及んで 神群の気勢はくじけ 〔そこで〕インドラも神群〔から〕の讃美を嘉納して怒りを和らげる。両者のあいだに板ばさみとなったマルト神群に余儀なき事情を訴えるが 神群はなお釈然としない。他方インドラに対する恐怖のため かれは祭式の開始を命ずる。(《その二》)
   アガスティア仙は主としてマルト神群の宥恕を乞い 本来祭式はかれらのために用意されたものであることを明らかにする。他面インドラも怒りをとき マルト神群とともどもに恩恵をたれんことを願う。(《その二》)

というものである。両者の《一時的不和》が最終的に たとえば 《ヨハネ黙示録》の結末のように 明確なかたちを取るというのではなく そうではないが その他の讃歌と同じように あくまで 神格に対して讃歌ないし祈祷を捧げるというかたちで 再和解が求められるものである。まづこのことを指摘して そこでその中の一場面を ここに引用して 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制の第二次ないし第三次的展開として 捉えようと考える。
その前に あらためて前提としておくべきことは まづ インドラは 社会体系の土台とも言うべき生産行為=経済価値であり マルト神群は 自律の神に従って おのれのインドラすなわち生産物を処分(所有)するのであり それに対して ここでアガスティア仙と呼ばれるものは 政治行為者ヰ゛シュヌとして あたかも自律の神シワ゛に対抗するかのごとく 祭祀の場(ないし 社会総体的な分配の場)をあずかろうとする立ち場にあること。またもう一点 反面では ここで マルト神群の内部分裂としての社会階級分化は ここで触れられていないということ。むろん そこでは 社会関係内部の対立として インドラとマルト神群総体との対立は その背後に マルト神群じたいの中に 自己の労働行為価値(ミクロ的なインドラ)を収奪されない者とされた者 もしくは 他者のそれを収奪する者としない者との階級分裂を内在させていることは 必至であると考えられるが リグ・ヱ゛ーダの詩人は そのことに触れない。
そこで この《対話》の中から《その二》の全五句を いまここに引用することにしよう。それは 体制の第二次的形態の危機とも言うべき情況を示している。

(つづく→2008-09-10 - caguirofie