caguirofie

哲学いろいろ

#8

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第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第二節 《ブラフマン》唯一非顕現神構造

§9

ブラフマンには 二面の性格があると要約した。が おそらく その一方の側面は その個々の内容は それほど重要でないと思われる。それは その一方の性格というのは 宇宙万物の創造者としてのブラフマンであるが それはあくまで《初源の唯一者》であるという一点において〔のみ〕重要であり それは もう一方の性格側面としての《祭祀》の契機と深くかかわることによって 重要であると考えられるからである。いづれにせよ 少しく まづ初めに 想像者ブラフマンの側面に焦点をあてて見ておこう。
たとえば 西欧的社会形成態としての絶対唯一神構造では 《初めに ロゴスありき》と述べられるように 明確に その《唯一絶対性》がロゴスとして実存すると見られる。《ロゴス》とは あらゆる《言語〔行為〕》であり 言語とは 言葉による行為および行動による行為である。このロゴスが 《神》であったと言う。絶対唯一神体系は あとに追って触れていきたいと考えるが まづこのように始まる。それは おそらく 体系じたいも或る意味で 顕現された絶対的構造を有するかのようである。
そこで そのような西欧の系譜における構造〔と社会形成との関係など〕に対して 同じく ブラフマン唯一神構造も まづ その《唯一の初源性》について 或る程度 明示的に捉える実用があるだろう。その意味では まづブラフマンの第一の性格について 原典からも引用を行なって ひとおりながめておこう。
 まづ 次の句は その初源者であることを示している。

     ブラフマナス・パティ(祈祷主)讃歌
二 ブラフマナス・パティ(* 《ブラフマンの主》という意)は これら〔万物を〕 冶工のごとく鍛接せり 神々の初代において 有は無より生じたり。

ここで ただし最後の《有は無より生じたり》の句は 次の歌のほうが より真実を語っていると思われるので それを共に掲げることとする。

  • なお ヰ゛シュヌの次元で 民族の英雄・統治者の始祖は シャーマンであるとともに 《鍛冶者》であることを 護雅夫の著作・《遊牧騎馬民族国家》は ていねいに 明らかにしている。

       宇宙開闢讃歌
一 そのとき(* 太初において)無もなかりき 有もなかりき。空界もなかりき その上の天もなかりき。何ものか発動せし いづこに 誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
二 そのとき 死もなかりき 不死もなかりき。夜と昼との標識(* 日月・星辰)もなかりき。かの唯一物(* 中性の根本原理)は 自力により風なく呼吸せり(* 生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
三 太初において 暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつあるもの かの唯一物は 熱の力により出生せり(* 生命の開始)。
四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(* 思考力)の第一の種子なりき。詩人ら(*霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め 有の親縁(* 起源)を無に発見せり。・・・

とうたわれる讃歌においてである。ただし この同じ歌は その最後の句を 次のように締めくくる。それも 見逃すべきでないと思われる。

七 この創造はいづこより起こりしや。そは〔誰によりて〕実行せられたりや あるいはまたしからざりしや――最高天にありてこの〔世界を〕監視する者のみ実にこれを知る。あるいはかれもまた知らず。

この第七句の最後の《世界監視者》が ブラフマンであるとするなら 《あるいは かれもまた〔この創造がいづこより起こったのか〕知らず》とうたわれた。上に このブラフマンの第一の性格は それ自体として 重要でないと述べたが このような句にうたわれるその初源者としてのあいまいさは むしろ 重要であるかも知れない。以上の第一の性格をまとめて――すでに指摘ずみであるが―― 《ヱ゛ーダ》の世界には 唯一の初源者が 確かに存在している がしかし それは 固有の性格として 非顕現であるということになる。
そこで この非顕現の唯一神ブラフマンは 自らを顕現し ヰ゛シュヌおよびシワ゛となるとされる。ただ ここで ブラフマンは 自己を顕現したとしても 依然として 第一の性格としての《非顕現神性》を保って 顕現神ヰ゛シュヌおよびシワ゛に対して ブラフマンとして在る。この後者のブラフマンは 当然のことながら 新たな局面を見せる。それは 次の第二の性格としての《祭祀性》にほかならない。


以上の点に関して 古事記との比較を少しなしておき。それは 古事記においても アマテラス・スサノヲの出現までの神々 つまり イザナキ・イザナミ以前の神々は まとめてこの《ブラフマン》の顕現過程に応じた諸現象を表わし それぞれの神格化であると一言で言って 間違いではないであろう。あるいは たとえば 《渾沌・混元》からの顕現過程である。
古事記の《序》は そのことを簡潔にまとめて 次のように述べる。

  混元既に凝りて 気象(* 形・質)未だ効(あらは)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰れかその形を知らむ。然れども 乾坤(けんこん)初めて分かれて参神(アメノミナカヌシの神 タカミムスヒの神 カミムスヒの神) 造化の首(はじめ)となり 陰陽ここに開けて 二霊(イザナキの命 イザナミの命) 群品(黄泉の国と葦原中国)に出入して 日月(天照大神月読命) 目を洗ふに彰(あら)はれ 海水に浮沈して 神祇身を滌(すす)ぐに呈(あらは)れき。・・・

ここでは アマテラスとツクヨミとしての《顕現》というふうに述べられるが 全体として それ以前の神々が 《ブラフマンとしての顕現の過程》を そして 顕現した結果が アマテラス(≒ヰ゛シュヌ)およびスサノヲ(≒シワ゛)と――いささか 強引にだが 概念体系として整合的に――なるということを抽象しても あやまりではないと考える。《序》ではなく 《本文》の基調が そうであるから。
なお ここでは 必ずしも 自然科学的なロゴス・唯一顕現神と捉えるか ブラフマンないし非顕現ないし渾沌と捉えるかが 重要である。この場合は 経験的にということである。経験を前提にした上で 形而上学的となっている。しかし 自然科学の世界は このような《初源》観の世界およびそれによって成立する観念の中の一般に社会形態の要因を成すと思われるものの世界を 代位してしまうとは考えられない。
さらになお 古事記においては

  この三柱の神(アメノミナカヌシ タカミムスヒ カミムスヒ)はみな独神(ひとりがみ)と成りまして 身を隠したまひき。

と述べて ちょうど 〔第二次〕非顕現性を想起させるような世界に触れている。ただし その後の実体を 古事記は たとえばリグ・ヱ゛ーダのように 《祭祀性》とは明示しない。

  • たとえば その一神タカミムスヒは あのオホクニヌシが統治する葦原中国の平定(国譲り)の際に 高天の原におけるその評議の集いには アマテラスとともにその筆頭として登場する。だから《祭祀》と関係するとも見られるのだが。
  • あるいは 《古事記では 神と命(みこと←御・言←霊・事)を区別し 神は宗教的な 命は人格的な意義において用いられる》(倉野憲司)という点では その体系全体としてその中で 《神(神的世界あるいは 神代)》じたいをもって 《宗教性・共同観念の原型といった意味での祭祀性》を暗示する。そう見て 差支えないようである。

(つづく→2008-08-30 - caguirofie