#9
第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――
第二節 《ブラフマン》唯一非顕現神構造
§10
さて リグ・ヱ゛ーダにおいて ブラフマンは 創造者であるとともに 現実的に 祭祀の場〔としてのその契機〕であり その司祭官であった。ここで 第二の性格は 第一の性格と 当然 切り離されたものでなく 同じ実体の第一次および第二次のそれぞれ局面を示すものだと述べたいた。具体的に述べれば ブラフマンの第二次神性は 顕現の二柱 ヰ゛シュヌおよびシワ゛に対して あるいは両者のあいだに生起する社会的矛盾に対して 《祭祀の場 もしくは その司祭官》として現われると考えられている。
- また ここから アマテラスとスサノヲのあいだのウケヒ そのウケヒの奥に潜む無主体的主体(たとえば 《社稷》)という概念と通底するものと考えられるのである。
《祭祀の場=ヰ゛ダタ》とは すでに述べたように ダクシナー(共同体の経済価値総体)の分配に関する政治〔学〕領域のことにほかならない。またそこで われわれのここでの基点としての政治領域が つねに 経済実存領域と 実存としての実存領域との相い衝突する場であり そこにおけるいま一つ別の実存行為を意味するということの根拠を そのことは語るのであった。
そこで 第二次ブラフマンは 次のようにうたわれる。
ブリハス・パティ(祈祷主)讃歌 その一
一 もろもろの眷族(けんぞく)の長(おさ)なる汝をわれらは呼ぶ 詩宗の中にありて至上の名声をもつ詩宗 祈祷の最高の王者 ブラフマナス・パティよ。われらに耳を傾けつつ 〔なが〕座にすわれ 支援を伴ないて。
二 先見の力ある神々すら 祭祀の配分を常に汝より受領せり アスラの性(さが)あるブリハス・パティ(=ブラフマナス・パティ)よ。太陽が光明もてうるわしく暁紅を〔生みだす〕ごとく 汝はあらゆる祈祷を生みだす者なり。
三 誹謗と暗黒とを払い除きたるのち 汝は光明に満ちたる《天則(リタ)》の車に乗るブリハス・パティよ 恐るべき・敵を滅ぼし・羅刹(らせつ)を殺し・牛の囲いを破り・太陽を見いだす〔車に〕。
第二次ブラフマンを表わしていると思われるこの《ブリハス・パティ(祈祷主)讃歌》は 《その一(十九句) / その二(十六句) / その三(五句) / その四(十一句)》というように さまざまに展開されていく。が その基本的な契機は この冒頭の三句に示されていると見てよい。ここで重要なことは ブラフマンは 無主体的主体という神的世界の域を脱しないながら その概念としては 現実における経済価値の分配(西欧語の言語体系における 生産・交換・消費のそれぞれの行為過程を前提とする)の場において その具体的な〔不在の〕契機であるという点であろう。
言いかえれば アジア的社会形態における経済〔学〕領域は それが このような非顕現の《政治主体‐政治学主体》構造 つまり 政治〔学〕領域とつねに不可分のものであるとさえ言い得る点である。この点は 純粋政治学の論述のみにおいては 一面的な仮構にとどまるであろうけれども もしその直接の立証が 純粋経済学といった分野において要請されるものとすれば おそらく そのような理論も現われるであろうと考えられる。
ブリハスパティ讃歌の冒頭の三句は それぞれ 次のような重要点を含んでいると思われる。すなわち原文からは 《祈祷 / 祭祀の配分 / および 天則》などといった概念が その社会形態の像を形成するのに重要な要素となると考えられる。祭祀の中心的な課題として述べることにして 初めにその他の二点について見てみる。
初めに一言で結論的に言えば リグ・ヱ゛ーダないしヒンドゥーの世界において この《祈祷》はが稲的に言って おそらく アマテラス・スサノヲの《ウケヒ》にあたるものであろうし また それが 無主体的主体に判断をゆだねるという意味で その無主体とは 次の《天則》という概念であろうと考えられる。
逆に言って 《天則》に対して たとえば《則天去私》と言ったのは われらが漱石であった。が まづ 天則の原語としては 《リタ rta 》とは 《自然界・祭祀・倫理の秩序・理法》(辻直四郎)である。従ってそれに対して われわれが《天則》を伺おうとする行為には 《ウケヒ》もしくは《祈祷》がその前提とされる という具合いに考えられる。ここで《祈祷》とは このリグ・ヱ゛ーダの《讃歌》じたいが それに当たるものである。従って 大胆に言ってしまえば アジア的社会形態においては この祈祷ないし《啓示的讃歌』こそが むしろ いわゆる西欧語の社会科学の第一原理を成すものとさえ思われる。が そのさらに内容を原句の中に拾ってみようとすれば 次のような一句に出会う。
ブリハスパティ讃歌 その一
六 汝はわれらの保護者 見はらかす・道の開拓者なり。汝の掟に従わんがため われらは詩想もて目覚む。ブリハスパティよ われらに対する姦計をたくらむ者を 奪取力に富む・かれみづからの禍(まが)つ力をして 粉砕せしめよ。
ここで 《われらに対する姦計をたくらむ者を 奪取力に富む・かれみづからの禍(まが)つ力をして 粉砕する》という命題は 端的に 西欧語で言う《収奪者の収奪 否定の否定 資本家的市民性の終焉》という同じく命題を思い出させるものである。アジア的社会形態の中での命題は このように 祈祷のかたちにおいて提出される。と思われるのである。そこに 《天則》もしくは《則天去私》的実存を見ようというのが 第一原理を成すかのようである。これが 司祭官としての第二次ブラフマン体制を構成するであろうと考えられる。
ただし この第二次ブラフマン体制(もちろんそれには 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》の第二次形態が 対応しているのだが)が 単に 全くの無主体的でないことの証拠は リグ・ヱ゛ーダの詩人が 《その三》ないし《その四》をさらにうたって 歴史のつねなる発進として 第三次体制ないし第四次形態をも見通していると思われることの中にある。またここで触れておくならば 前節に見たシワ゛の自己展開としての《マルト神群讃歌》についても 《その三》を用意し 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》の第三次的社会形態を このブラフマンの展開に確かに対応させているかのようである。
このような点は 予言ないし預言 もしくは 啓示ないし黙示の領域にもろに入るので――もっとも それをわれわれは 次の第三節に このリグ・ヱ゛ーダと イエスないしマルクスの系譜とを照らし合わせて 捉えようとしているのであるが―― 一見 それを 非科学的と見る向きには この第一章は全体として 神話的世界において捉えられる《アマテラス‐スサノヲ》体系として 読んでいただきたいことは 自明であろう。
(つづく→2008-08-31 - caguirofie)