caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第二節 《ブラフマン》唯一非顕現神構造

§11a

第三次ブラフマン体制については むしろ現代を超えようともするので 次節にゆづることにする。そこで 第二次ブラフマンによるその基本的構造を いましばらく捉えようと考える。次に掲げる一句は 重要な契機を含むものである。

      ブリハスパティ讃歌 その一
四 汝はいみじき指導もて導き 汝に奉仕する人間を守護す。かかる人に困厄は達せざるべし。汝は焚殺者にして 祈祷を憎む者の悪意を無効になす。ブリハスパティよ こは汝の卓越せる偉大性なり。

アジア的社会形態は このように《祈祷を憎む者の悪意を無効になす》ような体制に 基本的に全般的に あると考えられる。もしそれに対して 西欧的社会形成を参照するなら おそらく 《祈祷を行なう者の悪意を無効になす》というような《社会主体・政治主体=社会学主体・政治学主体》の力が 常に社会的にはたらくといったそのような構造が抽象されるであろう。つまり その意味で イエスも この《祈祷》をおこなった。マルクスも この意味で《祈祷》をおこなった。従って もしそこに《悪意》を見るものがおれば これら祈祷者に対して 広い意味での《魔女狩り》が社会的に行われるのだ。
日本において たとえば《レード・パージ(赤狩り)》は その戦後版は おそらく 米国からの要請という色合いが強いところのこの西欧的な意味合いにおける力の作用であると考えられる。その敗戦までのレッド・パージは むしろ日本の《国家》による祈祷という契機において アジア的な意味合いが強く 従って この第六句が 有効であると思われる。ただ 祈祷が 現実の政治もしくは具体的に《国家》の次元において成されるときには 国家自らの祈祷に対しては アジア的体系を楯として 一般に市民の祈祷に対しては むしろ西欧的体系における原理をそれに適用するという両刀使いが行なわれる可能性が強い。(その意味でも 《アマテラス‐スサノヲ》体系を 単純に 西欧的体系の中の 《国家‐市民社会》構造として捉えることには そりが合わない面がある)。いま一つ例証をあげるなら 同じく社会的に《何らかの悪意を無効にな》そうという《狩り》としては 《刀狩り》が挙げられるが――そしてこれは 日本において現代にも通じるものと思われるが―― これも同じく アジア的社会構造のこの第一原理から生まれるものと考えられる。
すなわち 祈祷・天則(則天去私)という祭祀(あるいは 分配)の場に対して 《刀》を持ち出そうとする者に対するその社会的効力の剥奪という形態である。ただ 先ほどの《赤狩り》の場合と同じように この場合も この《祭祀の場》が そのまま 《国家》と等しいとされるときには やはり《刀狩り》以上のことが国家の祈祷によって為され得るという不都合も考える必要がある。これらのことは 《アマテラス‐スサノヲ》体系の積極的かつ消極的(否定的)な見直しを要請すると言わなければならない。
この点もう少し敷衍するなら この《アマテラス‐スサノヲ》体系を 単純に 《アマテラス・国家・公民‐スサノヲ・市民》構造として把握するときの不都合は 次の点に見出されよう。すなわち 公民・市民 あるいは国家・市民社会といった概念体系は あくまで西欧の系譜において培われたものであり それは たとえば§8において論じたように 《物件(ないし生産物つまり経済価値
