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第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――
第一節 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系
§6
ひとまづ ここで 以上の《リグ・ヱ゛ーダ》によって捉えた世界を整理しておこう。
いまは 初源の神ブラフマンおよび傍系の多くの神々を捨象しているが その上で この世界は まづ基本的に 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》連立体系として捉えることができるということ。その第一次的・基本的形態は 《最高の居所(天界)を支えるヰ゛シュヌ》(――天つ国の主宰者アマテラス――)と 《われら子孫を生みつがんことを願うその対象の神であるシワ゛》(――イヅモにおけるスサノヲ――)との相関関係においてあった。《イヅモの国の統治者スサノヲ》が 《高天の原のアマテラス》と初源的連関を保ったことは――少なくとも 記紀体系において そう伝えられたことは―― この点でも 重要である。
次に この体系は 第二次的に しかもやはり基本的な形態として 変容を成す。すなわち ヰ゛シュヌおよびシワ゛の 互いの互いによる揚棄の過程として。シワ゛の側は《ヰ゛シュヌの秘義を悟る方途を知りて 特権者たる汝(ヰ゛シュヌ)のその名を宣言》し そこで 相手方の《ヰ゛シュヌは 〈われは シピヰ゛シュタなり〉と宣言》する。逆に言えば この局面としては 一方で 《ヰ゛シュヌの変容ないし普遍一般化》を表わし 他方では このヰ゛シュヌの変容によって 《この変容をわれらより秘匿するなかれ もし汝(ヰ゛シュヌ)が戦闘において 他の形相をとりたりとせば》というようにして――厳密には 詩人ないし人間界を媒介として そうだというようにして―― シワ゛が自己を展開し その固有の領域において 《自律の神》となって新たに生まれる という位相である。
言いかえれば 同じく《祭祀ないし政治による分配の場》における新たなそのような局面の展開である。変容をとげたヰ゛シュヌに対して この《自律の神》に拠るシワ゛は その限りで 独立を果たす。第一次の共同観念の形態が 内部から 動いて 言わばその衣替え(維新)が為されたという《分配の場(ヰ゛ダタ)=政治(まつりごと)》の自己展開でもある。この局面が 《アジア的な 資本制社会》をも構造的に結構する《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の第二次的形態である。類型的に言って それは 《揚棄されたアマテラス‐独立したスサノヲ》新体制と読み替えて大差ないであろうということであった。以上の整理をもとに 次には シワ゛の前身であるルドラ(原ルドラ→自律の神)の後を承けて その後のシワ゛の展開を見てみよう。
§7
ルドラの後裔の物語は――それは ちょうど イヅモの国の創始者としてのスサノヲから さらに《国作り》を果たすべき・そして後に《アマテラスへの国譲り》を完成させるべきオホクニヌシへと系譜が発展したように―― 《暴風雨神群ルドラを父として牡牛プリシュニを母とするマルト神群〔への讃歌〕》に見出すことができる。
まづ その中から 二・三句を拾ってみよう。
マルト神群讃歌 その一
三 若きルドラ神群(マルト神群)は 老ゆることなく 吝かなる者を殺し 〔みづから〕惜しむことなく 山のごとく成長せり。他界に属するもの 天界に属するもの たとい堅固なりとも 一切万物を力によりて震撼す。
十三 マルト神群よ 汝らが援護もて支援せる人間は 今や力によって〔他の〕人々を凌駕す。かれは競走馬によって勝利の賞を獲得す。勇士によって財宝を。かれは熱望に値する思慮を保有して繁栄す。
同 その二
七 かれら(マルト神群)は威力によりみづから強く増大せり。かれらは蒼穹に登れり。自己のため広き座を作れり。〔ソーマ(神酒)の〕陶酔に興奮したる牡牛(インドラ)を ヰ゛シュヌが支援したるとき かれらは鳥のごとく 〔その〕愛するバルヒスの上に坐したり。
十 かれらは雄力により 〔天界の〕泉を上方におしやりたり。堅牢なる山をも裂きたり。笛を吹きつつ(風) よき賜物に富むマルト神群は ソーマの陶酔裡に 喜ばしき業をなしたり。
端的に言って ここに現われたシワ゛〔の経済行為 または 経済領域としての市民シワ゛〕は 《山のごとく成長》し そこでは 《シワ゛〔をもし 神格とすれば〕の支援を受ける人間は 今や蒼穹に登れり》とうたわれてある。さらに 《堅牢なる山をも裂きたり》と。われわれは このリグ・ヱ゛ーダ詩人らの時代以降のその歴史における このような単純な現象的一致をもって 事足れりとするのでは むろん ない。あくまで そこに 政治学の基礎的な原理を求めようとするのであるが それにしても このようなヱ゛ーダ詩人の啓示ないし黙示は アジア的社会体系に固有の一つの黙示録と見なす誘惑にかられるのはむろんのこと それを 一つの仮説として見ることも 社会科学をそう遠く離れないと言うべきではないであろうか。
アジア的諸社会形態の中で 近代資本制市民社会の発展は もとより その現象にしてもその分析視点にしても 西欧社会の交通によって触発されたものであるとは言え アジア的社会体系に独自の《政治‐経済‐実存》の行為形式ないし生産様式が 当然のことながら 存在し また断片的・萌芽的ながら それが観察・思惟されていたと言い得るのではないだろうか。
この啓示 révélation = ‘η ’αποκαλυψισ 黙示という論点については あとに節を改めて詳しく述べるつもりである。ただ それに関連して ただちに述べるべきことは ちょうど 平田清明によれば 西欧的社会体系の系譜への理解として 《マルクスは 『黙示録』の内に その後の資本制市民社会につながる初源の形態・範式が黙示されているのを読んだ》との了解が 打ち出されていることである。たとえば 平田の著書・《市民社会と社会主義》(1969)の 特に〈五 マルクスにおける経済のと宗教〉や〈六 キリスト教とマルクス主義〉の二つの章を見よ。いづれにしても この平田説に対するわれわれの一批判をも含めて この《シワ゛ないしマルト神群讃歌』ほかにおける黙示については 後の第三節に譲ることにしたい。
その前に 次節では その延期の一つの理由でもある予備的考察として むしろ先に把握すべきであったとも言わなければならない初源の神ブラフマンについて その性格や社会的形態を見てみようと考える。なぜなら 序章においても述べておいたように 《アマテラス‐スサノヲ》体系の理解を 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》の連立体系の中に求めようとすることは それが 必ずしも 閉鎖的・固定的な二元論体系であるというのではなく そうではなく その大きな総体的基盤としては たとえばあくまで《ブラフマン》体制とも言うべき非顕現の唯一神構造に拠って立つということ。またその点において さらに西欧の 絶対唯一の顕現神構造とも その比較が容易になり意義深くなるだろうと考えたこと これらの理由からである。
いま少し先走って このことを言いかえるなら 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》の連立的・階層的な体系のもとにあるという なお 捉え得るということ。それは 神的世界の領域において言うなら これら二柱の神々のさらに上方に在るとされる初源の一柱の神 すなわちこの《ブラフマン》の非顕現的存在に拠って成ると考えられることである。次節をその解明に当てたい。
重ねて述べるなら ブラフマン唯一神構造を把捉し それを 西欧の系譜としての唯一神体系と比較することが 次節の課題である。そのあとで 《黙示録としてのリグ・ヱ゛ーダ》および《聖書のヨハネ黙示録》について それぞれ考察するという順序である。
(つづく→2008-08-28 - caguirofie080828)