 特にその中の剰余の価値をめぐって争われるところの)の所有行為》を中心として体系化された一つの概念である。従って マルクスの《コンミューヌ主義》という祈祷が そのまま所有の形態をめぐって取りざたされる余地がおおき。《国家アマテラス》的所有であるとか あるいは 生産手段の《スサノヲ市民社会》的所有であるとかというふうに。しかし 《アマテラス‐スサノヲ》体系は もしそれを これまでのように あmた これからの仮説としてもの《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系において了解しようとすれば それは 《〔人間の〕実存=共存の行為》を中心として 〔分配の原理が〕基礎づけられた社会体系であると言わなければならないであろう。従って そのときには たとえばこの《人間的所有による分配=共存 という実存行為》(西欧の系譜)と 《人間的実存による分配=共存 という実存行為》(アジア的系譜)とのあいだには 微妙な差異および共通性が 把握されなければならないであろう。
《個人的な所有行為による社会的分配 =共存》と 《実存=共存行為の結果としての社会的分配 =所有》との間の差異については 次のように考えられる。またそれは 譲渡=疎外(これは そういう形式としての自己の表現行為である)の概念をめぐって次のように捉えられるであろう。
すでに§8において若干触れていたように まづ 西欧的社会形態においては 自己の生産したモノを商品として 交通=交換過程に出し それを自己の所有から他者の所有へと譲渡する――ここにおいて 初めて 自己の生産物は 自己から外化(疎外)されて 商品が商品として生成するのであろうが その――ときにおいて 共存(つまり 分業による協業をとおして)が成立すると見られる。もちろん この現状に対して 自己の生産物(物件)がでなく 自己の実存じしん(あるいは労働力)が 譲渡=外化=疎外されると分析する思想は その同じ顕現の唯一神体系において それを 商品制=資本制社会と規定してその揚気を試みようとする。いま少しくその点に触れれば それは言うまでもなく コンミューヌ主義であり その思想によれば この譲渡を 自己の私的所有から他者の私的所有へではなく また同じく 国家の所有へではなく 基本的市民社会(あるいは 社会的諸関係の総和)じたいの所有へと成す形態が 立てられる。この限りで言えば 所有は 社会的所有を基盤とする。ただ そこで自己と他者との実存が 全面的に通底してしまったということではないだろう。そうではなく 個人個人の所有の私的性が揚げて棄てられて なおかつ個人的に所有が行なわれるというものであろう。私的・個人的・感性的に その意味で 排他的に 経済価値が 所有・消費される。
そうして 商品としての生成も 生産物が交換される限り(言いかえれば 所有が移転される限り) それは 外化=疎外ではあるが それは 全くの私的な自己外化(つまり 表現・実存)であることを止める。・・・このようなひとつの社会形態の像が表わされるのである。そしてそれは言うまでもなく アマテラスとスサノヲという社会的分化を嫌う唯一顕現神体制が 《社会主体・政治主体(スサノヲ)=社会学主体・政治学主体(アマテラス)》という社会的個体を前提とすることによるものなのである。繰り返すなら 《かれひとり アルファでありオメガであって 有りて有る》唯一神構造においては 所有行為を中心として 実存=共存が 図られるものであり 基本的に この所有形態は 《アマテラス=スサノヲ》 もしくは 《社会的=個体的》所有をその柱とするものなのである。
逆に アジア的社会形態においては まづブラフマン唯一神構造が ブラフマンの非顕現であることによって その構造は ヰ゛シュヌ‐シワ゛(ないし アマテラス‐スサノヲ)への分化が ひとつの基本となる。そこで ただちに結論に入るとして ごく大まかな図式いにおいて表現するなら そこにおいては シワ゛が生産し ヰ゛シュヌ(祭祀の場の現実の政策)が分配する。それを天則(リタ)に従わせるのは 非顕現の司祭官ブラフマンの役目となる。そこでは 基本的に 自己の譲渡=外化=疎外は起こらない。

  • §8では この同じことを 人は自らを 非顕現の唯一神構造に対して 初めに 譲渡していると述べた。また 西欧では 人はいっさい自己を譲渡しようとしない。ただ 物件を譲渡するのみである。もし社会構造としての商品形態を通じて 自己じしんの譲渡=疎外が起こっているとするなら ただちに その還帰が主張される。疎外の克服 ないし 心理的には 自己の同一性の回復が 主張される。といった意味合いのことを述べた。これらと 上での叙述との表現上の逆説は 次のように説明される。つまり一言でえ その視点を 《物件の所有》か 《人間の〔ともかく〕存在》かのいづれに重きをおくかによって現われるものであると。

そして ここから 社会形態に関しても その像が形成され持たれる。
しかし 次に このような疑問が湧く。つまり この社会においても 分配が 第一原理としては 〔不在のブラフマン社会学主体)および〕ヰ゛シュヌ(政治学主体)による祭祀=政治の場において行なわれるというものであっても ひとつには シワ゛(社会・政治・経済の主体)が 独立した生産者であり 言いかえれば アジア的社会形態における市民 citizen なのであり もう一つには 従って 直截的には この市民シワ゛どうしの交換過程をつうじて 実際の分配は行なわれるのではあるという疑問。言いかえれば 生産物は ここにおいても 明らかに《商品》として存在する。いやそれ以上に ヰ゛シュヌの変容に応じたシワ゛の自己展開は 《自律の神》として つまり商品・貨幣・資本という克服せられざる神として そのはたらきを現わすことは すでに指摘したことであった。それ
では いわゆる資本制社会においては アジア的社会形態も 西欧的社会形態と同じく 《物件の所有・交換》をめぐる幾何学的な構造へと転化するものなのであろうか。
この答えは 端的に言って 祭祀の場(ヰ゛ダタ)を司るヰ゛シュヌの有効性いかんにかかっていると思われる。また シワ゛の内面に反映し機能するそのヰ゛シュヌの有効性いかんにである。このヰ゛シュヌの有効性は 一方では ブラフマンの非在的存在(その領域)の――つまりまた同じく シワ゛の内面に反映し機能するそのブラフマンの――有効性いかんにかかっている。(他方では この《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系に対する またそれに拠るところの アジア的社会科学の経験具体的な諸政策であることは言うまでもない)。ブラフマンの領域とは 祭祀の場の中核である祈祷の契機なのである。それは 先に掲げた第四句の中の《祈祷を憎む者の悪意を無効になす》という祈祷の有効性いかんを意味するであろう。
なぜなら 同じ資本制社会であっても 一方の西欧的社会では おそらく――特に コンミューヌ主義によれば―― 祭祀の場は 必ずしも好まれるのものではなく 祈祷に関しては 《祈祷もしくは宗教を行なう者の悪意を無効になす》といった命題が 社会的に掲げられるからである。それに対して 明確に 他方のアジア的社会においては むしろ 《祈祷ないし卜占のたぐい》は 自由にいやというほど行なわれるのであって  その《祈祷を憎む者の悪意のほうを無効になす》という社会的力がはたらくというのが 同じ資本制社会としての現状だからである。西欧社会にも 当然 占いのたぐいは 大なり小なり行なわれており あるいは 占いの氾濫などという卑俗な社会的現象を捉えて それを 社会科学的な考察の対象として 現状は現状だなどと言うと 批判されるかも知れない。ただ こうは言える、概念の類型的な議論による限りで われわれの一つの究極的な判断に際して――たとえば 分配ないし交換するか否かという生産行為に対する判断に際して―― 一方で ロゴスとロゴスによる《契約》に 最終的な根拠があるとするなら 他方では ロゴスを超えた《ウケヒ》に やはりそれがある。このように考えられる範囲内では 上に述べたところは 社会科学的議論であることの正当性を主張できる。
おそらくは アジア的社会形態は 西欧的社会形成態から 基本的に異質であるだろう。ただし――次には 論述の基調が 百八十度 回転するのであるが―― おそらくは 《祈祷が 存在を規定するのではなく 存在が意識(祈祷)を規定するのである》から 祈祷もしくは則天去私もしくは祭祀の場 もしくはヰ゛シュヌやブラフマンの契機は 存続はするものの 自律の神となったシワ゛が その社会形態をそしてその総体的構造を 自律的に運動させて 上に列挙した諸契機を むしろその自己展開の過程の中へと――市民シワ゛の自己展開の過程へと―― すべて摂り込むかのようであると考えられるのである。繰り返すなら おそらくアジア的社会体系は 西欧的社会形成から 異質であるだろう。しかし 資本制社会においては むしろ その総枠組みないし幾何学的制度としては 類型的に同じ形成態を取って その内部において 観念的・抽象的になった旧体制ヰ゛シュヌないしブラフマンを擁しているものと思われる。もっとも ここでわれわれは 論旨を 全く 逆転させたかのようであるが そうではない。それは 次のようなのである。
(つづく→2008-09-01 - caguirofie